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BC5000年 | 上海中医学院(鍼灸大学)に、BC5000年頃の土中から発掘された古代の鍼↓1が展示されている。 |
BC4500年 | アメリカ・テネシー川近くから、関節リウマチにかかっていたと考えられるインディアンの人骨が発掘された。 |
BC3300年 | 鍼治療は、古代中国よりも古くから古代ヨーロッパで行われていた可能性がある。1991年にオーストリアのエッツタール渓谷から発見されたミイラには刺青があり、その位置はツボを連想させる部位が多いようだ。 ⇒詳細 |
BC30C | Sumerian シュメール人 のclay tablets 粘土板(Cuneiform script 楔形文字で書かれている)に、アヘン↓1の最初の記載があった。 ⇒詳細 シュメール人の粘土板の記録では、アヘンのほかに、⇒マンドレーク↓1、⇒ヒヨス↓1なども、鎮痛薬として使われていたことが記載されている |
BC30C | 地中海の Crete Islandクレタ島のKnossosの西のGoziの小さい村の神社から、「Poppy Goddess ケシの女神像」が1936年に発見された。Herakleion Museum所蔵。ミノア文明(前3500〜1500年)のものとみられる。高さ79cmの像で、3本のケシ坊主がついたティアラをつけ、両手を上にあげている。クレタ島では、ケシ↑の実(催眠性ケシ)の皮膜から抽出した液体の鎮静作用が知られていた。 →参考1/2 |
BC2750年 | BC2750年に作られたエジプトの墓の壁に、Nile catfish, Malopterurus electricus (電気↓ナマズ) が刻まれている。 →参考* |
BC27C | Imhotep(P BC 2667〜2648, エジプト第3王朝の医神、古王国時代の賢者)は、最初のピラミッドである階段ピラミッドを作った事で知られる建築家だが、政治家でもあり、神官でもあり、医師でもあった。人身鳥首の神トートから医学を授かったとされる。200種の病気の診断と治療に関する教科書を著した。 Imhotep の医療場所と思われる遺跡からは、高度な治療を施された遺骨が発見されている。彼は患者の痛みを取り去ったという。 |
BC26C頃 (伝説) | 伝説の皇帝である黄帝(前2698ごろ〜前2598ごろ)によって「黄帝内経」が編纂され、「素問」(人体の生理や病理等)、「霊枢」(鍼灸等の医療技術等)に関して記載された。 |
BC23C | 古代バビロニアでは、歯痛が起きた時には、アヌ神に「歯虫祓」の呪文を三度唱え、その後、ヒヨス↑の実と乳香を混ぜたものを虫歯の穴に詰めて、歯痛を治療していた。⇒* |
BC | ケシ↑は、Assyria アッシリア、Babylonia バビロニアにも伝えられ、アッシリア人はケシ汁を"aratpa-pal"と名づけた。植物分類学でのケシ属のラテン名であるPapaverの語源はこのアッシリア名に由来するとされている。ニューヨークメトロポリタン美術館の古代アッシリアのレリーフギャラリーには、女神の天使が長い茎がついたケシの実の束をもっている姿が描かれている。 |
BC | BC3000年頃から現在のイラク北部に住み着いて、BC612年に滅ぼされたアッシリア人は、頸動脈を圧迫↓して、意識を失わせてから手術を行っていた。頸動脈のラテン語は、arteria cartisであるが、これは深い眠りを意味するギリシャ語のκαροαυに由来している。この方法は、古代ギリシャでも行われていた。 |
BC2000年頃 | 神農(しんのうP)は中国神話に登場する王。三皇五帝という時代の「三皇」の一人で、農業と医学の創始者と伝えられている。人間の身体に牛の頭を持っていたとされる。鋤を使って農耕することを人間に教えたことから神農と呼ばれ、火徳(五行思想五行による5つの天性のひとつ)をもって王となったことから炎帝と呼ばれるという。百草を嘗め、川や泉の水を飲んで毒味をし、1日に70もの毒にあたったとされる。365の薬物を残した。 「淮南子」修務訓には、「神農は百種類もの草の効用や味、川や泉の水を味見して、避けるべきものと役に立つものとを人々に分かるようにしたが、一日のうちに七十もの毒に当たった。」とあり、神農の毒味と医薬の始まりについての伝説は、これが源となっている。 |
BC18C | Code of Hammurapi, Code of Hammurabi ハンムラピ法典(世界最古の成文法、バビロン王朝遺跡から発掘された)にも医療行為の報酬、医療過誤の罰則などの規定が明記されている。バビロニア人は、痛みを伴う病気はすべて罪の報いで、悪魔あるいは、魔神の呪いと見なしていた。 →「pain」の語源 ハンムラピ法典に,外科的治療の記載がみられるが、手術のための鎮痛は限られたものである。医者は医師・手術師・獣医・理髪師に区別されていた。医師の地位と手術の報酬を取り決めてある。ハンムラピ法典の第218条:「医師が紳士を治療し、メスで腫物を切開し、患者の眼を保全せる場合は、彼は銀10シケルを受けて可なり。患者もし奴隷なりせばその主人は銀2シケルを払うべし。医師がもし鈍きメスをもって患者を死に至らしめたり、患者の視力を喪失せしめたる場合は医師の手を切り落とすべし。患者もし奴隷なりせば、他の奴隷を補充することを命ずるものなり。」 |
BC1700年頃 | 古代エジプトの古文 Edwin Smith Medical Papyrus:アメリカ人探検家エドウィン・スミスによって入手されたパピルス、ニューヨーク歴史協会所蔵、外科的記載が主で,人体の解剖に関する記載もある。古王国時代の賢者 Imhotepが著者とされる。外傷・骨折・脱臼など48の症例が取扱われ、骨折などは副木をあて、包帯で固定するなど、近代の治療法とほとんど同じ。治療の後には、湿布剤や蜂蜜を塗布する。頭蓋骨穿孔の症例も書き残されている。また頭部の右側を損傷すると左側の手足が利かなくなると記してある。しかしこの時代の多数の文書の中に脳や神経に関する記述は見られない。 エドウィン・スミス・パピルスの中で、傷に対する身体の反応は「shrmemet」と呼ばれていた。shermemetの後には必ず、「火」を示す象形文字が続き、急性の炎症の特徴である赤みと熱を表している。 |
BC1550年頃 | 古代エジプトの古文書Evers Papyrus:ナイル川の東のLuxorの近くの墓の中のミイラの足の間から発見された。ドイツ人エジプト学者のゲオルグ・エーベルスが1872年に、エドウィン・スミスから購入した。ドイツ−ライプチヒ所蔵、内科的記載が主。長さは20m以上・幅30cm・文章の行数は2289行に及ぶ。処方の種類は875種に達する。700種類ものハーブについて記述があり、薬物療法の処方が記されている。アヘンと他のハーブとの混合方法も書かれている。古代エジプトの人々は、鎮痛や睡眠のために、アヘン↑を広く用いていた。泣いている子供をなだめるために、ハエの糞のペーストにケシ汁を混合して与えていた。以後、エジプト、インドや広くヨーロッパで、子供をなだめるために、乳首にアヘンを塗って、吸わせていた。ヒマの皮に水を加えてすりつぶし、痛む頭に塗るという治療も記載されている。12例は呪文を唱えることで治るとされている。 |
古代エジプトの女神イシスは太陽神ラーの頭痛を治すためアヘン↑を用いたといわれる。アヘンのラテン名Opium Thebaicum、アヘンアルカロイドの一つ、テバインはいずれも古代エジプトの町Thebesに由来するといわれている。エジプト人は、マンドレーク↑を、太陽神ラーからの贈り物と信仰していた。 | |
古代エジプトでは、注射器↓1を想像させるような中空の針で、死んだ人が永遠の生命を得られるように、血管に様々な薬物を注入していた。 | |
旧約聖書の創世記にも、マンドレーク↑の記載があり、ヘブライ人も使っていたと思われる。「ルベンは小麦の収穫の頃、出て行ってのにマンドレークを見つけ、それを母レアのところに持っていった。ラケルがレアに言うには、「あなたのこのマンドレークを私に下さい。」レアはラケルに答えて、「私の夫を奪っただけで足りずに、私のこのマンドレークまでもあなたはとろうとするのか。」 | |
BC1500年頃 | 地中海カプリ島(フランス領)から発掘された青銅器時代後期の工芸品の中にもケシ↑の実を模したと思われるものがある。 |
BC13〜11C 殷・周・春秋 | 殷嘘(中国・河南省安陽市の西北約2kmの小屯村の近く、殷(商)の時代の墓)から、「竜骨」が発見され、竜骨に漢字の原型とされる甲骨文字が書かれていた。司馬遷の史記に書かれていた商王朝は、伝説上の王朝と思われていたが、実在していたことが確認された。中国の古代の医術については、史記の扁鵲倉公伝に詳しい記述がある。殷周の時代は、巫医の時代であった。病気はたたりや邪気の致すところである。甲骨:動物の骨に文字を刻み、ヒビの入り方によって病の原因や治療法を占い、治療には祈祷・祭祀が頻繁に用いられていた。外科療法としては、メスとして膿などを去るために、石の先端を矢じりのように研いで鋭利にした「(石乏)石:(へんせき)」や、動物の骨を加工した「骨鍼(こきゅう)」が利用されていた。これは後に「鍼」となったと考えられている。 |
BC1200年〜 | プレインカのケラップで発見されたシャレコウベには、頭蓋穿孔術の痕が発見された。キニーネやコカ↓1の葉などの薬草で麻酔をして、頭を縄で縛って出血を抑え、ツミや黒耀石などの尖頭器具を用いて、穴を開けたと考えらている。⇒詳細 |
BC13C | 大古のギリシャでは、オリンポス12神のアポロンが最古の医神とされ、医術、音楽、詩歌、託宣、牧畜の神とされた。アポロンの子Asklepions(アスクレピオス or Aesculapius エスクラピウス、「アスクレピアスの杖」---蛇の巻きついた杖---は、医学の象徴とされ。)は、地上のすべてを知るヘビとケンタウロスに医術を学んだという。Asklepions は、鎮痛と催眠作用のあるnepenthe1↓(アヘン↑)という薬を患者に与えて、無痛で手術を行っていた。彼の息子のマカオンとポダレイリオスは外科医と内科医との守護神となり、娘のHygieia ヒュゲイアとPanacea パナケアは健康と薬の女神となった。 |
BC10C頃 | 中国で、銅鍼や鉄鍼が使われていた。それ以前に、骨鍼・竹鍼・石鍼などが先行していた。 |
BC9C | Homer(ギリシャの詩人)の叙事詩Ilias(イリアス)やOdyssey(オデッセイ)の中で、アヘン↑)の鎮痛作用について書いている。 Iliasでは、トロイのヘレネ戦争に疲れたギリシャの戦士達に、Nepenthes(ネペンテ)をワインに溶かしたものを振る舞った。Nepenthesは、悲しみや怒りを消失され、最悪の苦悩を忘れさせる「忘却薬drug of forgetfulness」として使われていた。Nepentheの主な原料は、アヘンであった。 Odysseyでは、エジプトの王 Thonis の妻であるPolydamnaは、Jove と Leda の娘であり、Menelausの妻であるHelen にNepentheを与えた。そして、父親の運命を深く心配していたTelemachus(トロイ戦争の英)が、SpartaにいるMenelausを訪問した時、Helen は、Telemachusに、彼の心配を忘れるようにと、Nepenthesを与えた。⇒詳細 →参考1/2/3 ホメロスによると、当時の最高の医師はエジプト人であった。ギリシャの歴史家ヘロドトスもエジプト医学について熱心に語っている。エジプト医学について記録したパピルスもいくつか発見されている。それらを手がかりにして推察すると、古代エジプト人は「死人の悪霊が神から送られて体の開口部、とくに鼻孔から体内に入ると痛みを生じる」と考えていた。 |
BC8C-6C | 古代中国で「山海経」が編纂され、薬効を持つ草木・鉱物について記載された。 |
BC600年頃 | アッシリアの粘土板 Assyrian tablet に、麦角は「穀物の耳(角)の有毒な小結節 noxious pustule in the ear of grain」であると記載されていた。 |
BC520年頃 | Alcmaeon(クロトンのアルクマイオン、アルケメノン、ピタゴラス派の哲学者、解剖学者)は、脳を感覚を集めて記憶する気管であると推測した。エウスタキオ管も発見している。 |
BC5C頃 | Sushruta(Susruta ススルタ、P BC 6C、古代インドの外科と整形外科医の父)が著したSushruta Samhita(ススルタ大医典)の中では、痛みは体内の「風」によって生じると述べている。120以上の外科用器具、300もの外科手術法および8種類の手術区分ついて記述されている。鼻削ぎの刑に対する修復法として、古代インド式造鼻術を行った。。疼痛緩和のためにワインを用い、金や銀、鉄、木製の管に液状のバターを塗布して導尿を行った。 |
BC5C頃 | Democritus(デモクリトス P BC 460〜BC370、分子論をはじめて唱えた)は、体の孔や血管に元素の粒子が進入して、心が目覚めると感覚がおこると考え、粒子の大きさ、形、運動が感覚の性質を決めると考えた。「痛み」は鋭い鍵をもった粒子が体に進入して激しく動き、心の分子の静けさをかき乱したときに起こると説明した。 |
BC5C頃 | タイ古式マッサージの歴史は、仏教の成立にまでさかのぼると言われている。伝説では、仏教の開祖・ゴーダマ・シッタルダの主治医であったと言われる「タイ医学の父」、ジヴァカ・クマール・バッカがタイに伝えたとされている。 |
BC5C | Hippocrates(P ヒポクラテス BC460〜BC377、「古代ギリシアの医聖」、エ−ゲ海コス島生まれ)は、人間の身体は、「血液、黒胆汁、黄胆汁、粘液」の4種類でできているという「四体液説」を唱えた。 ヒポクラテスは、痛みを取り除く仕事を聖なる仕事と呼んだ。医術とは、病気による痛みや苦痛を取り除き、病気の勢いを鎮め、病気に負けた人を救うこと。そして、医師とは、医療者としてふさわしい資質を備えたうえで実地の経験を積み、医術の知識を自分のものとするために、さらに厳しい修行を積んだ者にのみ与えられる資格である。「ヒポクラテスの誓い」は現在でも医の倫理となっている。 痛風についても記述していて、歩行が困難になる病として記載した。西欧では痛風はpodagra(ギリシャ語のpous=foot, agra=attackの複合語)と呼ばれていた。 Hippocratesの文献には、関節疾患の記載があるが、当時のヨーロッパには「関節リウマチ」はなく、コロンブス以後にヨーロッパにもとらされたとされている。Hippocratesは、「rheuma(流れ)」という用語を使ったが、関節をおかす疾患の総称として使わっていた。セイヨウシロヤナギ Salix alba↓の樹皮を「発熱」や「リウマチの痛み」の治療に使用していた。葉の煎じ薬を陣痛の緩和に推奨していた。片頭痛についても記述していた。 アヘン↑の下痢止めと麻薬効果について知っていた可能性があるが、記載はしなかった。ケシからとれるmeconについては記載していた。マンドレーク↑の効果については、「意気消沈を軽減する」と記述していた。 Hippocratesは、マッサージについても記載している。「凡そ医たる者は、医学に関する学科とともに、マッサージの一科をも研究せねばならない」と効力と必要を述べた。 |
BC350年頃 | Parsees パルシー教徒(Zoroaster ゾロアスター教の一派)の聖典には、麦角は「邪悪な穀物 mad grain」とたとえ、「妊娠した女に流産を引き起こしてお産で死なせてしまう有毒な草」と伝えていた。 |
BC4C頃 | 扁鵲(へんじゃく P 古代中国の半鳥半人の姿を持つと伝説上の人物)が脈学を創始した。黄帝内経を元に、鍼灸の診断法と治療法について著された『難経』を著した秦越人は、おそらく扁鵲であるとされている。 |
BC | 中国でも歯痛には、ヤナギ↑の小枝で歯間をこすって治療していたらしい。 |
BC4C頃 | Plato(プラトン P BC427〜BC347)は、外から入り込んだ4元素すなわち、土、空気、火および水が不調和に運動して精神に作用すると「痛み」が起こり、それを心臓が感じとると考えた。 神々は魂に対して死すべき肉体を与えたが、その時、別種の「死すべき魂」を形づくった。これは「恐るべきそして避けることのできない情念」を備えていた。苦痛は、快楽・大胆・恐怖・欲望・希望とならんでこの情念の一種をなしている。古代ギリシャでは、「痛み」は人間の情念(パテーマータ)のひとつと考えられていた。 プラトンの著書の「テイマイオス」には、琥珀が軽いものをひきつけることが書かれている。 プラトンの対話編「Meno メノン」ソクラテス(BC466-399)とメノンという若者が徳について問答の末、「----もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、あなたにどう答えたらよいのやら、さっぱりわからないのですから。"And if I may venture to make a jest upon you, you seem to me both in your appearance and in your power over others to be very like the flat torpedo fish, who torpifies those who come near him and touch him, as you have now torpified me, I think. For my soul and my tongue are really torpid, and I do not know how to answer you.----」徳が何であるかわかっていたつもりだったのに、頭がしびれてわからなくなった。ソクラテス−「---それから、この自分のことだが、もしそのシビレエイが、自分自身がしびれているからこそ、他人もしびれさせるというものなら、いかにも自分はシビレエイに似ているだろう。だが、As to my being a torpedo, if the torpedo is torpid as well as the cause of torpidity in others, then indeed I am a torpedo, but not otherwise---」 |
BC4C頃 | Aristotle(アリストテレス P BC 384〜BC322/3/7, 古代ギリシャの哲学者、Plato↑の弟子)は、「痛み」を五感に含めなかった。彼の著書「De partibus animalium 動物部分論」では、「感覚」の起源は心臓にある。知覚の波が血管に沿って心臓に伝わるが、それが激しいとき「痛いという情緒」が生じると説明した。また、心臓が柔らかくて熱をもち、そこに多量の血液がたまると、痛みが発生するとも説明している。「De anima 霊魂論」に述べている「五感」は「視覚」・「聴覚」・「嗅覚」・「味覚」・「触覚」であった。「痛み」は、感覚ではなく、生理的な反応によってひきおこされる不快や苦しみである情動としてとらえていた。* 疾病に関してはヒポクラテス派の考えを採用し、血液、粘液、黄胆汁および黒胆汁の4体液の不均衡がその原因になるとみなした。* アリストテレスは、topedo シビレエイがヒトをもしびれさせると書いた。 |
BC3C頃 | Theophrastus(P BC372〜287, Aristotleの後継者、「生薬学の父」)の著書「植物の歴史」には、アヘン↑についての記載がある。 |
BC330年頃 | Alexander the Great(マケドニアのアレキサンダー大王, BC356 - BC323)はペルシア遠征の時、兵士の疲れを癒す目的でアヘンを持参した。アヘンは、アレキサンドロスが病に倒れ、ペルシアで客死したのち、程なくインドに伝えられた。東アジアで最初にアヘンに遭遇したのは中国人であるが、それはインド経由ではなく、5世紀にアラビア人によって伝えられたとされる。 |
BC3C頃 | Epicurus(P BC 341〜270, ストア派の哲学者、デモクリトスの流れをくむ。)は、「恐怖と苦痛を除く術」について述べた。われわれ自身の存在に内在する心理を充分に生き抜くには、恐怖と情念を意志によって征服する道しかない。痛みは恐怖の最も一般的な厳選の一つである。ヒトの意志の力によって痛みを完全に征服しなければならない。彼はローマの進歩を当てにしてなかった。自らの精神力によって痛みを克服したのである。 |
BC280年頃 | Herophilos(or Herophilus, BC335〜280 BC, ギリシャアレクサンドリア学派最初の重要な生物学の師、医師)は、人体解剖をはじめて公開で行い、脳が知能の座として、Aristotleの心臓説を退けた。脳は運動と感覚の仲介し、感覚神経と運動神経を区別した。各脳室について記載した。動脈と静脈を区別し,新たに乳糜管を発見し,脳静脈洞についても記載した。 |
BC220年 | 中国の戦国末期から秦漢時代の医学をまとめたものと思われている「内経(だいけい)」は、黄帝(前2698ごろ〜前2598ごろ)↑が岐伯と医学に関して行った問答を記載した形式がとられている。素問および霊樞の2部からなっている。素問は疾病の原因を陰陽二気の不調和によるものとし、木・火・土・金・水の五行説を取り入れ、肝心・脾・肺・腎の5臓器をそれぞれ配している。さらに体の表層に12経絡を想定し、この道を通って種々の病気が各臓腑に達するものと考えている。経路に沿う365の経穴を想定し、そこに針を刺して治療する。12経路に任脈(腹側正中線)と督脈(背側正中線)を加えて、14経路とすることもある。「内経」によると、痛みは外から火や風などの進入して経絡をふさいだときに起こる。痛みの原因は脈をとるとわかるという。霊樞の中には、癲癇および精神病を取り上げた「癲狂篇」があり,古代の精神医学書として特異的なものである。治療法としては、薬物利用とともに、鍼灸の法が述べられている。当時使われていた鍼を特徴で9つに分類した古代九鍼が紹介されている。 |
漢 BC220〜202 | 古代の中国で揚子江流域やその南方は、地質が豊かでさまざまな植物が茂った所ではその根・皮・木・草等を採集して煎じて飲む薬としての療法が発達した。一方、黄河流域は土地が痩せて植物の種類も少なく生育も悪いく、その地域ではヨモギ草を健康食やお灸材(艾)として利用するしかなく、経験的に鍼灸療法が発達したと言われている。この2つの医学は、中国の漢の時代にひとつに集大成されましたので、今日では「漢方医学」と呼ばれている。 |
BC186年 前漢初期 | 湖南省長沙市の馬王堆 Mawangdui 三号漢墓利創の妻の墓(→1973年に出土)から出土した医書によると、経絡理論は鍼治療より前に、灸治療の経験から形成された可能性が示唆された。 |
BC1C | Gaius Julius Caesar(BC100〜BC40)の時代には、痛風や頭痛に対する鎮痛法としてシビレエイ(電気↑)が利用されていた。Caesar自身は関節炎にかかっていたと考えられている。 |
元 BC2〜6年 | 朝鮮人参を薬として使った最古の記録がある。 |
AD30年 | Aulus Cornelius Celsus(P BC25頃〜AD 50頃, 古代ローマの貴族で、著述家、医師)は、医学を含めあらゆる学問に造詣が深く、当時得られた知識を集約して百科全書「De Medicina」(当時の科学書としては珍しく、ギリシャ語ではなくラテン語で書かれたいた。)を編纂した。その中に、アヘン↑とワインを混合した"anodyne pills"は、睡眠を引き起こすことによって苦痛を軽減すると記載していた。マンドレーク↑も鎮痛に使っていた。 「De Medicina」の第3巻で炎症の特徴を「color(熱)とdolor(痛み)を伴ったrubor(発赤)とtumor(腫脹)」と記載した。これは「ケルススの4主徴 Celsus' quadrilateral」呼ばれていたが、Galenus(P 131〜201, ローマ時代の名医)が「機能喪失」を加え、5主徴となった。 |
AD46年 | Scribonius Largus(1〜50, ローマの医師,Emperor Claudiusの主治医1/2/3)が著した「De compositionibus medicamentorum」が16Cに発見され、1529年に出版された。その中に、電気↑魚による痛みの治療の最初の記録がある。「痛風の痛みが始まったら、生きた黒シビレエイ"Black Torpedo"を海岸の波打ち際において、その上に立ち、しびれが膝までおよぶのを待つ。慢性の耐え難い頭痛があるときには、痛みを感じる場所に生きた黒シビレエイをおき、痛みが消えるのを待つ。」 「Compositiones Medicae」に、アヘン↑の収集法について記載した。アヘンは、ケシの葉ではなく、ケシの実の皮膜からえられることを指摘していた。 |
AD1C | Gaius Plinius Secundus(P Pliny the Elder: 大プリニウス, 23〜79, ローマ帝国海外領土総督)は、「博物誌」を著し、マンドレーク↑の使用を記載していた。ケシについて触れている。 |
AD77年 | Pedanius Dioscorides(P AD40?〜90?, シシリー生まれのギリシャ人、ネロ皇帝の軍医、薬物学の祖)は、ローマ軍の遠征に従軍し、中近東・フランス・スペイン・ドイツ・イタリアなど、各地における薬草とその薬効を、自らの観察によって集積した。「De Materia Medica 薬物誌」の中で、アヘン↑の採取方法、摂取方法、鎮静作用と鎮痛作用について記述している。アヘンの製法については、「ケシ坊主」に傷をつけて滲み出る乳液を集めるという方法を詳述している。⇒詳細 opiumアヘンの語源は、古代ギリシア語 opionであり、「汁(poppy juice)」を意味する。疝痛、赤痢に使用されていた「フィロニウム(Philonium)」という鎮痛解毒薬の処方は、「白コショウ、ショウガ、ヒメウイキョウ種子、濾過したアヘン、ケシのシロップ」が配合されていた。 ケシは、少量であれば痛みを和らげ、眠りを誘うが、量が多すぎれば昏睡状態に陥り、やがて死に至る。Dioscoridesは「感覚の喪失」として、「anaesthesia」という用語→を使っていた。 250種にも達するヤナギの中から、活性成分を持つ2,3種を選別した。「セイヨウシロヤナギ ↑の葉の煎じ薬は痛風に効果がある」と述べている。シロヤナギは、ユーラシア大陸に分布し、欧州では川岸などの水辺に普通にみられる柳である。 また、マンドレーク↑から鎮痛薬のマンドラゴラを作っていた。ワインにマンドレークの根を3分の1加えて煮詰め、えられた液を保存する。マンドレークの根をワインで煮込んだ煮汁をローマ軍の遠征に従軍する時にも持っていった。患者の足を切断する時や焼灼する前に、マンドレークワインカップ一杯分(kyathos=about 4.6cc)を与えると、よく眠り、無痛で手術ができた。[参考 Canadian Journal of Anesthesia 47:367-374 (2000)1/2] Dioscoridesは「薬物誌」の中で、イヌサフランも痛風に効くと記載した。←→コルヒチン Dioscoridesは、メンフィスの石 stone of Memphisによる局所麻酔についても記述している。「小片に割って、切開や焼灼の部位に塗りつけると、なんの危惧もなく麻酔を生じる」と述べている。しかし石の小体につては明らかにされていない。 |
AD79年 以前 | AD79年8月24日、ナポリ湾を見下ろすベスビオ火山が大噴火すると、南東10キロに位置したポンペイの町は火山灰に埋もれてしまった。Pompeiiの遺跡の中に、薬種商の店があって、そこにシビレエイ(電気↑魚)を描き込んだ美しいタイルがある。その当時、シビレエイによる治療法がかなり普及していて、治療用のシビレエイを提供していたとみられる。しかしローマ人はシビレエイの実用価値を知っていたが、それが電気を発生するとは考えなかったようである。 参考1/2/3/4 |
AD2C | Aretaeus (Aretaios)(P AD130〜200, カッパドキア Cappadocia)は、頭痛をcephalalgia(軽度の頭痛)、cephalaea(重度の慢性頭痛)、 migraine(片頭痛)に分類していた。片頭痛を「heterocrania」と名づけた。痙攣に伴われる「aura」には、「目の前に紫色や黒色の閃光が走ったり、なにもかもが入り交じって、空いっぱいに広がる虹のように見える」と記載した。破傷風の痛みについても記載している。彼の神経学上もっとも注目すべき発見としては、ブラウンセカール症候群のような症状をすでに記載した。脳の障害ではその対側に麻痺が起こり、脊髄の障害では同側に麻痺が起こることをすでに記載していた。「病変が頭部以下たとえば脊髄膜のような部にはじまると、その病変と同じ側に連絡している部分が麻痺する。 ...しかし、もし主に頭部がその右側でおかされると、左半側の身体が麻痺する... なぜこんなことが起こるかといえば、神経の起始部から見て左右交叉があるからである。神経の経路は....その起始部からみてその反対側に移り、あたかも文字の "X" のように互いに交叉するからである。」 |
AD2C | Galenus(Galen、ルネサンス期以降の文献でClaudius Galenusがみられるが、ギリシャ語文献ではClaudiusに対応する名が見られない。P 131〜201、ローマ時代の名医)は、牡牛の脳を観察し、脳を12箇所に分類し(脳室、四丘体、下垂体など)、脳神経を7対観察している。Galenusは末梢神経が運動と感覚の機能をもつことを知っていた。病気による痛みは末梢神経によって伝えられ、末梢神経が中等度に刺激されると快い感覚を生じ、それが強く刺激されると「痛み」が起こると説明した。皮膚では末梢神経に中等度の刺激が加わると触覚、強い刺激が加わると痛みをひき起こすと考えた。この考えは19世紀の「強度説」と同じである。 Galenusは(自律)神経節を"ganglion"と呼んでいた。脊椎動物の脊柱の内側に頸椎から尾骨まで伸び、ところどころに神経節と呼ばれるふらみを持つ2本の神経があり、神経節から分岐して内臓に達する神経線維を発見した。2本の神経は後に迷走神経として知られる大型の神経によって脳に繋がり、後に白色分岐と呼ばれる神経によって脊髄に繋がっていると考えた。Galenusは神経線維は「動物の魂」を通す中空管であると信じ、内臓は脳から直接「精妙な」感受性を、脊髄からは運動性を与えられると結論した。 最初に「視床 thalami」を名づけたのも Galenusだと言われる。しかし,Galenusがギリシャ語でthalami(thalamosの複数形)と名づけたのは視床より後方で、視神経の起始部と考えられた脳室の側方のようだ。彼は「精神の座は脳室にあり、そこに貯えられた精神精気 psychicon pneuma(ギリシャ語)=spiritus animalis(ラテン語)が視神経を通って眼に送られて視覚が生じる」と考えた。 Galenusは、アヘン↑を熱狂的にたたえた。頭痛、難聴、痙攣、喘息、咳、疝痛、発熱、メランコリーの治療に使用していた。疝痛や他の強力な痛みには、アヘンのみを使用した。当時小買商が巡回して、アヘンを売り歩いた。Galenusは、アヘンを危険な薬物とみなしていたので、強力な催眠鎮痛薬として注意して使うように指導していた。 Galenusは、片頭痛を、他の頭痛から区別し、頭の半分が痛むので "hemicrania(→migraine)" と呼んだ。Galenusは、頭痛、痛風や他の病気の鎮痛のために、電気↑魚のショックを利用していた。Galenusは、生きた電気魚と死んだ電気魚を比較し、死んだシビレエイでは頭痛に効かないことを確かめた。 Galenusは、Aulus Cornelius Celsus↑が唱えた炎症の4主徴に「機能喪失」を加え、5主徴とした。 Galenusは、どのような注射器↑を使っていたか不明であるが、脳血管に薬物を注入していた。 |
AD2C | 華陀 Hua Tuo(P 110〜207, 後漢末の医師)は、世界で最初に、麻酔をして、開胸手術や頭蓋切開を行っていたと言われている。麻沸散を酒と一緒に飲ませて、麻酔をしていた。⇒詳細 五禽戯(ごきんぎ)といわれる導引法(養生術の一種)も考案している。内科、婦人科などのほかにも、鍼灸学における功績があり、今でも頚椎の両側にある24個のツボのことを「華陀挟頚穴」と命名されている。「三国志」の中の「華佗伝」では、魏の曹操の持病の頭痛を治療したが、曹操の侍医になるのを断り、母の病気のためと偽って故郷に帰った華陀は、曹操の怒りを買い、火あぶりの刑に処せられた。(あるいは、敵将関羽を治したと、曹操の怒りをかって殺された。) |
AD2C 後漢 | 張機(P 150〜219, 字・仲景)が一族の多数が傷寒で数多く病死したので、「傷寒雑病論」を編纂した。傷寒論(しょうかんろん)は、全10巻22篇からなる伝統中国医学書。内容は伝染性の病気に対する治療法が中心となっている。また病気の進行具合を太陽(たいよう)・陽明(ようめい)・小陽(ようめい)・太陰(たいいん)・小陰(しょういん)・厥陰(けっちん)の6つの時期にわけ、それぞれの病期に合った薬を処方することが特徴的である。 |
AD200年頃 | 古代ローマで名をなした医師の多くはギリシャ人であったが、彼らは手術の前にワインや眠り薬を飲ませていた。Lucius Apuleius(アプレイウス 123年頃〜180, アフリカ生まれのローマの弁論作家)が、AD200年に書いた記録:「四肢切断、焼灼、縫合するとき、患者にマンドレーク↑半オンスにワインを混ぜて飲ませて、眠らせ、痛みがないようにせよ。“If anyone is to have a member mutilated, burned or sawed let him drink half an ounce with wine, and let him sleep till the member is cut away without any pain or sensation.” (K. Walker, The Story of Medicine)」(Apuleiusの著書:「黄金のロバ Golden Ass, Metamorphoses」巻10では、劇薬の調合を依頼された医師が、犯罪のにおいを感じ、代わりに仮死状態になるだけのマンドラゴラを与える。それを誤って飲んだ男児が倒れ、彼の義兄が無実の罪に問われて、死を宣告される。法廷にあらわれた医師が事情を説明し墓地へ赴いて、息をふきかえした男児を皆に示す。)(10世紀に書かれた「アプレイウス本草書」や「バルドの医療書」には、マンドラゴラは人間の首から数本の大きな葉が放射状に生えた形で描かれているが、もちろんApuleius画家板ものではない。) |
AD3C | 皇甫謐(こうほひつ、後漢、P 215〜282年)らによって、「鍼灸甲乙経」が編纂された。現存する古代最初の系統だった鍼灸の専門書である。人体の部位や経絡に従ってツボの主治症を記録し理論・適応・禁忌等を述べている。「鍼灸甲乙経」は562年に日本に渡る。 |
AD3C | あん摩は古代中国に起こり、日本に渡来した。年代は定かではないが、285年頃とも言う説がある。 |
4C頃 | 中世になるとヨーロッパ南西部でもライ麦の栽培が行われるようになり,貧しい人々の食卓に上るようになり「聖アントニウスの火」が流行した。 |
414年 | 日本書紀によれば、大和朝廷の時代に、日本に鍼が渡来した。允恭天皇の病のため医師を新羅に求め、金波鎮漢紀武が来朝した。 「三年春正月辛酉朔、使いを遣わして良き医を新羅 に求む。秋八月、医、新羅より至でたり。則ち天皇の病を治めしむ。未だ幾時も経ずして、病已に差えぬ。天皇歓びたまいて、厚く医に賞して国に帰したまふ。」 医師・金波鎮漢紀武が日本に滞在した期間はそれほど長いものではなく、医術の教授ではなくて天皇の病を治療するためであった。 |
459年 | 雄略天皇のため百済は高麗の医師徳来を遣わす。徳来は、日本に帰化して難波に住み、代々難波薬師の名で医業を続け、半島の医術を伝えた。 |
539年 | 百済より医博士・採薬師来朝した。 |
562年 欽明天皇 23年 | 大和朝廷は、大伴挟手彦に数万の兵を与えて高句麗に派遣し(日本書紀)、大伴挟手彦が帰国時に智聡(ちそう、帰化人、呉国主、照淵( せうえん )の孫)が渡来した。智聡は内外典楽書、薬ノ書、明堂図六十四巻、仏像一体、伎楽調度一具をもたらした。「明堂図」とは針灸のつぼを図解した人体経穴配置図。智聡は帰化し、息子の善那(ぜんな)は、孝徳天皇に牛乳をしぼって献上したのが、乳利用の最初とされている。「薬書」には、乳製品の効能が説かれていた。 |
6世紀 | Isidorus Hispalensis(560〜636、セヴィーリアの司教)は、術前にマンドレーク↑の根の樹皮を混ぜたワインを飲ませて寝かすと、痛みを感じないことを引用していた。 |
701年 | 奈良朝時代、文武天皇の頃の大宝律令で、日本で最初の医療制度(一般医療科と鍼灸の専門科)が制定され、鍼灸が国家の医療として確立した。按摩博士、按摩師、按摩生(あんまのしょう)も置かれ、医療における一分科として「按摩」が正式に位置づけられました。その後、按摩導引、もみ療治などと言われ、現在に至っています。 |
791年 | 遣隋使などから、数々の医書が輸入され、奈良時代には「鍼博士」の職制が定められました。この頃から医療は鍼灸と湯液が主流になる。 |
808年 平安時代初期 大同3年 | 『大同類聚方(だいどうるいじゅほう)』-全100巻。(日本における唯一の古医方の医学書であるとともに、最古の国定薬局方でもある。)が編纂された。平城天皇は、漢方以外の流入による和方医学の崩壊の危機に瀕している事態を憂慮して、諸国の国造以下の有力な豪族・旧家や神社に対して伝承する古医方を提出させて、これを安倍真直・出雲広貞らによって類聚編纂させた。『日本後紀』によれば、大同3年5月3日に完成が天皇に上奏されたとされている。同年制定された「大同医式」によって、薬品の処方はこれに基づくように定められた。しかし残念なことに、この書物は現存しておらず、日本固有の医学がどのような医学・医術であったかは不明です。 |
857年 | 「ザンテンの修道院年代記 Annales (Annals) Xantenses」に、壊疽性の麦角病(聖アントニウスの火)としての最初の記録として、Rhine Valleyに流行したことが記載された。 |
9世紀 | 中世には、手術の際の鎮痛薬として、アルコール蒸気の利用が試みられた。中世に書かれた多くの文献:イタリア、サルレノ近くのモンテカシノにあるベネディクト修道院にある文献に、、催眠海綿(soporific sponges, sleep sponge, anaesthetic sponge)に関する記載がある。 手術を受ける患者を眠らせて、切開の際の痛みを感じさせない眠り薬の処方。、アヘン↑半オンス、葉から搾ったマンドレーク↑の液8オンス、新鮮な毒ニンジン液、ヒヨス3オンスを充分な水に混ぜて溶液とし、きれいな乾燥海面に含ませて注意深く乾燥させる。手術前には、海綿を温水に浸し、患者の鼻の上に置いて、眠りにつくまで深呼吸させる。手術が終わると、海綿をはずして、覚醒させた。 |
944年 | 「聖アントニウスの火」の最初の大流行があって、フランス南部で一回の流行で4万人が死んだ。 |
宋 96O〜1127 | 穴位や経脈を、具体的に配列した「鍼灸銅人」が誕生した。これによれば「穴に按じ鍼を試しこむ。穴にあたらば鍼入りて水出づ。少しでも違えば鍼入らず…」とこの時期からかなり正確な「ツボ」が判明していたことがわかる。 |
984年 平安時代 永観2年 | 丹波康頼 (たんばやすより P 912〜995、医博士、鍼博士)が、中国医書の引用して、日本最古の医書である「医心方」全30巻を著し、医学の原型を作り上げた。1984年には医師会が、京都の今熊野の医聖堂というお堂がに、「医心方一千年の記念に」という顕彰碑を建てた。「医心方」では、「ツボ(孔穴)」とは異なる、経脈の概念が排除された単なる施灸部位として「灸穴」が示されている。 |
AD10C頃 | Avicenna アヴィセンナ(=Abu ali al-Husain Ibn Abdullah ibn Sina イブン=ルシュド)(P 980〜1037年, 「アラビアの医学の最高峰」)は、伝統的なアラビア医学に、中国・インド・西洋の知恵を取り入れ、イスラムの医学を確立した。著書「医学の規範 The Canon of Medicine」は、それから16世紀に至るまで西洋医学の聖典となる。15 種類の痛みと炎症について記述した。歯痛に亜ヒ酸を初めて使った。アヘン↑を下痢や眼病の治療に推奨していた。アヘンの使用はアラブに普及し、 Avicenna自身も、アヘンを飲み過ぎて死亡したと言われている。この頃、アラブの商人により、アヘンは西へ伝えられた。Muslimsの世界ではワインは禁止されていたので、アヘンの常習者が増えた。 →Avicennaはコーヒーの具体的な飲用法を書き残してた。 |
1095年 | Dauphineドーフィネ州(ウィーンに近いフランス)の領主であるGaston de la Valloireは、聖アントニウスの聖遺骨に祈ると、「聖アントニウスの火」にかかった息子のGerinの病気が治ったので、Saint-Didier de la MotheのSt. Anthony教会の近くに病院を建てた。 |
11C 明 | 明の時代には、400年を経て古くなって判別がしづらくなった「鍼灸銅人」を再鋳造させた。明代の「鍼灸銅人」は365箇所の経穴に実際に鍼を刺せるようになっていて、医者や鍼師の育成に大いに貢献した。王惟一(おういいつ 987〜1067年)が、「鍼灸銅人」の彫刻をした。現在、明代の「鍼灸銅人」は北京の三皇廟内に秘蔵されている。 |
11世紀 12世紀 | 最盛期は11世紀と12世紀で、「聖アントニウスの火」が大流行すると、四肢を切断された患者達が、奇跡による治療を求めて、聖アントニウスの聖遺物を納めた大聖堂に巡礼する光景があちこちで見られた。 |
12世紀 13世紀 | もともとアラブでは、吸入による麻酔についての記載があった。12C後半にSalerno school、13CにUgo Borgognoni(Ugone da Lucca, Hugh of Lucca 1160〜1252)が催眠海綿(soporific sponges, sleep sponge, anaesthetic sponge)を紹介した。Borgognoniで開業していたドミニコ修道会のTheodoric Cervia (Theodoric Borgognoni, 1205〜1298/12/24, Hughの息子、イタリアの内科医、司教)が用いた催眠海綿もSalernoの催眠海綿と同一の成分を含んでいた。Theodoricは、手術時の疼痛を取り除く方法を積極的に採用した最初の外科医の一人である。 |
1275年 | Raymundus Lullius(Raimondus Lullus, Raymond Lully)(P 1232〜1315, スペインの化学者)が、エーテル↓1を発見し、 "sweet oil of vitriol" (oleum dulci vitrioli 甘い硫酸)と名づけた。 |
1311年 | 病弱だった花園天皇の日記「花園院震記」には、歯痛のための鍼灸治療の記録がある。 室町時代、民間には、日本独自の「打鍼術」という本家中国には見られない技術が開発され、鍼灸の主流となっていた。小さなクイのような、鍼としては太い純金製または木製の鍼を、小さなツチで腹部に打ち込むという摩訶不思議な日本独特の鍼術。「打鍼術」の診断には、お腹を手でなで触って体の異常を診断する「腹診」がなされていた。 →参考 |
1330年 | 吉田兼好(1283〜1352)の随筆「徒然草」の第148段に、「四十以後の人、身に灸を加えて三里を焼かざれば、上気の事あり、必ず灸すべし」 |
1363年 | Guy de Chauliac(P 1300〜1368、フランスの外科医、内科医)は、神経幹圧迫↓1による麻痺効果を利用して、手術を行っていた。「Chirurgia magna 大外科学」は、16世紀までもっとも権威あるテキストとなった。 |
1439年 | 「鍼灸大全」(明代)が編纂された。 |
1497年 | Hieronymus Brunschwig(ヒエロニムス・ブルンシュヴィヒ 1450〜1512, ストラスブールの植物学者、薬学者、内科医、外科医)が「Das Buch der Cirurgia」(ドイツで印刷された初めての外科のマニュアル)を出版した。版画に手書きで彩色した美しい本。銃創には毒があると考えられていて、「傷口にクサビをおしこんで開かせ、沸騰したニワトコの油を流しこむと、傷口の肉が油におおわれて外気にふれないようになる」と記述されている*。Brunschwigが1507年に出版した「真正蒸留法」も版画が彩色された本で、薬草・鉱物のリストなどが収録されていて、薬局で買うような「大衆薬」の元になっている。* |
15C後半 | リウマチの治療に、キナの皮から得られるキニーネが用いられ始めた(現在の欧米でのヒドロキシクロロキンの使用につながる)。 |
1507年 | Peter Martyr d'Anghera (Pedro Martir de Anghera)が彼の著書「De Orbe Novo」に南アメリカの矢毒(クラーレ)について記載した。 |
1517年 | Hans von Gersdorff(1489〜1540, ストラスブルグの外科医)が外科教科書:「Feldbuch der Wundarzney」を著した。著書には、その当時恐れられていた「聖アントニウスの火」に侵されて壊疽に陥った下肢を切断する手順が記述されている。挿絵としてJohann Grüninger(1480〜1526, ストラスブルグの画家・木版下絵作家)の木版画が使われた。四肢切断術は古くは壊疽の部分で四肢を切断していたが、ゲェルスブルグの頃は壊疽部よりも近位で切断し、煮沸した油あるいは焼きごてを使って断端を止血し、化膿を予防する手術が行われていた。ゲェルスブルグは、断端の皮膚を縫合せずに、動物の膀胱で包んでいた。術前にはアヘンで眠らせていた。 |
1529年 | 「鍼灸聚英」「鍼灸節要」とともに、鍼灸の集大成ともいえる「鍼灸大成」(1601年)が編纂される。これらによって現代鍼灸の基礎が築かれた。 |
1530年 | 「鍼灸問対」(明代)が編纂された。 |
1540年 | Valerius Cordus(P 1514〜1544, ドイツの医師、植物学者)がはじめて、硫酸とアルコールから硫酸エーテル↑(ジエチルエーテル)を合成した。 |
16C | Paracelsus, Philippus Aureolus(P 1493〜1541, スイスの医師、錬金術師、本名はテオフラテス Theophrastus Phillippus Aureolus Bombastus von Hohenheim, Celsusを超えるという意味でパラケルススと名乗った、スイスのバーゼル大学の医学教授に就任したが、キリスト教を批判したために追放されて、放浪の医者となった。ゲーテの「ファウスト」のモデル。タロットの大アルカナの1「魔術師」のモデル)は、tincture of opium:アヘンチンキ↑(アヘンのアルコール溶液)を「ローダナム Laudanum」(ラテン語laudare:「神を讚える」)と名づけて、鎮痛剤として使用していた。ローダナムとは、手軽に飲める鎮痛剤、麻薬として、特に芸術家の間で、流行していた。Paracelsus自身も常習者となり、イギリスの作家バイロンや、フランスの詩人ボードレールも愛用していた。 Paracelsusは1540に年に、エーテル↑をニワトリに吸わせて、全身麻酔の実験に成功し、エーテルの催眠作用を発見し、「害を与えることなくすべての苦痛を和らげ、すべての疼痛を緩和させる。」と述べた。 「流体」が大地や天体から発され、人体へと流れ込んでおり、人体は磁石のように良性および悪性の発散物を引きつけている。このバランスが崩れた時、人は病気になる。だから、こうした原因で起こる病気に対しては、身体の悪い部分に磁石を当てれば、悪い「流体」が吸い出され、大地や天体へと還ってゆくと考えた。 |
1544年 | 局所麻酔薬として、コカが使用された最初の記述は、Jesuit Bernabe Cobo(1582〜1657, スペイン)によるもので、歯の痛みを和らげるために、コカを噛んだ経験である。 |
1545年 1564年 | Ambroise Paré(P 1510〜1590/12/20, ルネサンス期の床屋外科医 "Physician to the Kings of France")がはじめて幻肢痛の記載をした。戦争に従軍し、開放創、銃創の軟膏による治療、結紮による止血法で外傷、切断肢の治療を行い、治療技術、成績を飛躍的に向上させた。当時切断肢断端の止血は焼灼法が行われていたが、結紮による止血法を復活させ、広めた。 ⇒詳細 |
1551年 | Gabriello Fallopio(Gabriel Fallopius)(ファロッピオ、P 1523〜1562, Vesaliusの2代後のPadova大学の解剖学教授)が、ご遺体の解剖から「Observationes anatomicae」を著す。 Chorda Tympani, the semicircular canals、sphenoid sinus, 三叉神経などについて初めて記載した。ほかにfallopian tubes(子宮と膀胱の結合管)、 vagina、placenta、clitoris、palate、cochleaなどを命名した。 |
1552年 | Bartolomeo Eustachio(P 1520〜1574, ローマのサピエンザ大学の解剖学者)は、1562年から1564年までの論文で、耳管(Eustachian tube =エウスタキオ耳管)、鼓索神経、外転神経、副腎を発見した。初めて交感神経幹を発見したのもEustachioであるが、1552年に著した彼の著書「解剖図」は、1714年までローマ法王庁の書庫に眠っていたので、Thomas Willis↓が発見したことになっていた。 |
1554年 | Jean Francois Fernel(16世紀のアンリ2世の侍医、パリ大学)が著した"Medicina"は生理学、病理学、治療学の3部からなる初めて、生理学 "physiologia"という用語を使った。 |
1560年 | Jean Nicot(P 1530〜1600, リスボン駐在のフランス大使)は、ポルトガル大使時代にアメリカからきた多くの新しい植物に興味を持っていた。Damião de Goes(Nicotの友人の植物学者)からあらゆる病気に効くというタバコ種の植物を貰い受け、大使館の庭に植えて栽培し、研究した。研究の中から、タバコの葉には片頭痛に効く成分が含まれていると確信し、当時片頭痛に悩んでいたQueen Catherine de Medici(フランス王妃)にタバコの葉の粉末を献上し、嗅ぎタバコ(snuff)を勧めた。嗅ぎたばこは痛みを和らげるくしゃみを誘発し、家来たちを驚かせ、これが流行となった。ニコの栄誉を称え、Catherineからこの草に「nicotiana:ニコの草」と名づけることを許された。有効成分のnicotineの名は、このnicotianaに由来するものである。 |
1582年 天正10年 | 織田信長が武田一族を滅ぼすために恵林寺を焼き討ちしたとき、快川紹喜和尚(かいせんじょうき、 〜 1582(天正10年)、安土桃山時代の臨済宗の僧、俗姓は土岐氏)が山門の前で、「心頭滅却すれば火自ら涼し」という辞世の句を詠んだ。 |
1591年 | Prospero Alpini(=Prosper Alpinus, Prospero Alpinio and Prosper Alpin, P 1553/11/23 〜1617/2/6, イタリアーエジプトの内科医、植物学者)が著書「The Medicines of the Egyptians」の中でアヘンの嗜癖opium addictionについて記載した。 |
1596年 万暦23年 | 中国で、アヘンが独立した品目として文献に現れたのは、李時珍(1518年 - 1593年)が著した「本草綱目」(1578年に完成、1596年に南京で上梓された。1892種の本草(生薬)について薬効などを詳しく記述されていて、慶長11年(1606)に日本に輸入された。)である。「阿芙蓉」(あふよう)の名で記載され、阿片は別名とされていた。(日本でもこの名称が使われることもあった。この「阿芙蓉」の語源はケシが芙蓉に似ているから、という説とアヘンをアラビア語で「アフィウーン(アフュヨン)」と呼んだからという説があり。後者の説が一般には説明に使われている。)「前代には聞くことがまれなものであったが、この頃の処方に用いるものがある」とあり、また「これは天方国(アラビア)に産するケシから得られるもので、頭を水につからぬようにし、花が散った後に、青皮を刺してとるものだそうだ」と記載されている。中国でははじめ、赤痢などの激しい下痢の吐瀉薬として用いられたが、「本草綱目」では阿片を主薬とする「一粒金丹」という製剤の記載があり、万能薬として用いられた。 |
16C | 曲直瀬道三(まなせどうさん、1507〜1594)、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)らが、明医学を導入し、京都で医学舎「啓迪院」を創建し、医学教育活動に従事した。金元医学の影響が大きく、陰陽五行説を尊重した。 |
16C | 手術の前に、マンドレーク↑10を飲ませる処方は、中世以降次第にすたれていくが、エリザベス女王治世の英国では、アヘン↑やマンドレークを眠り薬として使用していたと考えられる。William Shakespeare(1545〜1616)の、「ロミオとジュリエット」、「アントニオとクレオパトラ」「オセロ」にも睡眠薬として服用していたことが暗示されている。「オセロ」には、深い眠りをうるためアヘンのシロップを飲むという一場面がある。 |
16C | AD16Cのフランスでは、マンドレーク↑の過量投与による事故が絶えなかったので、マンドレークによる全身麻酔はほとんど行われなかった。ニコラ・バイユリィという床屋外科医が強力な麻薬を使って裁判にかけられたという記録が残っている。フランスでは、アルコール飲料を飲ませて酔わせる方法、あるいは、頸動脈の圧迫↑が行われ、手術をできるだけ早くすませるのが最も良いとされていた。 |
16C | Guillaume Baillou(1558-1616)は初めてリウマチが全身の筋・骨格の症候であると述べた。 |
1600年前後 慶長年間 | 鍼灸諸流派と新興の鍼医が、「十四経発揮」などの影響から、経脈との関係に注目し始め、「経穴」という概念が、江戸中期になって、本格的に成立した。 |
御薗意斎(1557〜1616)が、打鍼法を考案した。金の鍼を使い、主に腹部の硬い部分に鍼を立てて木槌で鍼の頭を少しずつ叩いていく。天皇の牡丹を鍼で治したというので、「御薗」の名前を授かった。中国から最初に伝えられた撚鍼法(捻鍼)は、道具を使わずに、鍼体に挿入するので、下手な人がすると、切皮(鍼が皮膚に侵入する)時に大変な痛みを生じさせる。 | |
17C | Jean Baptista van Helmont(P 1579-1644, ベルギーの内科医、「医療化学派のリーダー」)は、アヘン↑を頻繁に使ったので、アヘン博士 Doctor opiatusと呼ばれていた。 |
1641年 1662年 | Rene Descartes(P 1596〜1650, フランスの哲学者)は「心身二元論」を押し進め、身体を機械として扱う思想を根付かせた。「身体機械論」により、痛みが科学的に捉えられるようになった。1641年に著した「省察 Meditationes de prima philosophia」の中で幻肢痛について記載している。 彼の死後に出版された「人間論 De Homine (Treatise of Man)」では、痛みの「反射」の概念を説明されている。 ⇒詳細/関連* |
1646年 | Marco Aureliano Severino(1580-1656, ナポリの解剖学教授、外科医)の著書「De Novis Usa Medico(最初の外科病理学の教科書)」の中に、雪と氷を用いた冷却麻酔について記載してた。彼のデンマーク人の弟子の Thomas Bartholinは、「refrigeration anaesthesia」と記載していた。1/2/3/ |
1663年 | Otto Von Guericke(P 1602〜1686、数学者、物理学者、市長)が摩擦起電器 electroricity generator, electrical generator の原型を発明した。1/2/ |
1664年 | Thomas Willis(P 1621〜1675, Oxford大学の自然哲学教授、ロンドンの開業医で、Charles I of Englandの侍医、解剖学者)が、「Anatomy of the brain, with adescription of the nerves and their function」を著し、視床・レンズ核・線条体などを命名した。「thalami」という用語はすでにGalenusが使っていたが、視神経が終わる視覚路の重要な部位だとされてきた。Willisは、「Thalamus opticus(=視室)」という用語を使い、その後視床後部の外側膝状体以外は視覚路とは関係がないことがわかり、opticusが外されてthalamusだけになった。副神経や交感神経幹も発見したことになっていたが、交感神経幹はBartolomeo Eustachio↑が見つけていた。 Willisの名は「ウィリアム動脈輪」に名が残っているが、これもすでにGabriello Fallopio↑が見つけていた。 血管拡張による頭痛に伴われる輝性暗点についても記載している。片頭痛の治療法としてナツシロギク、そして、コーヒー(17世紀の中ごろにオックスフォードに伝えられる)を紹介している。 |
1656年 | 静脈内麻酔↓1 intravenous anesthesiaは、Robert Boyle(1627〜1691)によって試みられ、Christopher Wren(P 1632〜1723、St. Paul's Cathedralを設計した英国の建築家)によって、立案された。Wrenは、ブタの膀胱にガチョウの羽軸を中空にして付けた自作の注射器↑3で、自分の犬にアヘン↑などの薬物を注入しようとしていた。召使いにもアヘンを注入しようとしたが、気を失ったので、実験を中止した。 参考1/1 |
1665年 1667年 | Johann Sigmund Elsholtz(P 1623〜1688, ドイツの医師)とJohann Daniel Major(1634〜1693, ドイツの外科医、Padua大学で学位)は、人の静脈注射↓2と点滴療法に成功した。イヌでアヘン↑の静脈内注射による全身麻酔手術を行った。 |
1667年 | Thomas Willis↑(P 1621〜1675, ロンドンの開業医でチャールズ2世の侍医、解剖学者)が、「脳疾患」という著作を書き、進行麻痺、アカシジアあるいはレストレスレッグス症候群、ナルコレプシー、髄膜炎などを報告した。 |
1670年 | Thuillier(フランスの内科医)が「聖アントニウスの火」について研究した。病気は都市部よりも農村で、しかも弱い子供などに多いことがわかった。家族全員がかかるのではないので、感染症でない。都市部では牛肉、七面鳥、トリフや白いパンを食べ、病気がはやっている地域では、豚肉と豆とライ麦パン rye breadを食べている。農民はライ麦の先に雄鳥の蹴爪のような麦角を含めた小麦粉からライ麦パンを作っているが、Thuillierは錬金術師が分娩促進剤に麦角を使っていることを知っていた。しかも麦角がたくさんついている年に、病気が大流行することもわかった。それで、Thuillierは病気の原因は大気や水に原因があるのではなく、ライ麦パンにあると結論したが、農民はそれを信じなかった。 |
1675年 | Baruch (Benedict) De Spinoza スピノザ(P 1632/11/24〜1677/2/21年, オランダのユダヤ系哲学者、神学者)は、「エチカ Ethica ordine geometrico demonstrata」の中で、痛みは身体の一部に限局した苦しみである」と述べた。 デカルトとは異なり、スピノザは、情動としての痛みをとらえ、悲嘆と憂鬱を痛みがもつある種の特性としてとらえている。 スピノザは一元論的な人間理解を主張していて、「精神」と「身体」は、人間というひとつのものをそれぞれ別の側面から見た場合にすぎない。痛いと思う気持ちと、痛みという感覚とは、どちらも身体が傷ついたという同じ現象に対する反応の、別の現れ方なのである。 |
1676 年 | Denis Dodartがライ麦パンの毒と麦角に侵されたライ麦との関係を記録し、「聖アントニウスの火」が麦角によることを同定し、French Royal Academy of Sciencesに報告し、翌年John Rayが英国で紹介した。 |
1677年 | John Locke(P1632〜1704, 英国の哲学者、内科医、Sydenhamの友人)が、駐仏英国大使ノーザンバランド婦人 Countess of Northumberland, wife of the Ambassador to Franceの三叉神経痛について、書簡の中で書いていた。 |
1678年 | Stefano Lorenzini(1645(1652)〜1725, イタリアの科学者)がシビレエイ(電気↑魚)の皮をむいて露出した筋肉に触れるとショックを感じること、そしてショックを感じるのは特別な筋肉が収縮したときだけであることを発見した。 |
1680年 | Thomas Sydenham(P 1624〜1689, 英国での医学の先駆者であり、English Hippocratesと呼ばれていた。)流行病の伝染のメカニズムを発見していた。痛みの治療においても、系統的な治療を提唱していた。貧血に鉄を、マラリアにの特効薬として、キナ皮の使用を普及させた。猩紅熱やヒステリー、小舞踏病についてもはじめて記載していた。Sydenhamは「tincture of opium:アヘン↑チンキ」を"Sydenham's Laudanum"として売り出した。ワイン、ハーブ、ミカンジュースにアヘンを配合し、サフラン、シナモン、クローバーなどのフレーバーをつけた。人々を恐怖に陥れていた伝染病ペストにも有効であり、「全能の神が人々の苦悩を救うために与え賜うた薬物の中で、アヘンほど万能で有効なものはない」と言った。当時のヨーロッパで流行したので、"Opiophilos; lover of opium"と呼ばれた。 Sydenhamは痛風を患っていた。痛風は古来、他の関節炎と分けて語られることはなかったが、Sydenhamが初めて痛風とリウマチ熱とをわけて記載した。さらには慢性化するリウマチ熱があると述べており、これは現在の関節リウマチに相当すると考えられている。 |
将軍綱吉に鍼灸医術の振興を命じられた杉山和一(1610〜1694)が、管鍼法を開発した。管鍼法とは、俗に言う日本鍼で、御薗意斎の打鍼法を盲人の使いやすいように改良したもの。細い管を使って、鍼のリードをさせ、木槌の代わりに指で鍼の頭を叩く。これにより刺すときの痛みが減少した。和一は、盲人に鍼・按摩の教育をし、盲人の職業として鍼・按摩を定着させた。この頃、オランダ医学が日本に入り始めりが、その蘭学医のシーボルトらは、日本で鍼灸を学び、帰国後ヨーロッパにおいてそれを伝えたとされている。お灸の材料にはモグサ(Moxa)と日本名で、広く欧州にもモグサを紹介している。 | |
1684年 | George Wolfgang Wedel(1645〜1721, ドイツJena大学の医学の教授)は、アヘン↑の危険性を警告した。 |
1689年 | 琉球の御殿医高峰徳明は、黄会友(中国・清)を学んで、全身麻酔 (?) による口唇裂の手術を行った。 |
1689年 | 松尾芭蕉(1644〜1694)の紀行文「奥の細道」に、三里の灸が出てくる。旧暦の元禄2年3月27日に、江戸・深川の庵を出て、奥羽・北陸を経て、3月27日に、美濃・大垣に至る約2400kmを踏破した時、「もゝ引きの破をつづり、笠の緒を付けかえて、三里に灸すゆるより松島の月」の一節を詠む。足三里は、健脚のツボ、胃腸の働きを調整する代表的な経穴。昔、旅人は旅先での食あたりや水あたりの予防にお灸をした。 |
1692年 | 米国東海岸マサチューセッツ州のセーラムで、壊疽、麻痺、痙攣を症状とする原因不明の疫病が拡がった↑。その当時は原因不明であったため、魔女の呪いと考え、疑心暗鬼となってお互いを告発し、広い範囲で魔女狩りが行われた。1692年の魔女裁判(The Salem Witch Trials)では死刑判決により多くの犠牲者を出した。魔女裁判は無知による不幸な事件として欧米人に記憶され、戯曲、映画、博物館などのテーマとなっている。1/2 |
17C | 安土桃山時代から江戸時代、宗教医学を改め、中国医学を日本化した実証医学の開祖、曲直瀬道三(李朱医学系の啓迪集八巻)は道三流鍼灸として、天皇や幕府に信任が厚かった。 |
インドへは回教とともにアヘン↑が入った。回教は飲酒を禁じていたので、阿片の普及を助長した。 |
1713年 正徳3年 | 貝原益軒(宝永7年=1630〜1714)が著した本に「養生訓」では、「毎日少しずつ労働するのがよい。長く座っていてはいけない。食後の散歩は必要で、庭の中を数百歩静かに歩くだけでよい。雨の日には、室内を幾度も歩くがよい。こうして日々朝晩運動すれば、鍼・灸を使わないでも、飲食はすすみ血気の滞りなく病なし。鍼・灸をして熱い思いや痛みに耐えるよりも、軽い運動をすれば、痛い思いをせずして楽に健康を保持することができる。」 |
1722年 | Peter the Great(ロシア帝国のピョートル大帝(1世))はコンスタンティノープルの港を支配しようとするが、ライ麦を食べるコザックの兵士もウマも中毒のため、ボルガの河口から進むことができなかった。 |
1730年 | それまでsweet vitriolと呼ばれていた化学物質を、August Siegmund Frobenius(ドイツの化学者)がether↑と命名した。(ギリシャ語の"発火"または、"炎"に由来する。) |
1732年 | Jacques Benigne Winslow(P 1669/4/17〜1760/3/3, デンマーク出身パリ Jardin du Royの解剖学者)が「交感神経」ではなく、「自律神経」に対して、内臓器官の間の相互作用に関わる神経という意味で、"nervus sympathicus"と命名した。交感神経幹とその枝をgrand sympathique(大交感神経)、脳神経に含まれる内臓枝(=副交感神経)をpetit sympathetique(小交感神経)、迷走神経をsympathique intermediaire(中間交感神経)と命名した。 →Langley |
1732年 | Thomas Dover(1660〜1742, Sydenham↑の弟子)は、痛風の薬として「Dover's powder:ドーフル散(=アヘン・トコン散)、発汗散」を作り、1788年にはイギリスの薬局方に採用された。 ドーフル散の中身は「アヘン↑1オンス、硝石と酒石酸カリウムを4オンス、カンゾウを1オンス、トコンを1オンス取り、硝石と酒石酸カリウムを灼熱した容器で焼却し、粉砕し、アヘンをスライスして粉末として混合」したものでして、これを白ワインのミルク酒に40〜60ないし70グレイン(1グレイン=約65mg)を加えて処方していた。(その当時アヘンを飲み過ぎて死ぬ人がいたので、飲み過ぎ防止のために、去痰・催吐作用のあるトコンを加えたと言われている。)ドーヴァーの死後、ドーフル散は一時期忘れ去られるが、後にKing George II(ジョージ二世)の加護を受けていたJoshua Ward(1684-1761, ロンドンのにせ医師?)により再発見され、一躍有名になった。(ドーヴァーは、世界探検旅行もしている。政府の密命を受けて女王陛下の船Duke号の船長となり、1709年22月22日にJuan Fernandez islandsで、Alexander Selkirk(Daniel DefoeのRobinson Crusoeのモデル)を救出している。ドーヴァーはスペインのフリゲート艦を捕獲し、財宝を満載して帰国している。) |
1746年 | Petrus van Musschenbroek(P 1692/3/14〜 1761/9/19, オランダライデン大学)がライデン瓶 Leyden Jar*を発明し、放電実験を行った。ライデン瓶は、ガラス瓶の内側と外側を錫箔でコーティングしたもので、内側のコーティングは金属製の鎖を通して終端が金属球となっているロッドに接続される。摩擦起電力をライデン瓶につないで電気を発生させた後、両者をつないでいた針金をヒトや動物に触れさせると、蓄えられていた電気が放電し、足の筋肉が動いた。 |
1746年 | Christian Gottlieb Kratzenstein(1723〜1795) が、ライデン瓶を使って、電気↑治療を始めた。 |
1745年 | Jean-Antoine Nollet(1700/11/19〜1770/4/25、フランスの神父、物理学者)は、「物体の電気の原因についての推察」で、電気流体による説明をした。電極を封入した真空管に手を触れると放電模様が千変万化することを示した。ライデン瓶を広め、宮廷でも実験を披露した。 |
1748年 | Johann Friedrich Meckel, the Elder(P 1724/7/31〜1774/11/18, ベルリンの解剖学者)が三叉神経の神経節は硬膜に覆われていることを記載した。(Meckelの名はMeckel's cave メッケル腔として残っている。) |
1752年 | Benjamin Franklin(P 1706/1/6〜 1790/4/17, アメリカ合衆国の政治家)は、ライデン瓶の実験を知り、電気に興味を持った。1752年、雷の中で糸にライデン瓶をつけて凧をあげ、わざと落雷させるという実験を行った。このライデン瓶が帯電していたことから、雷が電気であることを証明した。また、雷の電気はプラスとマイナスの両方の極性があることも確認した。 |
1755年 | Joseph Black(P 1728/4/16〜1799/11/10, スコットランドの物理学者、化学者)が炭酸マグネシウムを熱分解して酸化マグネシウムになることを示し、その時発生する二酸化炭素に固体空気 fixed airと名づけた。 |
1756年 | Nicolas André (P 1704〜 , フランスの外科医)が、食事、咳、喀出、顔面の接触などで、発作性に誘発されることが特徴である疾患を報告した。彼が診た患者のすべてが顔をゆがめたことから、Tic douloureuxと命名し、著書「Observations pratiques sur les maladies de l’urethre et sur plusiers faits convulsifs」に記載した。これが三叉神経痛についての医学的な最初の記載かもしれない。 |
1763年 | Edmund Stone(1702〜1768, イギリスCipping Nortonの田舎牧師)は、その当時マラリアや発熱にはキナ皮が使われていたが、高価だったので、代用薬としてヤナギの樹皮を使ったところ解熱作用があることがわかったので、ロンドンの王立協会に書き送った。 |
1764年 | Domenico Felice Antonio Cotugno(コトゥーニョ P 1736/1/29〜1822/10/6, ナポリ大の内科医)が著書に坐骨神経痛(Cotugno's disease)の記載(坐骨神経の走行と一致する痛みの記載)をした。 |
1765年 | Antonius Hirshが三叉神経節を記載した。彼の恩師Johann Lorentz Gasser(1723〜1765, オーストリアの解剖学者)に敬意を表して、ガッセル神経節と命名した。 |
1766年 | Albrecht von Haller(P 1708〜1777, スイスの医学者、植物学者、ゲッチンゲン大学の自然科学の初代教授、近代生理学の大成者)は、生れ故郷ベルンで1757-1766年に「人体生理学要綱」8巻を執筆した。神経・筋は個体の死亡後もしばらく機能が維持されるので、生命力自体とは異なる、内在的な性質があると考えた。さまざまな実験を繰り返した末、与えられた刺激に運動によって反応する能力、すなわち「刺激反応性(興奮性)irritable」と、刺激を感覚する能力である「感受性 sensibility」とを身体に見出した。前者は筋肉に、後者は神経に備わった特性とされる。動物に対する刺激が明白な疼痛徴候や不穏を生じる場合、その部位には感受性がある。感受性のない組織は、「触刺激を受けても、疼痛徴候や痙攣を生じない。触刺激を受けて引っ込めるような場合、人体のその部位に刺激反応性がある。 |
1769年 | Edward Bancroft(アメリカの科学者)が電気魚torpedo fishのショックがライデン瓶のショックと同じであることを示した。 |
1772年 | Joseph Priestley(P 1733〜1804, 英の化学者)が笑気(亜酸化窒素 N2O)を発見した。 |
1772年 | John Walsh(P 1725/3/9〜1795, イギリスの科学者)はデンキウナギ electric eel Electrophorus electricusを水から出したらスパークを発生させないが、水中でスパークを発生させることを示した。 |
1773年 | John Fothergill(P 1733〜1804, 英国)が三叉神経痛の14例の患者の臨床症状を詳細に記録した。それらの集大成を甥のSamuel Fothergillが後年単行本として刊行し、医学の古典となった。以後英国では、三叉神経痛はFothergill disease ファザジル病と呼ばれていた。Fothergillは三叉神経痛の治療に、キナの樹皮(cinchona tree, Peruvian bark) を使っていた。 |
1774年 | Franz Anton Mesmer(P 1734〜1815, ウィーン、パリの医師)の動物磁気による催眠治療 |
1774年 安永3年 | 杉田玄白(P 1733 享保18年年〜1817 文化14年、蘭学者)らが、オランダの医学書「ターヘル・ アナトミア:解体新書」を翻訳した。その中に、視床の記載もあり、「gezigt-zenuw-kamers(=thalamus nervosum opticum)」を「瞳神経室」と訳していた。 |
1776年 | 平賀源内(P1728〜1779, 蘭学者・作家)が、「エレキテル」を作り治療に応用しようとした。初めは電気↑治療器としてよりも、好事家や庶民の好奇の対象として見世物にもなった。当時の電気治療は、今日の電位治療器とは違い、身体に直接電気を通した。 |
1778年 | Samuel Thomas von Soemmering(P 1755/1/28〜1880/3/2, フランクフルトの解剖学者、生理学者)が脳神経を分類した。三叉神経を第V脳神経として分類した。 |
1782年 | Jean-Paul Marat(P 1743〜1793/7/13、フランス革命の指導的政治家)は、フランス革命が始まる前、イギリスやフランスで、ライデン瓶と摩擦起電器を使った痛みの電気治療を行っていた。1782年に、"Recherchs physique sur l'electricite"を出版し、1784年に"Memories sur l'electricale"をパリ・アカデミーの賞を授賞した。ダントン ・ロベスピエールらとともにジャコバン左派のモンタニャール(山岳派)に属して活躍。マラーは皮膚病を患っていて、薬草の入った風呂に毎日何時間も患っていた。マラーは自宅で入浴中、ジロンド派の女性、Marie-Anne Charlotte Corday d'Armont(シャルロット・コルデー 1768〜1793)に刺殺された。以後、革命の殉教者として民衆の崇拝の対象となった。画家でもあり同志でもあるJacques Louis David(ジャック・ルイ・ダヴィッド 1748/8/30〜1825/12/29)によって描かれた「マラーの死」はベルギー王立美術館Musees Royaux des Beaux-Arts de Belgiqueとルーヴルにある。オリジナルはブリュッセルの王立美術館のもので、ルーヴルのものはダヴィッド本人による模写。 1/2 |
1786年 1791年 | Luigi Aloysius Galvani(P 1737〜1798, イタリアボローニア大学 Bolognaの生理学者、神経電気生理学の始祖)が、動物の神経の内部に動物電気が存在して いるという「動物電気 "animal electricity"↑説 galvanism」 を提唱した。この説にVoltaは反論し、以後10年間の論争になった。 ⇒詳細 |
18C末 1794年 | John Hunter(P 1728〜1793、英国の外科医、解剖学者)は、局所を冷却して、その部位の感覚を麻痺させてから、メスを加えることをすすめていた。Seven Years' War(1756〜1763)にも従軍し、彼の死後(1794)に「A Treatise on Blood, Inflammation and Gun-Shot Wounds」が出版された。 Hunterは神経圧迫法を四肢切断に使用していた。手術の1時間前に四肢の周囲に金属を巻き、スクリューで締め付けた。この方法では手術による強い痛みは軽減したが、圧迫による痛みが生じ、さらに循環を傷害するため、組織を傷つけ感染が起こりやすかった。 |
1794年 | Erasmus Darwin(P 1731/12/12〜1802/4/18, Charles Darwinの祖父, 医師、博物学者、詩人、ロンドンの「ルナ・ソサエティー Lunar Society」の創設者)は、生物進化について考えをまとめ「ゾーノミア Zoonomia」の中で、過度の刺激によって温覚、触覚、視覚、味覚あるいは嗅覚が誇張されると痛みが起こるという考えを発表した。 →強度説 |
Thomas Beddoes(P 1760/4/13〜1808/12/24, 英国Bristolの気体医学研究所 Pneumatic Institution)とRichard Pearsonは、Joseph Priestley↑に影響されて、エーテルを肺結核 phthisis、カタル熱 catarrhal fever、 膀胱結石 bladder calculus、壊血病 scurvyなどの治療に使用した。 | |
1799年 | Sir Humphry Davy(P 1778/12/17〜1829/5/29, イギリスの化学者、Thomas Beddoes↑の助手)が、笑気ガス↑の麻酔作用を発見した。Beddoesの研究所では、当時次々と発見されていた各種気体の臨床応用の可能性を追求していて、Davyは笑気の研究中に、たまたま酩酊効果を自ら体験した。ガスを吸った後に顔筋麻痺により笑顔を呈することから、「Laughing gas」と命名した。その麻酔効果を、研究所を訪ねてきた友人にガスを吸入してもらい、その成果を披露した。彼自身の智歯を抜いた後の激痛を笑気ガスの吸入で抑制されたことから、外科手術の時の苦痛を軽減できる可能性示唆した。---全身麻酔の始まり!1800年に論文「Researches, Chemical and Philosophical」として発表したが、医学の用途は限られており、今日のシンナー遊びに似た笑気ガス遊びが若者の間に流行するきっかけになってしまった。 |
1797年 | Horatio Nelson提督(1758/9/29日〜1805/10/21、イギリス海軍提督、トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊を破り、ナポレオンによる制海権獲得・英本土侵攻を阻止したが、それと引き換えに自身は戦死)は、1797年、カナリア諸島のテネリフェ島の攻略に失敗する。マスケット銃で右肘上部の動脈を傷つけられ、上腕骨を粉砕されたので、右上肢切断術が船上で行われた。Nelsonはメスが冷たかったという不平を述べ、温かいメスはほとんど不快感を生じなかったという個人的経験から、戦闘に入る前に船内のすべてのメスを暖めておくように命じたという。片眼隻腕の提督となったが、その後もひるまず戦い続けた。しかし、耐え難い幻肢痛が右手の指に現れた。右腕切断後に幻の手に指が食い込むような感覚を経験したが、「この幽霊は魂が存在する直接の証である」と割り切って克服した。 |
18C末 | Charles Bell(P 1774〜1842)が著した外科学教科書に、下肢切断に用いた、末梢神経圧迫による伝達麻酔法が記載されていた。 |
18C末 | Pehr Henrik Ling(P 1776/11/15〜1839/5/3, スウェーデン体操の父)は解剖学と生理学を学び、治療体操の一環としてマッサージを導入した。この治療体操がドイツ、フランス、オランダ等の諸国に普及した。オランダJohan Georg Mezger(1838〜1909)が、マッサージの効果を医療技術として紹介し、手技を選定し理論を築いた。 |
19世紀は、人類の長年の夢である「痛みからの開放」が「全身麻酔」技術の発展として花開いた世紀であった。世界に先駆けて全身麻酔を行ったのは華岡青洲による初めての全身麻酔手術(1804年)である。Wellsによる笑気麻酔(1845年)、Mortonによるエーテル麻酔(1846年)、Simpsonによるクロロホルム麻酔(1847年)の成功、そしてPravazによる注射器の開発(1852年)が、現在の全身麻酔の基盤となった。局所麻酔は少し遅れて、Kollerによるコカインの麻酔である(1884年)。(それまでは、患部を冷却によって麻痺させていた↓。) |
1800年 | Augustin-Jacob Landre-Beauvais(1772/4/4〜1840, フランスサルペトリエール病院)が学位論文でリウマチと痛風を明確に区別した。[PubMed] |
1801年 | Alessandro Volta(P 1745〜1827)が「ボルタの電池」を発明した。その後Voltaは、Galvaniの「動物電気説」に反論し、以後10年間の論争になった。Galvaniは、動物の筋肉には電気が蓄えられていると考えたが、Voltaは電気は筋肉に由来するものではなく、金属に由来するものと考えた。1801年頃Voltaは、銀とスズの板を互い違いに何層にも重ね、そこに食塩水をかけると電流が発生することを発見した。Napoleon Bonaparte がオーストリア皇帝を名乗っていた1810年から1815年、NapoleonはVoltaに敬意を評し、Padua哲学教授の称号を贈った。 |
1803年 | Jean-Francois Derosne(1774〜1855, パリの薬剤師)はアヘンの麻酔作用成分としてNarcotineを単離したと発表した。(後にNarcotineには麻酔作用はなかったのでノスカピンと改称され、現在では鎮咳薬として用いられる。) |
1806年 | ドイツの20歳の若き薬剤師Friedrich Wilhelm Adam Serturner(P 1783〜1841)がアヘンの抽出に成功した。 ⇒詳細 |
1804年 | (文化1)華岡青洲(P 1760(宝歴10)〜1835(天保12))は、中国三国時代の名医:華陀に心酔し、経口全身麻酔薬の「通仙散(つうせんさん)」を開発し、世界で初めて麻酔下で乳がんの出術をした。 ⇒詳細 |
1808年 | David Dundasが初めてリウマチ熱Rheumatic feverの用語を用いた。 |
1809年 | François Magendie↓(P 1783〜1855, フランスの実験生理学のパイオニア)は、植物アルカロイドにも興味を持ち、彼の最初の研究はストリキニーネにも興味を持ち、最初にストリキニーネについて研究した。イヌにヌックス・ホミカを投与し、痙攣作用に脊髄が関与していることを確認した。モルヒネ、キニーネ、コデインに関してもフランスの医学実験に紹介した。 |
1808年 1812年 | Baron Dominique Jean Larrey(P 1766/7/8〜1842/7/25、ナポレオン軍の軍医)は、スペイン戦争(1808年)で多くの四肢切断の経験をしている。ナポレオンの軍隊がボロディノで帝政ロシアの軍隊と戦ったとき、凍った四肢は痛みを伴わずに切断できることを観察し、切断部を雪や氷で冷やした。Borodinoでは24時間に200例もの四肢切断術を施し、Berezina Riverでも300例もの四肢切断術を施した。 |
1809年 | Luigi Rolando (P 1773〜1831, イタリアの解剖学者)が「膠様質 substantia gelatinosa Rolandi」を記載した。 |
1809年 | Johann Christian Reil(P 1759-1813, オランダの精神病理学者、ロマン派精神医学者、ハレ大-ベルリン大学初代病院長)が後索核から視床への内側毛帯を記載した。 Reilは初めて島皮質を学術的に取り上げ、これにより「ライルの島(insula)」と呼ばれている。 |
1811年 | Charles Bell(P 1774〜1842)は、気絶させたロバの脊髄の前根を刺激すると痙攣が起こるが、後根を傷害しても特に症状が認められないことを観察して、「前根は運動、知覚の中枢である大脳と末梢神経を結び、後根は植物機能を司る小脳と末梢神経をつなぐ」と推論し、1811年に学会発表し、論文を自費出版をした。Magendieが1822年に、「前根は運動性で、後根は知覚性である」ことを報告するが、これらの研究の優先権はどちらにあるかという論争が続いた結果、「Bell-Magendie law ベルーマジャンディーの法則」と呼ぶことに落ち着いた。 |
1812年 | Sir Benjamin Brodie(P 1783〜1862, 英国の外科医)がcurareを命名した。 |
1813年 | (文化10年)0月13日青洲↑の麻酔術は「門外不出」で普及しなかったとされてきたが、宮河順達(青洲の弟子)が杉田玄白の一門に麻酔術を教え、杉田立卿(りゅうけい、1786〜1846、玄白の息子)が江戸の玄白宅で乳がん手術が行った。立卿の乳がん手術記録は、「療乳記」(漢文6ページの小冊子、松木明知・弘前大名誉教授が東京都内の古書店で発見した。)として印刷して関係者に配っていた。手術には、「麻睡之剤」を用い、重さ数10gのがんを摘出、傷を洗い、香油を塗って縫合した。患者は6時間で意識が戻り、1カ月で回復した。 |
1816年 | William Balfour(Edinburgh大学の外科医)が身体の広範囲に及ぶ筋肉痛を「pain fibrosistitis」として記載した。1824年に圧痛点について記載した。 |
1818年 | Michael Faraday(P 1791〜1867, 英国の化学者、Davy↑の弟子、ベンゼン、金コロイド、塩素の液化などの発見者)は、エーテル↑にも麻酔作用があることを発見した。 |
1818年 | Joseph Bienaime Caventou↓(P 1795〜1878 フランスの化学者、Ecole de Pharmacieの教授)とPierre-Joseph Pelletier(P 1788〜1842、パリの化学者、薬剤師)は、Strychnos Nux Vomica(マチン科馬銭=マチン、つる性植物)からstrychnineを単離した。 |
1818年 | Carl Friedrich Wilhelm Meissner(1792〜1853, ドイツ・ハレの薬剤師)がモルヒネほか天然起源の塩基性物質に対してアルカロイドの総称名を与えた。 |
1820年 | Joseph Bienaime Caventou↑(P 1795〜1878 フランスの化学者、Ecole de Pharmacieの教授)とPierre-Joseph Pelletier(P 1788〜1842、パリの化学者、薬剤師)が、Cinchona(キナの木属アカキナノキ)からquinineを単離した。 |
1821年 | Charles Bell↑(P 1774〜11842, エディンバラ出身、ロンドン王立大学生理学教授)が、顔面神経損傷によって、一側の顔面神経麻痺が起こることを記載した(「On the Nerves 神経について」で、Bell's palsy ベル麻痺:末梢性の顔面神経麻痺について記載した。*) |
1822年 | François Magendie↑(P 1783〜1855, フランスの実験生理学のパイオニア、バルザックの1831年の「あら皮」に登場するモーグルジー博士のモデル、動物実験をやりすぎて動物愛護運動の種となった)は、1820年代になって、Bell↑の仕事を聞き及び、1822年に、「前根は運動性で、後根は知覚性である」ことをイヌの前根、後根の切断実験によって明らかにした。ところがBellは1824年に彼の仕事をまとめた論文で、同様の見解をすでに得ていると主張した。どちらに優先権があるかという論争が続いたが、学会では、この理論をBellの記述とともに、「Bell-Magendie law ベルーマジャンディーの法則」と呼ぶことで妥協した。しかしいまだに、Bell's lawやMagendie's lawという呼称も未だ使われている。 |
1823年 | Henry Hill Hickman(P 1800〜1830, 英国の内科医)は、動物実験で、笑気ガス↑と二酸化炭素の両方で、無痛で手術ができることを確認した。 |
1824年 | Benedikt Stilling(P1810〜1879, ドイツ・カッセルの解剖学者、外科医) ↓がミクロトームを考案した。 |
1825年 | Charles Waterton(P 1782〜1865, 英国の探検家)は著書「Wandering in South America」の中で、オリノコ川流域のインディアンが使用しているや毒は、蔓草の一種chondrodendron tomentosumの樹皮から抽出したものであることを記述した。突進してきたイノシシのあごに、クラーレを打ち込むと、約90m突進した後、倒れた。アカサルを射ろうとした矢がはずれて、人にあたると、矢毒に当たった人は死んだ。Watertonはロバにクラーレを注入すると、ロバは10分以内に死んだ。ロバの喉に穴を開けて、空気を入れて肺をふくらますと、ロバは死ななかった。2時間人工呼吸を続けると、クラーレの効果が消失した。クラーレは呼吸をコントロールする横隔膜を含めて、神経インパルスの筋への伝導をブロックすることが確認された。 |
1826年 | Johannes Petrus Müller(P 1801〜1858, ベルリンの生理学者)が、「特殊エネルギーの法則 Code of specific nerve energies」という概念を考案した。個々の感覚器官は、どのような刺激を与えても特有の感覚を生じ、他の感覚を生じさせることはない。視神経に対する電気的あるいは機械的な刺激は、光に対する感覚だけが生じる。←→特殊説 (1833-1840年に出版した「人体生理学ハンドブーフ」では、「刺激」「興奮性」「反射」などの生理学用語が定義されている。 ) |
1828年 | Johann Andreas Buchner(1783〜1852, ミュンヘンの薬学教授)は、柳の樹皮から苦くて黄色い針状結晶を抽出し、サリシン↑と呼んだ? |
1828年 | Leopoldo Nobili(P 1784〜1835, フィレンツェの物理学者、発明家)は電流計を作り、Galvani風の実験を行い、「カエル電流」を検出した。ただし彼はボルタの説にとらわれ、この電流は神経筋の温度差からたまたま発生するものと考え、神経筋に本来あるものとは考えなかった。 |
1828年 | Karl Ludwig Reimann(1804〜1872, Heidelberg 大学の学生)とWilhelm Heinrich Posselt(1806〜1877, Heidelberg 大学の学生)がタバコの有効成分を単離し、Jean Nicot↑に因んで「Nicotine」と名づけた |
1830年 | Henri Leroux(フランスの薬学者)が、柳Salix albaから活性物質を分離し、サリシン salicin↑と命名した。しかし、サリシンは実際に純薬として使われることはなかった。サリシンは内服できないほどひどく苦かったからである。サリシンを含むヤナギの樹皮の煎液も苦く、欧州人は何世紀もの間その鎮痛作用を求めてひたすら苦さに耐えてきたのであった。 |
1831年 | Richard Bright(P 1789〜1858, ロンドン, ネフローゼの発見者)が初めて、帯状疱疹の分節性の神経症状を確認した。 |
1831年 | Samuel Guthrie(1782〜1848, アメリカの内科医)、Freiherr Justus von Liebig(1803〜1873, ドイツの化学者)、Eugene Soubeiran(1797〜1859, フランスの化学者)が、それぞれ別々に同年に、クロロホルムを発見した。 |
1832年 | Pierre Jean Robiquet(P 1780〜1840, フランスの薬学者)が、アヘン↑からコデイン codeineを単離した。(Robiquetは外にasparagine (1806)、cantharidin (1810)、narcotine (1817)、caffeine (1821)、alizarin and purpurin (1826)、Orcin (1829)、amygdalin (1830)なども単離している。)[PubMed] |
1834年 | Jean-Baptiste-Andre Dumas(P 1800〜1884)が、クロロホルム↑を命名し、組成を明らかにした。 |
1834年 | Samuel Colt(1814/7/19〜1862/1/10, コルト拳銃の発明者、リボルバーの特許)は少年時代、父の織物工場で化学主任と一緒に、笑気ガス↑遊びに耽っていたので、笑気ガスを吸入すると、奇妙な振る舞いをすることを知っていた。Coltは連発銃の木模型を早くから完成していたが、それを事業化するための資金が得られなかったので、笑気ガスの興業で企業の設立資金を集めた。1834年〜1836年の3年間、「Dr. Coult of London, New York and Calcutta」 「Dr. Coult's gas」「Professor Coult」と名のり、笑気ガスを荷馬車に積んで、カナダおよび全米各地を巡業した。「笑気を吸うと、笑って、歌って、踊って、しゃべって、そしてけんかなどして陽気になる、さあさ、皆さん笑気ガスを吸ってみませんか?」彼は卓越したエンターテイナーであり、聴衆は25セントを払い、笑気ガス吸入によるパフォーマンスを楽しんだ。後にColtは大富豪となったが、子供の死の悲しみから立ち直れず、又痛風とリウマチ性疾患で、47歳の短い生涯を遂げた。 「笑気ガスパーティ」の興業はColt↑以外の化学者達によっても各地で巡業された。Gardner Quincy Colton(P 1814 〜1898)は、ニューヨークのCrosby Street College of Physicians and Surgeonsで医学の2年間学び、在学中に硫酸アンモニウムの加熱による亜酸化窒素製造法を完成させた。2年間の研究の後、Coltonは「化学教授」と自称してその勢いで各地を巡業し、Samuel Colt(1814/7/19〜1862/1/10, コルト拳銃の発明者、リボルバーの特許)は少年時代、父の織物工場で化学主任と一緒に、笑気ガス遊びに耽っていたので、笑気ガスを吸入すると、奇妙な振る舞いをすることを知っていた。Coltは連発銃の木模型を早くから完成していたが、それを事業化するための資金が得られなかったので、笑気ガスの興業で企業の設立資金を集めた。1834年〜1836年の3年間、「Dr. Coult of London, New York and Calcutta」 「Dr. Coult's gas」「Professor Coult」と名のり、笑気ガスを荷馬車に積んで、カナダおよび全米各地を巡業した。「笑気を吸うと、笑って、歌って、踊って、しゃべって、そしてけんかなどして陽気になる、さあさ、皆さん笑気ガスを吸ってみませんか?」彼は卓越したエンターテイナーであり、聴衆は25セントを払い、笑気ガス吸入によるパフォーマンスを楽しんだ。後にColtは大富豪となったが、子供の死の悲しみから立ち直れず、又痛風とリウマチ性疾患で、47歳の短い生涯を遂げた。 「笑気ガスパーティ」の興業はColt以外の化学者達によっても各地で巡業された。Gardner Quincy Colton↑は、ニューヨークのCrosby Street College of Physicians and Surgeonsで医学の2年間学び、在学中に硫酸アンモニウムの加熱による亜酸化窒素製造法を完成させた。2年間の研究の後、Coltonは「化学教授」と自称して、ブロードウェー・タバーナクルで笑気ガスの大展示会を開催し、大当たりを取り、その勢いで各地を巡業し、大きな利益を上げていた。 当時の米国にはほとんど娯楽がなく、野外で行われた「笑気ガスパーティ」や「エーテルパーティ」のような化学実験で、吸入者の酩酊ぶりを見て、多くの聴衆は、腹を抱えて大笑いし、楽しんだ。あまり勧められる娯楽のようではないかもしれないが、このような興行師のおかげで、開国間もない米国で吸入麻酔の発見がなされ、今日外科手術が発展し、患者を苦しめた手術による痛みからの解放につながった。 |
1835年 | Pierre Joseph Pelletier(1788〜1842, フランスの化学者)が、アヘン↑から、テバインを単離した。 |
1835年 | 奥田万里(漢方と蘭方の折衷医、各務文献に整骨術を学んだ)は骨折治療書「釣玄四科全書整骨篇」の中で、「麻睡湯」という用語を使用した。 |
1838年 | Raffaele Piria(P 1814〜1865, イタリアの化学者)は、パリのソルボンヌ大学で、サリシンから無色の針状でない結晶を分精製し、サリチル酸↑と命名した。(→アスピリン) |
1839年 | Theodor Ambrose Hubert Schwann(P 1810〜1882, ドイツの生物学者, Mullerの弟子)が細胞説を提唱した。(シュワン細胞) |
1840年 | David Livingstone(P 1813/3/19〜1873/5/1, ヴィクトリア朝期のスコットランドの宣教師、探検家)Mabotsaでライオンの襲撃で、左腕にライオンの歯を11本も打ち込まれ、骨を粉砕されたものの、奇跡的にも命拾いした。Missionary Travels and Researches in South Africaで彼は次のように書いている。 「弾丸を込めようとしたとき、うなり声を聞いて半ば振り返ると、ライオンはこちらに飛びかかろうとしている、方につかみかかられ、我々は地面に共倒れとなった。ライオンは、恐ろしいうなり声を上げながら、テリア犬がネズミを扱うように自分を振り回した。そのショックで、あたかもネズミがネコに捕まった際に感じるであろう、茫然自失の状態に陥った。まるで夢を見ているようで、痛みや恐怖は全く感じなかったが、出来事のすべてははっきりと自覚していた。」 こうした感覚は、肉食獣に殺される動物がみな感じるもので、慈悲溢れる創造主が、死の苦しみを軽くするために工夫されたことではないかと。 |
1842年 | アラビアの商人により、アヘンは中国にもたらされた。中国では鎮痛には、アヘンよりも附子が使われていた。17世紀に、東インド会社がインドからアヘンを盛んに輸出した。清朝は輸入を禁止したが、中国でアヘンの吸煙の風習が広まった。1842年にアヘン輸入権をめぐって、アヘン↑戦争が起きた。 欧州には多くの麻薬中毒患者がいたにもかかわらず、廃人には至らなかった。欧州ではアヘンチンキを経口で服用してきたのに対し、東南アジア、中国では喫煙が主流であった。喫煙によるアヘンの摂取では脳中枢系に集中的に吸収され、しかも速効性である。一方、経口では腸管吸収を経るのでアルカロイドの大半は途中で代謝され、脳中枢系まで輸送されるのは比較的少なく、遅効性である。 |
1842年 1月 | 笑気は持ち運びが不便だったが、エーテルは瓶に入れて容易に持ち運べるので、若者間で、エーテル遊びが大流行していた。化学の学生だったWilliam E. Clarke(1818〜1878, 米国ロチェスターの化学者)も、エーテル遊びにふけっていて、自己の体験から、エーテル↑も、手術の麻酔に使えるだろうと考えた。若い婦人(Miss Hobbie)にエーテルを吸入させて麻酔し、歯科医(dentist Elijah Pope)に抜歯してもらったところ、抜歯時の痛みがなかった。 |
1842年 3月30日 | Crawford Williamson Long(P 1815〜1878, アメリカジョージア州Danielsvilleの外科医)も、エーテル遊びの常習者であったが、最初のエーテル↑による麻酔による外科手術を行った。エーテル麻酔で、James M. Venableという少年の首にある嚢胞 cystをとる手術を行った。その後も数名の患者に全身麻酔手術を施したが、1849年12月までその成果を公表しなかった(Southern Medical and Surgical Journal)。 |
1842年 | シビレエイが電気を発生させることを十分納得させる実験をしたのは、Carlo Matteucci(P 1811/6/20日〜1868/6/25, ボローニャの物理学者、神経生理学者)である。Matteucciは、Galvaniの生物電気の発見をうけて、1830年頃から生物と電気の実験を行った。Nobili発明した電流計やVoltaの電池を使って実験をおこなった。スパークを発生させてシビレエイが電気を出すことを証明した。1842年に、筋の表面に対し筋切断面は電気的に負である事を発見し、筋に電流が発生することを示しました。(しかし彼は神経には電流は流れないと考えていた。)二次収縮も観察していた。Matteucciは晩年は政治にも参加し、教育大臣になった。イタリア科学アカデミーは、Matteucciを記念して、基礎分野の優秀な科学の業績に対してマテウッチ・メダルを贈っている。 |
1843年 | Robert Froriep(P 1804〜1861, ベルリンの内科医)が、初めてfibromyalgiaの症状を記載した(彼はmuskelschwiele or muscle callusesと呼んでいた)。 |
1844年 | Joseph Pancoast(1805/11/23〜1882/3/6 アメリカの外科医(パンコースト腫瘍の発見者はHenry Khunrath Pancoas))が「Textbook of surgery」を発行した。この教科書は、当時使われていた手術手技を広く網羅しているが、患者を楽にさせる方法については触れられていない。アルコールやアヘン、催眠術は用いられていたが、手術を成功裏に終えるには、素早く力づくで行うことが第1に要求された。 |
1844年 | Horace Wells(P 1815〜1848, アメリカConnecticutの歯科医)は、12月10日の夜に、ハートフォードのユニオン・ホールに巡回してきたColton↑による「笑気ガス実演会」に参加した。友人のSamuel Cooleyが笑気ガスを吸入し、ふらついて向こう脛を椅子にぶつけて血を流しているにもかかわらずケロリとしているのを見て、笑気↑ガスによる鎮痛を思いついた。翌朝Coltonを自分の医院に招き、笑気ガス吸入による抜歯を試みた。Wellsは笑気を吸入し、十分効果が現れた後、友人のJohn Riggs(1810〜1885, 歯槽膿漏の発見者)に虫歯になっていた臼歯を抜いてもらうと、無痛で抜歯に成功した。その後、同僚達を相手に実験を行い、笑気ガスの有用性を確信した。* |
1845年 | Horace Wells↑は、ボストン時代の弟子のMorton↓と化学者のJackson↓に相談し、マサチューセッツ総合病院の高名な外科医John Collins Warren(P 1778〜1856)に、公開手術のチャンスを得た。1月15日マサチューセッツ総合病院臨床講堂で、「鎮痛のための笑気↑の使用について」と題して講議、および、抜歯の公開手術手術したが、失敗した。笑気麻酔を受ける予定になっていた患者は、麻酔を受けることを拒否したため、代わりに若い男子学生が、智歯の抜歯に笑気を吸入することに同意した。被検者は抜歯を行っている間ずっと身体をよじってうめき続けた。後になって実際にはほとんど痛みを感じなかったことを告白したが、Wellsは信用を失った。
公開手術の失敗から、歯科医を廃業し、名画の複製品の販売などで生計を立てるようになる。Wellsは、クロロホルム中毒となり、額の仕入れのために行ったニューヨークで、クロロホルムを吸入した後、客をさがす娼婦に硫酸をかけ、逮捕された。留置場で密かに持参したクロロホルムを大量に吸い、自己麻酔下に股動脈を切断して、自ら命を絶った。1848年、享年33歳。 1878年Paul Bert(フランスの生理学者)の研究は、Wellsの業績を庇護した。 |
1845年 | James Esdaile(P/21808〜1859、英国出身のインドの外科医)は、手術時の麻酔として催眠operations under hypnosis(メスメリズム)を利用した。 |
1845年 | Francis Rynd(1802〜1845, アイルランドDublin's Meath Hospitalの内科医)は、Pravazよりも早く、皮下注射↑で患者に薬液を注入する方法を記録し、"Dublin Medical Press."に投稿した。The word "syringe" is derived from "syrinx" and "syringos," Greek words for "pipe" and "tube."1/2 |
1845年 | Ferdinand von Hebraが初めて全身性エリテマトーデスによると思われる皮疹を記載した。 |
1846年 | Wellsの影響で、麻酔に興味を持っていたWilliam Thomas Green Morton(P 1819〜1868, アメリカの歯科医、Wellsの弟子)は、Charles T Jackson(P 1805〜1880, 化学者)のアドバイスにより、エーテル↑を使用して、抜歯手術に成功した。Wellsの場合と同様に、John Collins Warren↑(P 1778〜1856)による公開手術を依頼すると、エーテル麻酔による手術は成功を遂げた。⇒詳細 |
1846年 | Henry Jacob Bigelow(P 1818〜1890、MGHの外科医)が、11月3日にMortonの外科手術に対するエーテル使用を報告する論文の原稿をAmerican Academy of Arts and Sciencesで朗読し、11月18日号Boston Medical and Surgery Journalに掲載された(「外科手術時にもたらされる吸入による意識消失」 Boston Med Surg J 35:309-317, 1846)。 |
1846年 | Sir Oliver Wendell Holmes(P 1809〜1894, Mortonの友人、ハーバード大学の内科学教授、Warren↑の同僚、作家)は、Mortonの実験を見て、その偉業を称えた。11月24日のMorton当ての私信の中で、エーテル吸入で起きる状態を「Anesthesia」(ギリシャ語、an-aisthesia, 無ー感覚)と提案した。 |
1846年 12月19日 | Henry Bigelow↑の父Jacobはエーテル吸入の効果について記された手紙をFrancis Boottに送り、その手紙を見せてもらったJames Robinson(ロンドンの著明な外科医)は、13歳少女の埋伏智歯を抜歯する際に、エーテル↑を投与した。Mortonによる公開手術の63日後であった。Robinsonは新しいインヘラを考案し、麻酔に関する最初の教科書を書き、1847年3月1日にロンドンで出版された。 |
1846年 12月21日 | Mortonのエーテル↑吸入麻酔の成功は「米国の発見」と称されて、全世界に打電され、Robinson↑がエーテルを使用した2日後に、英国でもエーテルを使用した外科手術が行われた。Robert Liston(P 1794〜1847, ロンドン大学の臨床外科教授)は、エーテル麻酔で、下肢の切断手術を行った。手術が終わるとListonは、「This Yankee dodge [trick], gentlemen, beats mesmerism hollow! 皆さん、ヤンキーのトリックがフランスものを打ち負かした。」と言った。彼は、ボストンから来たエーテル麻酔が、パリの催眠術よりも有効であると判断した。その後、エーテルによる麻酔は、世界中に広まった。 |
1846年 1849年 | Charles Edouard Brown-Sequard(P 1817〜1894、モーリタニア生まれ、フランスの生理学者、神経学者)は、1846年の学位論文で、動物の後索を切断しても痛覚が保たれることを発表した。引き続き1849年の論文では、動物の脊髄を反則切断すると、痛覚が消失するのは、脊髄側の「対側」であることを発表した。触覚や深部感覚などの障害を含め、人間の「ブラウン・セカール症候群」については、Joseph Jules Dejerine (P 1849〜1918, パル大学教授)が1914年の教科書で記載した。(しかし、このような症候群につては、AD2CにカッパドキアのAretaeus↑が記載していた。) |
1846年 | Benedict Stilling(P 1810〜1879, ドイツ、カッセルの開業医)が開発したミクロトーム ↑で脳の連続切片を初めて作り、顕微鏡を使って多くの脳幹の各種の核を同定していて、1846年の著作「橋の構造の研究」で、動眼・滑車・三叉神経核も同定し、さらに三叉神経核を運動核と感覚核に区別した。(ただし顔面神経核も三叉神経運動核と考えていた。←→Meynert) |
1847年 | Nikolai Ivanovich Pirogov(P 1810〜1881, ロシアの外科医)が、エーテル↑の直腸麻酔を記述した。 |
1847年 | Marie-Jean-Pierre Flourens(P 1794〜1867, フランスの生物学者)とRobert James Fegle(1790〜1843)が、クロロホルム↑の麻酔作用を記載した。 |
1847年 | Sir James Simpson(P 1811〜1870, エディンバラの産婦人科医)は、エーテル↑で分娩を行ったが、必ずしも満足すべきものではなかったので、クロロホルム↑を初めて吸入麻酔薬として使用し、外科手術に新起源を開いた。しかし、無痛分娩は、カルビン派の牧師によって批判されていた。 |
1847年 | Sir James Simpson↑の成功に刺激されて、麻酔の専門医が英国に誕生した。その第一号となったJohn Snow↓(P 1813〜1858 イギリス人医師)である。Snowは、「最初の麻酔科専門医」と言われるとともに、ロンドン市街に下水道を導入する事をビクトリア女王に提言すると、ロンドンからコレラの蔓延を防ぐことができたので、「公衆衛生の父」とも呼ばれている。 |
1847年 | Sir Archibald Edward Garrod(P 1857〜1936 イギリス人医師)は、痛風患者から尿酸を検出していた。* |
1848年 | Emil Heinrich du Bois-Reymond(P 1818/11/7〜1896/12/26, 父はスイスの時計屋、Johannes Petrus Mullerの弟子, ベルリン大解剖生理学教授)は20000回巻きのコイルからなるGalvanometer(高感度電流計)を制作し、筋の収縮時に筋の内外の電位差が消失する「陰性動揺」、つまり活動電流の存在を著書「動物電気の研究」(1848-1884)に発表した。「神経には電流が流れない」という考えを発表していたMatteuccの追試を行った。はじめ筋肉の縦断面や横断面を電流計で測定し,両者に電位差があることを見い出した。この見解をさらに神経にまで拡張し,神経でも両断面に電位差があると考えて、神経を伝わる興奮は、電流自体ではなく,電流の強さの変化によって生じる電気的緊張状態であると述べた。 |
1848年 | Georg Merck(P 1815〜1888, ドイツ→アメリカの化学者)が、生のアヘン↑からパパベリンを単離した。 |
1848年 9月13日 |
Phineas Gage(フィネアス・ゲージ 1823/7/9?〜1860/5/21, アメリカのダイナマイト職人, 当時25歳)は、前頭眼窩回の破壊で、情動の障害により、別人のようになった。 ⇒詳細 |
1849年 | Hermann Ludwig Ferdinand von Helmholz(P 1821/8/31〜1894/9/8、ドイツの生理学者、物理学者)は、Galvaniの研究にヒントを得て、カエルの神経の伝導速度を測定した。神経筋標本をつくり,神経の2か所を電気刺激し、筋収縮の潜時を測定すると、興奮の伝導速度が一定であることを見い出した。ヒトの正中神経の伝導速度も測定した。「特殊線維エネルギー説」 |
1850年 嘉永3年 | 杉田成郷(せいけい、1817/12/18〜1859/3/23、玄白の孫、蘭学者 ↓)の「済生備考」「亜的耳吸法試説」で、「麻酔」というという用語を使った。「麻」=analgesia or loss of regional sensation、 「酔」= loss of consciousness。* ⇒詳細 |
1850年 1852年 | Augustus Volney Waller(P 1817〜1894, ロンドンの神経生理学者)が、ウォーラー変性について記載した。1850年に、カエルの舌下神経切断後の末梢側の神経組織変性を報告した。さらに1952年に、脊髄後根を切断すると、断端より脊髄側が変性することを発見した。 |
1851年 1953年 | Claude Bernard(P 1813〜1878, フランスの生理学者、Magendieの弟子, 1865年に「実験医学研究序説」)がウサギの頸部交感神経を切断すると、耳が温かくなり、血管網が拡張するのを、1851〜1853年の生物学会で詳細な報告を行った。後にJohann Friedrich Horner↓が報告した「ホルネル症候群」であるが、フランスでは「クロード・ベルナール・ホルネル症候群」と呼ばれている。 |
1851年 | Herman Melville(1819/8/1〜1891/9/28, アメリカの作家、小説家)が「白鯨 Moby-Dick」を発表した。 白鯨に片足をかみ取られ、義足となった船長エイハブ船長と捕鯨船ピークォド号に乗った様々なメンバーがモビーディックとの3日間にわたって戦った様子を主人公のイシュメルが語る。(一等航海士スターバックがコーヒー好きだったことから、・・・) |
1852年 | Charles Gabriel Pravaz(P 1791〜1853, リヨンの外科医)が金属製の実用的な注射器↑(プラバーズ注射器)を作成した。動脈瘤に塩化鉄の水溶液を注入するために、浣腸器を改造して、はじめて注射器を作成した。製作第一号機は、今でもリヨンのオテル・ディユ病院附属博物館に所蔵されている。金属製で、内筒にはねじ山が刻まれていて、ハンドルを回しながら薬液を注入する。注射器の先に、チューブではなく、中空の針をつけたことも画期的な発明。注射針の内腔を通すために、マンドリンも使われていた。この方法は追試の結果、無効であると学会で批判され、彼は翌年失意のうちに世を去った。 |
1853年 4月7日 | John Snow↑(P 1813〜1858 イギリス人医師)が、Prince Leopoldの出産に際し、Queen Victoriaにクロロホルム↑麻酔を施行し、無痛分娩を行った。その後全身麻酔が急速に欧米に普及した。 |
1853年 | Charles Frederick Von Gerhardt(シャルル・ジェラール 1816〜1856、モントペリエ大学の化学の教授)が、アセチルサリチル酸↑を合成したが、精度が悪く、分子構造を決定できなかった。 |
1853年 | Louis Rone Tulanseが「聖アントニウスの火」がライ麦ではなく、ライ麦に寄生する Clavices purpureaなどの菌が原因であることを解明した。Clavices(=かにの頭) + purpura(=紫) |
19C 清代 | これまで盛んに研究されてきた鍼灸の廃止令:「鍼灸の一法、由来已に久し、然れども鍼を以って刺し火をもて灸とするのは、究むるところ奉君の宜しきところにあらず…永遠に停止と著す」が発せられたが、既にこの頃には大衆化していた鍼灸治療は衰えを見せる様子もなく、その後も総括や臨床に関する「鍼灸集成」(1874年)「神灸経論」(1853年)などの専門書が出され、現代鍼灸学に多大なる影響を与えた。 |
1853年 | Alexander Wood(P 1817〜1884, エジンバラの開業医)は、Daniel Ferguson(ロンドン出身の機具製造業者)が作ったピストン型注射器の先端に装着する中空の針を発明した。注射器↑と針を用いて、にモルヒネ↑を局所に注入し、神経痛を治療した。これらの報告の後、注射器と針のセットは一般的な危惧となり、多くの臨床医がこれを使って鎮痛のためにモルヒネの皮下注射を行った。「皮下注射 hypodermic injection」という言葉は、Charles Hunter(ロンドンの外科医)によって作られた。Hunterは、モルヒネは身体のどこに注射してもよく、その鎮痛効果は疼痛部位へ注射した場合と同じであると主張して、Woodと論争になった。 |
1855年 | Friedrich Gaedcke(1828〜1890, ドイツの化学者)が、コカの葉からコカイン↑アルカロイドを精製し、erythroxylineと名づけていたが、純度は良くなかった。 |
1855年 安政2年 | 杉田成郷↑がわが国最初のエーテル↑吸入麻酔を行った。 |
1856年 | Claude Bernard↑(P 1813〜1878, フランスの生理学者、Magendieの弟子, 1865年に『実験医学研究序説』を出版。)が神経ー筋に対するクラーレ(アメリカ原住民の矢毒)の抑制効果を見出した。クラーレは運動神経のみを麻痺させる。Bernardは現在では医の倫理に反するような実験もしていたかもしれない。Bernardは「植物の毒は、われわれの体にすでに存在する重大なメカニズムの発見をもたらす。」と言っていた。(Kosterlitz↓は、Bernardに影響されて、エンドルフィンを発見した。) |
1856年 | Albert Niemann(P 1834〜1861, ドイツの化学者、尿素の合成で有名な Friederich Wohler1/2の研究室)が、コカの葉からアルカロイドの結晶を抽出し、「kokaine↑」と命名し、PhDを取得した。ウォーラーは、コカインを舌に乗せるとはじめは苦みを感じるが、やがて舌がしびれて味がなくなることを見出した。コカの葉は、ウォーラーがオーストリア帝国のフリーゲート艦ノヴァラ号 (Novara, Austrian frigate sent by Emperor Franz Joseph to circle the globe)の世界一周の旅に同乗したKarl von Scherzer(1821〜1902, シェルツァー、科学者)にWohlerが持ち帰るように頼んだもの。欧米でのコカインに対する興味は、当初全身投与による中枢作用に向けられていた。 |
1857年 安政4年 〜 | Pompe van Meerdervoort(P ポンペ・ファン・メールデルフォールト 1829〜1908, オランダ海軍軍医、1857年9月に来日)が、日本にクロロホルム↑の麻酔を紹介した。コレラには、ウンデルリッヒの「コレラ治療法」をもとに、アヘンとキニーネを推奨した。 |
1858年 | Moritz Schiff(P 1823〜1896、ドイツの生理学者、MagendiePの弟子)は、温痛覚を伝える神経線維は脊髄に入ってすぐ交叉するのに対し、触圧覚はを伝える神経線維は同側の後索を上行すると記載した。 |
1858年 | J.B. Francis(フィラデルフィアの歯科医)は、電気麻酔によって、抜歯を行った。一方の電極を患者の歯、他方の電極を手において、電流を流した。Francisはただちに特許権を申請し、取得した。Garrett(ボストン)や Oliver(バッファロー)も、それぞれ電気を使った局所麻酔を試み、抜歯に応用した。電気麻酔による抜歯は、英国やフランスでも取り上げられたが、効果が不確実であまり普及しなかった。ベルボー(フランス)は、「麻酔されなかった。アメリカ人の歯にはフランス人の歯にない何かがある。」と結論した。ほぼ同じ頃に、薬物を用いた全身麻酔法や局所麻酔法が確立されたので、電気麻酔はあまり意味がないと考えられた。* |
1858年 | Alfred Baring Garrod↑(P 1819 〜1907, 英国の内科医)が、Rheumatoid arthritis(RA: 関節リウマチ)という用語を最初に用いた。 |
1859年 | Alexander Wood(P 1817〜1884, エジンバラの開業医)↑「A New Method of treating Neuralgia by the direct application of Opiates to the Painful Points.」を出版した。注射器↑ |
1859年 | Adolph Wilhelm Hermann Kolbe(P 1818/9/27〜1884/11/25, マールブルグの教授)は、セイヨウナツユキソウ Spiraea plantから、スピール酸=サリチル酸を分離した。 Herman Kolbeはサリチル酸の構造を解明し、コールタールからその合成法を確立した。フェノレールのナトリウム塩に高温、高圧(100気圧,125℃)で二酸化炭素を反応させるとサリチル酸ナトリウムが合成される。サリチル酸↑ナトリウムに強酸を作用させるとサリチル酸が遊離する。これをKolbe synthesis (aka Kolbe-Schmitt reaction)という。 しかし胃の粘膜に対する刺激性が強く、無味のサリチル酸も内用できる代物ではなかった。 |
1861年 | 佐久間象山(文化8年=1811年〜)が、電気↑医療器を作った。源内、雲斎、観好のエレキテルは、摩擦電気の原理に基づくものであるが、象山のは誘導作用を応用したもので、鉄線の束に銅線を捲き、一次コイルの電流は電池から導き、これは鋸状の金属体の歯面を一本の金属機で摩擦することによって、誘導作用を起こす。ファラデ−が1931年に発見した電磁誘導の現象が既に我国に伝っていたのであろう。 |
1861年 | 伊東玄朴(寛政12年(1800)〜明治4年(1871) シーボルトPの弟子)はPompe↑がオランダから取り寄せたクロロホルムを使用して桜井由次郎(吉原の幇間(ほうかん)桜川善孝の子)の脱疽の右足を切断した。本邦初のクロロホルム↑の麻酔である。 |
1862年 | Friedrich Wilhelm Felix von Barensprung(1822〜1864)が帯状疱疹の剖検例から、分節性の症状と脊髄後根神経節の病理学的な相関を記載した。 |
1862年 | Maurice Auguste Gabriel Raynaud(P 1834/8/10〜1881/6/29, フランスの医師)が、レイノー現象を初めて報告した。 |
1862年 | Carl Damian Ritter von Schroff(1802〜1887、薬理学者)コカイン↑の舌粘膜に対する麻酔作用を報告した。 |
1862年 | Joseph Thomas Clover(P 1825〜1882, 英国)が、クロロホルム↑と空気のパーセンテージを調節できる新しいクロロホルム吸入器を開発した。 |
1863年 | Gardner Quincy Colton↑(P 1814 〜1898, 米国麻酔科医)が、抜歯への笑気↑使用を普及させた。 |
1861 -1865年 | アメリカ南北戦争(American Civil War, 1861〜1865年)時には、北軍だけで280万オンスのアヘンチンキと500,000万錠のアヘン錠を消費したといわれ、40万人の兵士がアヘン中毒に陥ったという説がある。モルヒネの注射は内服に比べると意識を失わせることなく鎮痛効果を迅速にもたらす。南北戦争帰還兵向けにアヘンの通信販売されていて、多数の帰還兵がこの注射用モルヒネに耽溺となり、このことからモルヒネ中毒は「兵隊病」として広く知られることとなった。 |
1864年 1866年 1872年 | Silas Weir Mitchell(P 1829/2/15〜914/1/4, 米国の内科医、神経学者)は南北戦争の北軍の軍医で、カウザルギーと幻肢痛という用語は初めて使っている。⇒詳細 |
1864年 | Martynが、関連痛について初めて記載した。⇒詳細 |
1864年 | Johann Friedrich Wilhelm Adolf von Baeyer(P 1835/10/31〜1917/8/20)が、尿素ureaからバルビツレート↓を抽出した。12月4日(守護聖人聖 Barbaraの祝日)にureaから合成したので、barbiturateと命名した(1905年にノーベル化学賞受賞) |
1865年 | Constant George van Mansvelt(P 1832〜1912 オランダの医師)が注射器を長崎に持ってきた。 |
1866年 | Sir Benjamin Ward Richardson(P 1828〜1896, Glasgowの医師)は、局所麻酔のために、凍った組織に、エーテル↑をスプレーした。 |
1867年 | Theodor von Meynert(P 1833〜1892, ウイーン大、Karl Freiherr von Rokitanskyの弟子)が内側毛帯が感覚の伝導路であることを確認した。 |
1867年 | S. S. White 社(歯科機械店)が、鼻と口を覆う笑気↑ガス吸入器を製作した。 |
1867年 | Ferdinand Adalbert Junker von Langegg(ユンケル フォン ランゲック P 1828〜1902, 英国籍ウィーン大学出身、普仏戦争に従軍、槇村知事らが京都活性化のために招聘した外科医の一人で、Leipzig大学推薦による。日本名:永克、万次郎格)は、ロンドンで「ユンカーの麻酔器 Junker's Inhaler」を発明した。吸入法 insufflation methodeにより、2連球で、空気を送って、ガラス瓶の中のクロロホルムあるいはクロロメチルを気化し、金属マスクで吸入させる。軽便な携帯型で、明治の初めからわが国にも輸入され国産改良型も作られた。 |
1867年 | James Curtis Hepburn(P ヘボン、1815/3/13〜1911/7/11、ヘボン式でも知られるアメリカの宣教師で医師)は、閉塞性血栓血管炎の歌舞伎の役者、三代目澤村田之助の右膝関節をクロロホルム↑麻酔下に切断した。 |
1868年 | Jean Martin Charcot(P 1825〜1893、フランスの神経学者)が、脊髄癆4例で「失調患者の関節症」---シャルコー関節を記載した(Arch Physiol Norm Pathol)。 |
1868年 | Edmund Andrews(1824〜1904, シカゴの外科医)が、20%酸素と笑気↑を共に投与することで、麻酔の安全性を高めました。 |
1868年 | Edward Woakes(1837〜1912, 英国の耳鼻科医)がBritish Meclical Journalに「神経痛(片頭痛も含まれる)の治療におけるライ麦のエルゴット(麦角)について」という論文を発表。血管拡張に関連する片頭痛と他の神経疾患に血管収縮剤剤として麦角を推薦した。 |
1869年 | Johann Friedrich Horner(P 1831〜1886、チューリッヒの眼科医)が、40歳女性の症例から、「ホルネル症候群」を報告した。病巣は明らかにされていないが、それまで知られていた交感神経の機能から、交感神経障害によると推理した(Klin Monatsbl Augenheilk)。Claude Bernard↑(P 1813〜1878, フランスの生理学)も動物実験で報告していたので、フランスやイタリアでは「クロード・ベルナール・ホルネル症候群」と呼ばれている。←→SGB |
1869年 | Friedrich Trendelenburg(P 1844〜1924)が気管内挿管(経気管切開下)を始めた。 |
1869年 | Fische(ドイツの化学者)が、トリクロールエチレンを発見した。 |
1870年 | Hubert Airy(1801〜1892, イギリスの内科医)が片頭痛の前兆として現れる閃輝性暗点 scintillating scotomaのスケッチをした。 |
1871年 | 南北戦争の時、兵士の中に極端な腹痛や下痢などの消化器症状のために前線に出られない兵士が続出し、Jacob Mendes Da Costa(P 1833/2/7〜1900/12/12 従軍軍医)は、神経が原因で消化器症状がでることがあることを報告した。神経性大腸の症状という概念が誕生した。→IBS |
1872年 | Charles Robert Darwin(P 1809/2/12〜1882/4/19, イギリスの自然科学者)は『人間と動物における情動の表現』を上梓し、人間と動物との表情の類似から、動物での情動研究を基にしてヒトの情動を論ずる根拠を与えた。 |
1872年 | Johnston 兄弟が、笑気↑を鉄筒に詰める事に成功し、笑気吸入器を製作した。 |
1872年 | Theodor von Meynert↑((P 1833〜1892, ウイーン大、Karl Freiherr von Rokitanskyの弟子)の著書で、三叉神経運動核が正確に記載された。←→Stilling |
1872年 | Ferdinand Adalbert Junker von Langegg↑は、京都府立医科大学の前身の療病院(中京区御池通木屋町東入北側、御池大橋西詰)に招かれ、Yunkerの麻酔器を日本に紹介した。 |
1872年 | Louis Antoine Ranvier(P 1835-1922、Claude Bernard↑の部下で、コレージュ・ド・フランスの解剖学教授)がランヴィエの絞輪を発見した。鍍銀法で末梢神経髄鞘の絞輪を観察、絞輪間にシュワン細胞核は1個だけあり、絞輪間のシュワン鞘は1つの細胞である事を発見した。 |
1872年 | Theodor von Billroth↓(P 1829〜1894、ウイーン)が坐骨神経痛を牽引で治療(Archiv fur Klin Chir von Langebeck)、Silas Weir Mitchell↑も著書で神経牽引法を論じ、以後この治療法が普及した。 |
1872年 | Pierre Cyprien Ore(Bordeaux の生理学の教授)が、1667年以後ほとんど普及していなかった静脈内麻酔↓3に、抱水クロラールの使用に成功した。1874年イヌに、そして1875年に、患者で行った。しかし、抱水クロラールはその作用がおそく,かつ麻酔量と致死量が近いために広く用いられなかった。 |
1875年 | Richard Caton(P 1842〜1926,Liverpoolの生理学者)が、露出したウサギの大脳皮質表面に2本の電極を置き、その間につないだ電流計に電気が流れるのを観察しました。初めての脳波の記録 →ヒトの脳波記録 →参考 |
1875年 (1883) | Albert Eulenburg(オイレンブルグP 1840〜1917, ドイツの神経学者)が麦角を片頭痛の治療薬として使用した。 Eulenburgはergotineに反応する片頭痛の発作には「redness of the face, sweating, ipsilateral miosi」が伴われると記述し、red migraineWilhelm van Möllendorf↑の説を指示した。このような「red migraine」はしばしば群発頭痛の最初の記述と誤解された。 |
1874年 | Roberts Bartholow(P 1831〜1904, アメリカの神経学者)の患者は、開頭して電極を刺入しても、痛みを生じないと申告した。中心後回を感応電流で刺激すると、対側の手足の収縮と不快な異常感覚が生じることを報告した。"Experimental investigations into the functions of the human brain"(Mary Rafferty) |
1876年 (1880) (1886) | Sir William Richard Gowers(P 1845〜1915, イギリスの神経学者、病理学者、ロンドン大学の教授、線維筋痛症候群↓に関連する記載もした。Gowers徴候やヘモグロビン測定器の発明者でもある。)が脊髄前側索が痛みの伝導路であることを確認した。口の中にピストルを打ち込んで、触覚は保たれていたが、左上下肢の痛覚が消失していた学生の病理解剖をした。ガワーズは、「痛みのインパルスは、脊髄内で交叉した後、対側の脊髄を上行する」という考えに基づいてこの患者の神経症状を説明した。この患者の痛覚欠損は、脊髄前側索の損傷によるものであった。(しかし、「ガワーズ束」は、前脊髄小脳路を示す。) |
1876年 明治9年 | Erwin von Baelz(P ベルツ 1849〜1913ドイツ人、東京医学校の教師、宮内庁の御用掛)は、日本には痛風がないと結論を下していた。 |
1877年 | Joseph Thomas Clover↑(P 1825〜1882, 英国)が、エーテルの濃度を調節できる携帯式麻酔器製作した。 |
1878年 | Pierre-Paul Broca(P 1824〜1880, フランスの内科医)は、ほ乳類の脳に共通する脳幹を取り巻く皮質領域(:帯状回、海馬傍回、梁下回、海馬)を辺縁葉 le grande lobe limbiqueと呼んだ。 |
1878年 | 本邦で初めてコカイン↑が輸入された。 |
1879年 | Vassily von Anrep(P 1852〜1925、忘れてはならないregional anesthesiaのパイオニア)が、コカイン↑の局所麻酔作用について報告(Pflugers Archiv der gesamten Phusiologie)最初の人物である。動物実験を行った後、自分の腕の皮下にコカインを注入して無感覚になることを発見したが、あまり注目されなかった。Kollerよりも前のコカインによる局所麻酔の報告である。 |
1879年 | Paul Ehrlich(P 1854〜1915, ドイツ)が肥満細胞を発見した。 |
1880年 | Mack Ewen(グラスゴー)が経口気管挿管(trans-laryngeal endotracheal intubation)を提唱した。 |
1881年 1月29日 | Theodor von Billroth↑(P 1829〜1894、ウイーン大学の外科医)はクロロホルム麻酔↑で、胃癌に罹った43歳の女性の手術を執刀した。このときの残胃と十二指腸の吻合法を改良したものが、現在「ビルロートI法」で、さらに、十二指腸の断端は閉鎖して、残胃と空腸を吻合する「ビルロートII法」も案出した。 |
1881年 | Alexander Crombie(インドカルカッタのPresidency General Hospital)が、クロロホルム↑麻酔に先立ち、モルヒネ↑による前投薬を行った。 |
1881年 | Charles Ernest Lasegue(P 1816〜1883)の弟子のForstが、坐骨神経痛を装う仮病の兵士を見分けるための疼痛誘発法として、「ラセーグ徴候」を紹介した。 |
1882年 1883年 | Magnus Blix(P 1832〜1904, ウプサラ)が1882-83年に、皮膚を電気刺激して、暖かく感じる部位や冷たく感じる部位を見つけた。さらに、冷刺激、温刺激、触刺激装置を作成し、冷点、温点,触点を見つけた。 →感覚点/特殊説 |
1882年 | Samuel J. Hayes(1833/6/22〜 Pennsylvaniaの歯科医)が、エーテル ークロロホルム用の気化器を開発した。 |
1884年 6月 | Sigmund Freud↓(P 1856〜1944, オーストリアの精神科医)はコカインが精神的、肉体的能率の増大に役立つとする研究論文を発表した。(Freud が歯ぐきの炎症の痛みをコカインで抑える効果を示したとき、鎮痛の研究には興味がなかった。) |
1884年 | Carl Koller(P 1857〜1944, ウィーンの眼科医師)が最初の局所麻酔薬としてコカイン↑を発見した。 ⇒詳細 |
1884年 | William Stewart Halsted (P 1852〜1922, ボルチモアの外科医)はコカイン↑が神経幹での伝導を止めることを実証し、外科学における伝達麻酔法の土台を作った。腕神経叢ブロックも行っている。 ⇒詳細 |
1884年 | Franz Nissl↓,↓↓(P 1860/09/09〜1919/08/11, ドイツの組織学者)はミュンヘン大学の学生時代(24歳)に、病理学教授のJohan Bernhard Aloys von Gudden(1824/7/7〜1886/6/13)が募った「大脳皮質の神経細胞の病的変化」という懸賞論文に医学生でありながら一等を獲得した。Nisslの用いた染色法の秘訣は、徹頭徹尾アルコール固定を行うことだった。 |
1885年 | James Leonard Corning(P 1855〜1923, ニューヨークの脳外科医)が、脊髄腔にコカイン↑を注入して、下半身を麻酔(脊椎麻酔)した。この方法によって、虫垂炎や婦人科疾患の無痛手術が可能となった。Corningは、脊椎麻酔について記載したが、脳脊髄液の流出について書かれていないので、硬膜外麻酔を行ったと考えられる。その後「局所麻酔法」を出版した。 Corningは四肢にターニケット tourniquetを巻くと、浸潤による鎮痛効果が延長することも見出し、コカインが血液によって効果部位から除去されるのをターニッケットが防ぐと考えた。 |
1885年 | Paul Ehrlich(P 1854〜1915, ドイツ)がBBBを発見した。 |
1885年 | 伊野春毅(いのはるき、熊本出身の歯科医)が抜歯にコカイン↑を使った。で抜歯をした。 |
1885年 | Heinrich Lissauer(P 1861/9/12〜1891/9/21, ブレスラウ大学の神経学者)が後外側索 dorsolateral fasciculusを発見した。 →Lissauer路 |
1885年 | Ludwig Edinger(P 1855〜1918, フランクフルト)が、Edinger-Westphal nucleusを記載した。 |
1885年 明治18年 | 日本にマッサージが導入された。赤十字病院長軍医総監橋本綱常(乗晃)が欧米諸国に視察したときに、各国病院にてマッサージの外科応用の理論に親しく実見して帰国。部下であった長瀬時衡氏に紹介した。広島博愛病院院長であった長瀬時衡氏は、同病院に整形外科療法の一助として医療現場に採用したのが日本医療マッサージのはじめである。 |
1886年 | Walter Holbrook Gaskell(P 1847〜1914, 英国ケンブリッジ大の生理学者)は内臓の神経系を延髄系、胸腰系、仙髄系に分類し、有髄線維(節前線維)と無髄線維(節後線維)の分布を明らかにし、交感神経の起始核は脊髄の側角の中間質外側核にあるとしました。Gaskellは自律神経系に対して不随意神経系という用語を使用した。 |
1886年 | Vittorio Marchi(1851〜1908年, ゴルジの弟子)が、ウォーラー変性部↑をより明瞭にする染色法を開発した。ゴルジ染色の最後の段階の硝酸銀染色をしないでおくと、ウォーラー変性部の脂肪だけが黒く染まる。 |
1886年 | Arnold CahnとPaul Hepp(フランスの内科医)が、febrile diseaseで、腸の寄生虫に苦しむ患者に向け、ナフタリンnaphthalene を処方使用としようとしたが、地方の製薬会社が配合を間違っていて、アセトアニリドを処方したところ、併発していた熱まで下げ、アセトアニリドに鎮静作用があることがわかった。アセトアニリドは、アンチフェブリンantifebrinという名前で販売された(「ノーシン」の主成分)。 |
1886年 | Robert Louis Stevenson(1850〜1895, イギリスの作家」がコカインを服用して、「ジキル博士とハイド氏」を3日3晩で書き上げた。 |
1887年 | Sir Frederic William Hewitt(1857〜1916, 英国の麻酔科医)が、一定濃度に調節可能の笑気↑ガスと酸素の混合麻酔器(吸入器)を製作した。* |
1887年 | アセトアニリドは毒性が強いことが確認されたのでそれに変わるパラアミノフェノールの誘導体の探索が始まり、フェナセチンに、解熱作用のあることが見いだされた。 |
1889年 | Ludwig Edinger↑(P 1855〜1918, フランクフルト)は、Gowers↑が途中まで追跡していた脊髄視床路が視床に達する事を発見し、温痛覚の経路であると報告した(Anat Anz)。「交叉性求心路」と命名したが、厳密に言えば、非識別性触覚の伝導路である前脊髄視床路??? |
1889年 | G. H. Hurd(米国)笑気↑・クロロホルム↑麻酔器を開発した。 |
1889年 | Maximilian Oberst of Halle(P 1849〜1925, ドイツ)が、指に低濃度のコカインを投与し、伝達麻酔を一般に広く応用した。(Oberst麻酔 Oberst's method) |
1889年 | Paul Reclus(1847〜11914, パリの外科医)はコカインによる死亡患者の名簿を丹念に調べ研究し、、常に新鮮なコカイン溶液を用いる方が副作用が少ないこと、および低用量(2%から0.5%に減量した) にすると、急性中毒の危険性が少ないことを見出した。 |
1889年 | Karl Mornerが、アセトアニリドとアセトアミノフェンの関係を研究した。アセトアニリドは生体内でパラアミノフェノールに酸化されることがわかった。 |
1890年 | Conan Doyle コナンドイルの「Sherlock Holmes シューロック・ホームズ」シリーズ第2作目の「The Sign of Four 4つのサイン」では、ホームズがコカイン↑に手を染めている場面から始まる。コカインの7%溶液を毎日注射する。1日に3回もコカインだけでなく、モルヒネを打つ。当時コカインは有害とされていなかったので、Holmesに影響されて、コカインを常用した人も少なくないかもしれない。Holmesのモデルは、作者の医学部時代の恩師である外科医のジェゼフ・ベル博士とされている。 |
1891年 | Heinrich Wilhelm Gottfried von Waldeyer-Hartz(P 1836/10/6〜1921/1/6, ドイツの解剖学者)が神経細胞とその突起を神経系の構造単位とし、ニューロンと命名 |
1891年 | Sir Victor Alexander Haden Horsley(P 1857〜1916)が三叉神経痛のために、外科的治療を行った。middle fossa approach(硬膜外アプローチ)で、三叉神経の第II枝と第III枝を部分的に切断した。それを1891年にFrank Hartley(ニューヨーク)、1892年にKrause(ドイツ)が1892年に一部改変した。 |
1891年 | Francis Gotch(*1853〜1913、ロンドンの生理学者、1899 年に神経インパルスの不応期を記載)とSir Victor Alexander Haden Horsley↑(P 1857〜1916)が初めて記載した後根反射を、1935年にBarron DHとMatthews BHCが詳細に研究した。* |
1891年 | Heinrich Irenaeus Quincke(P 1842〜1922、キール大内学科教授)が結核性髄膜炎の患者に対して、頭蓋内圧を下げるために、はじめて腰椎穿刺をしてはじめて髄液を採取した(現在も「Quincke needle」の名が残っている。)。 |
1891年 | 片山敦彦が、米国から笑気↑の吸入器を持ち帰り抜歯に用いた。 |
1892年 | Santiago Ramón y Cajal(P 1852/5/1〜1934/10/17、スペインの神経解剖学者)はゴルジの鍍銀法を用い、情報の流れを検索した。神経刺激は網状構造ではなく 神経細胞の接触により伝導すると主張した。また刺激が樹状突起により受け止められ、神経細胞を通過し、軸索により伝達されることを明らかにした。:ニューロン説 |
1892年 | Bregman BS が三叉神経脊髄路に求心性神経が含まれることを証明した。ウサギのガッセル神経節を切断すると、三叉神経脊髄路が変性することを見出して、橋の高さで脳幹に入った三叉神経求心性線維が三叉神経主感覚核に向かう枝と、三叉神経脊髄路核に向かう枝に分かれることを明らかにした。 |
1892年 | Sir William Osler(P 1849〜1919, アメリカ、内科医、医学教育者)の著書『医学の原理と実践 Principles and Practice of Medicine』の中で、「Mucous colitis→IBS」について記載している。また、急性腰痛に対する鍼・灸の有効性も記述している。⇒詳細 |
1892年 | Carl Ludwig Schleich (P 1859〜1922, ベルリンの外科医)が、神経幹への直接注射法の代替えとして局所浸潤麻酔を導入した。濃度の低いコカイン↑(0.01〜0.2%)を直接皮下組織に注射・浸潤させて、手術を行った。同年ベルリンで開催されたドイツ外科学会で浸潤麻酔について発表した。 |
1893年 | Sir Charles Sherrington(P 1857〜1952, イギリスの生理学者)↓がサルの神経根を切断して、デルマトームをマップした。 →ノーベル生理学・医学賞(1932年) |
1893年 | Henry Head(P 1861〜1940, イギリスの神経学者)は、彼の1893年の学位論文で、内臓疾患に伴う関連痛、いわゆる「ヘッド帯 Head's zone」を調べた。1900年にはAlfred Walter Campbell (1868〜1937, シドニーの病理学者)と共著で、帯状疱疹後神経痛疹の脊髄根にマッチしている末梢神経のデルマトームをマップした。[Head H, Campbell AW. The pathology of herpes zoster and its bearing on sensory localisation. Brain 23:353-529, 1900.] 1/2 |
1893年 | Sir James Mackenzie(P 1853-1925, 英国の内科医)が関連痛のメカニズムとして、Mackenzieの収束促通説を提唱した。 |
1893年 | Joseph Freiher von Mering(ドイツの内科医)がアセトアミノフェンを初めて臨床に使用したが、アセトアミノフェンがアセトアニリドおよびフェナセチンの活性代謝物であることは、1949年になってやっとわかった。 |
1893年 | Isaac Blum (1833/4/11〜1903/4/13, ドイツの病理学者)と息子のFerdinand Blum(1865/10/3〜1959, ドイツの病理学者)がホルマリン固定法を開発した。 |
1894年 | Carlson(スウェーデンの歯科医)が、エチルクロライド(クロールエチル)を口腔内にスプレーして、抜歯に成功した。 |
1894年 | Alfred Goldscheider(P 1958〜1935, von Freyの弟子)もvon Freyと同じような器具を使って、人の生理心理学的実験を行った。皮膚に加える機械的刺激の強度を強めていくと、感覚は触覚から痛覚に変わったので、「パターン説」を提唱した。触覚と痛覚情報は、同一神経に起因することを示唆した。 |
1894年 | Henry Rutgers Marshall(1852~1927, アメリカの心理学者)は、痛みは感情であり、感覚ではないと述べた。→痛みの感情説 |
1894年 | Franz Nissl↑(P 1860/09/09〜1919/08/11, ドイツの組織学者)が神経をdahlia violとmethylene blueで染色できることを発見した。 →Nissl染色 Nisslはaxotomyの初めての報告をした。ウサギの顔面神経の軸索を損傷させると逆行性変性が起こり、中枢にある細胞体周辺のグリアが大きく様変わりしていることを発見した。 ←→神経損傷時のグリアの変化 |
1894年 | Leonard G. Guthrie(1858〜1918)が、遅延性のクロホルム肝毒性が見られた小児症例の数例を報告し、クロロホルム↑麻酔が衰退し始めた。 |
1895年 | Maximilian Ruppert Franz von Frey(P 1852/11/16〜1932/1/25, ビュルツブルグ, Carl Ludwig's physiological Institute in Leipzig)がvon Frey Hairを使って、皮膚の感覚点の温点、冷点、圧点、痛点を見つけた。それ以降「皮膚の痛みは、痛点を刺激したときにだけ起こる。」とされ、痛みは独立した感覚であることが認められた。 →Freyの特殊説 |
1895年 | Adolf Wallenberg(P 1862〜1949、ドイツの神経学者)は、後下小脳動脈が閉塞して、延髄背外側部に軟化巣があると、病巣と同側の顔面の痛覚と温、冷覚が失われるが、触覚は残ることを報告した(=ワレンベルグ症候群)。彼はBregmann↑の研究を知っていて、この疾患に見られる感覚の乖離が三叉神経脊髄路の損傷によってもたらされたと考え、翌年ウサギの三叉神経脊髄路を延髄の高さで切断する実験を行って確認した。(外側延髄の梗塞障害については、Wallenbergよりも前に1810 年にGaspard Vieusseuxによって報告されていた。) |
1895年 | 神翁金斉が、笑気↑ガス麻酔器を米国から輸入した。 |
1895年 | Sigmund Freud↑(P 1856〜1944, オーストリアの精神科医)とJosef Breuer(1842〜1925)が「Studien über Hysterie ヒステリーの研究」を出版した。→転換性障害 |
1895年 | Wilhelm Conrad Röntgen(レントゲン 1845/3/27〜1923/2/10, ドイツの物理学者)が、X線を発見した。(Walter Bradford Cannon↓は、Röntgenが発見したX線を使ってネコの消化管の動きを観察した。) |
1895年 | William His(1831〜1904, バーゼル大の解剖学者、ヒス束を発見したWilhelm His Jr.(1864〜1934)の父親)が、「hypothalamus」という用語を初めて使った。1889年には「Dendriten」 という用語を使っている。 |
1896年 | Hermann Wülfing Luer(パリで活躍し、1883年頃に亡くなったドイツ人)は全ガラス製の注射器を紹介し、1898年にその特許をBecton, Dickinson an Companyに売却し、$2.50で販売された。 (ルアーロック式注射筒とは、ルアーの溝に注射針をねじ込むように回転させながら装着するタイプのシリンジ。針がシリンジにしっかりと固定され、注入時に圧がかかっても針がぬけないようになっている。 ) |
1896年 | 伊沢信平が神翁↑の麻酔器を使い、笑気↑吸入で初めて歯科治療を施行した。 |
1897年 | Henri Verger(1873〜1930年, ボルドーの神経学者*)が、剖検例から、中心溝周囲の病巣では、要素的な感覚が保たれていても、立体覚などの複雑な感覚障害が起こることを示した。 |
1897年 8月10日 | Felix Hoffmann(P ドイツバイエル社)は、Gerhardt↑の方法を学んで、アセチルサリチル酸↑(=アスピリン)の合成に成功した。⇒詳細 |
1897年 | von Solderは外側脊髄視床路(温痛覚の伝導路)と前脊髄視床路を区別した(Neurol Centralbl)。 |
1897年 | Heinrich Braun↓(P 1862〜1934, ドイツの外科医)がコカイン↑溶液にアドレナリンを加えると、コカインの吸収が遅延され、麻酔時間を延長すること(化学的ターニケット chemical tourniquet ↑)を発表した。 →1905年に教科書 |
1897年 | Henri Verge(1873〜1930)は、中心溝周囲の病巣では要素的な感覚が保たれていても、立体覚などの複雑な感覚の障害が起こる事を示した。 |
1897年 | Karl Ferdinand Braun(P 1850〜1918, ドイツの物理学者)が陰極線オシロスコープ Braun-tube Oscilloscope(Cathode Ray Oscilloscope)を発明した。* |
1898年 | Arthur Van Gehuchten(P 1861〜1914、ベルギーの解剖学者)は、脊髄空洞症の症例から、痛覚と温度の線維は脊髄の前側索を、位置覚を伝える線維は後索を通ることを見つけた。 |
1898年 | Karl Gustav August Bier↓(P 1861〜1949, キール大学の外科医)が、0.5%のコカイン溶液3mlを患者の脊髄腔に注入し、脊椎麻酔を立証した。⇒詳細 |
1898年 1905年 | John Newport Langley(P 1852-1925, イギリスの生理学者)が1898年に、Jacques Benigne Winslow(1732)が"nervus sympathicus"と命名していた「自律神経」に対して、"autonomic nervous system"という用語に改めた(auto=自分自身 + nomos=規則)。そして1905年にsympatheticとsparasympatheticに分類し直した。 |
1899年 | Vladimir Mikhailovich Bechterev(P 1857-1927、ロシアの神経学者)が前側索を上行する伝導路を「脊髄視床路」と命名した。(Ludwig Edinger↑は、前外側索を「交叉性求心路」と名づけていた。)内側毛帯は錐体交叉のすぐ後ろで交叉すること(毛帯交叉)も記載した。 |
1899年 | Magnus Blix(P 1832〜1904, ウプサラ)↑は、人や動物の毛やを使って、人の手掌の皮膚感覚をマップした。痛点は、モザイク状であり、触点は一致しないことを示した。それぞれの感覚点には、解剖学的に異なる構造を持つと示唆した。 |
1898年 | Heinrich Dreser(P 1860〜1924, ドイツの化学者)がアスピリン↑と命名し、ドイツバイエル社がアスピリンを発売した。アスピリンは1899年3月6日にバイエル社によって商標登録されたが、第一次世界大戦のドイツの敗戦で(大日本帝国を含む)連合国に商標は取り上げられた。 Dreserの研究室から、新しい鎮痛性モルヒネ誘導体として、ヘロインが鎮咳薬として発売された。Dreserばドイツ語「heroish(=heroic、英雄的な、効果が大きい)から「heroin」と名づけた。 |
19C 清代 | これまで盛んに研究されてきた鍼灸の廃止令:「鍼灸の一法、由来已に久し、然れども鍼を以って刺し火をもて灸とするのは、究むるところ奉君の宜しきところにあらず…永遠に停止と著す」が発せられたが、既にこの頃には大衆化していた鍼灸治療は衰えを見せる様子もなく、その後も総括や臨床に関する「鍼灸集成」(1874年)「神灸経論」(1853年)などの専門書が出され、現代鍼灸学に多大なる影響を与えた。 |
1900年- 1906年 | Sir Henry Head↑(P 1861〜1940, イギリスの神経学者)は、2年間で450の症例と21の剖検をした。Henry HeadとAlfred Walter Campbell(1868〜1937, 英国の病理学者、神経学者 1/2)は1900年に、帯状疱疹のデルマトームをマップし、それぞれのデルマトームは単一のDRGに相当することを示した。 |
1900年 明治33年 | 高峰譲吉(1854〜1922)と助手の上中啓三(1876〜1960)が、副腎髄質から血圧上昇作用のある物質(C10H15NO3)の抽出に成功し、「アドレナリン」と命名した。 ⇒詳細 |
1900年 | Paul Hermann Martin Sudek(Sudeck)(P 1866〜1945, ハンブルグの外科学教授)が関節、特に手関節や足関節の捻挫、またはその他の軽度な外傷の後で現れる骨の斑点状骨塩脱落と軟組織の痛みを伴う萎縮を報告した。この病態はSudeck萎縮 (Sudeck dystrophy, Sudeck's atrophyまたは外傷後骨粗鬆症 (post-traumatic osteoporosisi)と呼ばれている。これは大きな末梢神経の損傷がないのに起こるカウザルギー様疾患である |
1900年 | 生地仙之助と盛林堂(東京神田)が、国産のガラス製注射器↑開発した。 |
1900年 | Harvey Williams Cushing(P 1869〜1939, アメリカの脳外科医、Halsted↑の弟子、Horsley↑にも影響された)は三叉神経痛の治療のために、Gasserian ganglionectomyを行った。 |
1900年 | Eduard Hitzig(P 1838〜1907, 運動野の発見者の一人)は、痛みの中枢が皮質下にあって、大脳皮質は痛みに関与しないと考えた。 |
1901年 | Charles Harrison Frazier↓(P 1870〜1936, フィラデルフィアの脳外科医)とWilliam Gibson Spiller↓(P 1863〜1940, フィラデルフィアの神経病理学者)は、三叉神経痛の治療のためのHarvey Cushing↑のganglionectomyは、困難でかつ危険を伴うので、Horsleyの方法を広め、三叉神経痛の治療として、Hartley-Krause approachで、三叉神経を部分的に切断した。 |
1901年 | Racoviceanu-Pitesti(ローマの外科医)が、はじめてオピオイド↑の髄腔内投与による麻酔の報告をした。 |
1901年 | Jean-Anthanase Sicard(P 1872〜1929、フランスの放射線科医)とFernand Cathélin(1873〜1945、フランスの泌尿器科医)がそれぞれ仙骨裂孔にコカインを注入して硬膜外麻酔を臨床応用した。 |
1901年 4月2日 | 北川乙冶郎(名古屋)、東良平(金沢)が、東京で開催された第3回日本外科学会2日目において、本邦初の脊椎麻酔の症例報告及び世界初のモルヒネ↑のくも膜下投与の報告をした。 |
1902年 | Stephane Armand Nicolas Leduc (1853〜1939)とPetersonが、電気↑麻酔(electronarcosis=transcranial electrostimulation - TES)に成功した。Leduc は、自分自身に電気麻酔をかけると、意識ははっきりしているが、会話と運動が抑制された。 |
1902年 | Richard von Steinbuchel(オーストリアの内科医)がモルヒネとスコポラミンによる Twilightsleep 半麻酔状態による産科麻酔を開発した。 |
1902年 | Charles Robert Richet(P 1850/8/26〜1935/12/4, フランスの生理学者、 アレルギー研究の父、1913年にノーベル賞受賞)らがアナフィラキシーを発見した。 |
1903年 | Hermann Emil Fischer(P 1852〜1949, ベルリンの化学者, von Baeyerの弟子)とJoseph von Mering(生理学者)が、5,5‐ジエチルバルビツール酸を合成して、 Bayerから催眠薬ベロナールVeronalとして売り出された。(1902年Fischerは、ペプチドの合成、フィッシャー投影式の発案、エステル合成法(フィッシャー合成)の発見などの功績で、ノーベル化学賞を受賞した。) |
1904年 | Sir William Richard Gowers↑(P 1845〜1915, イギリスの神経学者)が局所の圧痛と触診で触れるしこりのある「muscular rheumatism」を記載し、「結合組織炎 fibrositis」という用語を使った。過敏点=トリガーポイントが存在することを発表した。→線維筋痛症候群 Gowersは片頭痛に伴われる輝性暗点についても記載している。1889年に書いた教科書の中で片頭痛の治療法としては、強いお茶、コーヒーやエルゴタミンが有効と書いている。 |
1904年 | Ralph Stockman(P 1861〜1946, Glasgow大学の病理学者)は、繊維状の筋内の膜(fibrous, intra-muscular septa)の生検から筋内の結節に炎症による変化を見つけた。(fibromyalgia関連) |
1905年 | Alfred Einhorn(P 1856〜1917, ドイツの化学者)が、注入できる最初の局所麻酔薬であるProcaine(Novocaine)を合成し、Heinrich Braun↑(1862〜1934)が臨床応用した。 ⇒詳細 |
1905年 | Heinrich Braun↑(P 1862〜1934, ドイツの外科医)が、「局所麻酔」に関する教科書を出版した。 |
1905年 | William Gibson Spiller(P 1863〜1940, フィラデルフィアの神経病理学者)が、下肢の触覚が保たれているが、温冷覚、痛覚が消失している結核腫瘍の患者の剖検から、脊髄の両側に一つずつ結核腫があって、胸髄レベルの脊髄の前側索が両側性に侵されていることを見出した。(→1909年, J Nerv Ment Dis)。 |
1905年 | Krawkow(Kravkov) Nikolai Pavlovich (1865〜1924, ロシアの薬理学者)が、hedonal(ウレタンの誘導体)を静脈内麻酔に使用した。 |
1905年 | Hugo Sellheim(P 1871〜1936, ライプツィッヒの産婦人科教授)が傍脊椎ブロック Paravertebral blockを実施した。 |
(1903) 1906年 | Sir Charies Scott Sherrington↑(P 1857〜1952, イギリスの生理学者)が"The integrative Action of the Nervous System"の中で「侵害刺激、侵害受容器、侵害受容性反射」の概念を記述した。 →ノーベル生理学・医学賞(1932年) |
1906年 | Joseph Jules Dejerine (P 1849〜1918, パル大学教授)とGustave Roussy(P 1874〜1948, スイスーフランス、神経病理学者)が視床の傷害後の患者に軽度の麻痺、知覚傷害、片側性の運動失調、耐え難い神経性あるいは発作性の疼痛が共通してみられることを報告して、この疾患を「視床症候群」と命名した。 |
1906年 | RusselとSir Victor Alexander Haden Horsley(P 1857〜1916, イギリスの生理学者)は、深さ2mmに達する中心溝後壁の切除後、痛覚と温度感覚が消失した症例を経験したところから、大脳皮質の中心後回が痛みの発現に関与すると主張した。 |
1906年 1908年 | Sir Victor Alexander Haden Horsley↑(P 1857〜1916, イギリスの生理学者、脊髄腫瘍、下垂体腫瘍、三叉神経切除)とRobert Henry Clarke(1850〜1926, 英セント・ジョージ病院の技術者)が1906年に、サル・ネコの深部脳刺激のために、定位固定装置を開発した。動物の頭蓋表面構造ー外耳孔、眼窩下縁ー外耳孔、眼窩下縁ー外耳孔を結ぶ線をランドマークとしたもの。 Horsleyは1908年に、小脳の生理実験の中で、「stereotaxis」という用語を初めて使用している。その後Clarkeはヒト用の定位脳手術装置を開発したが、臨床応用には至らなかった。(↓ヒト用定位脳手術)* |
1907年 | James Ramsay Hunt(P 1872〜1937, アメリカ、コロンビア大学神経科教授)が過去30年の文献56例と自験4例からラムゼイハント症候群を報告した(J Nerv Ment Dis)。 |
1908年 | Karl Gustav August Bier↑(P 1861〜1949, キール大学の外科医)が、プロカインによる静脈内局所麻酔 intravenous regional anesthesia(IVRA) について記載した。 |
1908年 | Leo Buerger(P 1879〜1943、オーストリア生まれアメリカ人、内科医、泌尿器外科)が1908年によって初めてバージャー病(閉塞性血栓血管炎: TAO)について報告し、命名した。 |
1909年 | Burkhardtが、クロロホルム↑とエーテル↑を静脈内麻酔に使用した。 |
1909年 | Korbinian Brodmann(P 1868〜1937, ドイツの神経学者)が解剖学・細胞構築学的に大脳新皮質を52の異なる領域に区分した。 |
1909年 | Harvey Cushing↑(P 1869〜1939, アメリカの脳外科医)は、局所麻酔薬で開頭した患者の頭頂葉を電気刺激して、どのような感覚体験が起こるかを系統的調べた。 |
1910年 | Robinovitchが電気↑麻酔下に足の切断に成功した。 |
1911年 | William Gibson Spiller↑はEdward Martin(P 1859〜1938, Spillerの同僚の脳外科医)を説得して、脊髄腫瘍による下肢の痛みに苦しんでいる患者の脊髄前側索(腹外側)を両側性に切除すると、痛みが消失した。直視化に脊髄の前側索の切截術を行ったコルドトミーの始まりである。 |
1911年 | Henry Head↑(P 1861〜1940, イギリスの神経学者)とGordon Morgan Holmes↑(P 1876〜1966年, ロンドン)が、中心後回病巣患者の剖検報告をし、体性感覚は基本的に保たれているが、その強さ、部位、大きさ、空間的関係、立体感覚がわからなくなることを発表した。 大脳皮質が損傷された患者のすべてが痛覚鈍麻や消失を示さなかったという臨床体験から、すべての体性感覚情報はいったん視床の外側部に達した後、二手に分かれると考えた。位置感覚と弁別的な皮膚感覚は直接大脳皮質に送られるが、痛覚、温覚、冷覚および粗大な触覚は視床内の外側部に達し、ここから視床の内側部に送られた後、そこから意識に上る。←大脳皮質は痛みに関与しない。 |
1911年 | George Hirschel(1875〜1963,ドイツ)が、腕神経叢ブロック(腋窩法)brachial plexus block for operations on the upper extremityを行った。 |
1911年 | Diedrich Kulenkampff(1880〜1963, ドイツ)が、腕神経叢ブロック(鎖骨上法)を行った。 |
1911年 | Alfred Goodman Levy(1866〜1954)が、浅いクロロホルム↑麻酔とアドレナリンの組み合わせた致死性の心室細動を引き起こすことを動物実験で示し、これによってクロロホルム麻酔をうけた健常患者で数例報告されていた原因不明の突然死が説明されたため、クロロホルム麻酔が将来にわたって用いられる可能性がなくなった。 |
1912年 | Arthur La(e)wen(P 1876〜1958, ケーニヒスベルグ大外科)がクラーレを麻酔時の筋弛緩に利用した。 |
1913年 | Danis(ベルギー)が、経仙骨孔神経ブロック(transsacral anesthesia)を行った。 |
1914年 | Charles Harrison Frazier(P 1870-1936, フィラデルフィアの脳外科医)は1914年に前側索切截術を改良し、1920年には、上位胸髄が最適部位であると報告した。 |
1914年 | Sir Henry Hallett Dale(P 1875/7/9〜1968/7/23、英国の神経科学者)がアセチルコリン神経伝達物質であることを明らかにした。 →ノーベル賞受賞者(1936年) |
1914年 | George Washington Crile(P 1864〜1943, アメリカの外科医)はショックのない外科手術を実践した。疼痛が手術ショックの発生に寄与し、手術侵襲の影響を少なくするために、手術1時間前、モルヒネとスコポラミンを前投薬し、術中の全身麻酔は笑気と酸素を吸入した。傷害される組織からの情報が脳へ届かないように、手術野には切開を加える部位にはプロカインの浸潤麻酔を併用した。重症の場合における術後の不快を軽減させるために、キニンと塩酸尿素溶液を傷から離れた部位に注射した。全身麻酔による手術の終了間際に、手術部位を局所麻酔すると、ショックの発生が妨げられ、予後がよいと報告した。1914年の著書で、全身麻酔をかけても、手術のストレスの影響が中枢神経系に及ばないようにすべきであると主張し、anociassociationの概念を提唱した。 |
1914年 | 米国では初の麻薬↑取締法である「ハリソン麻薬法 Harrison Narcotics Act」が制定され、国税当局の免許を得ることなく、麻薬の生産、輸入、製造、調剤、販売等に従事することが違法とされた。 |
1915年 1927年 |
Walter Bradford Cannon(P 1871〜1945, アメリカの生理学者、William James↑の弟子)は、闘争・逃走反応でアドレナリンが多量に分泌されることを発見した。さらにストレスがかかった動物では消化管活動が抑制されX線で観察し、情動が消化管活動を変化させることを発見した。 |
1915年 | René Leriche↓(P 1879/10/12〜1955/12/28, フランスの外科医)は、第一次世界大戦(1914〜1919)の負傷兵の神経損傷後の激しい疼痛(カウザルギー)に対して、その原因は交感神経の過剰活動によるものと考え、動脈周囲の末梢交感神経遮断 periarterial sympathectomyを行った。Lericheは、痛みの外科治療に関する最初の教科書を著した。 |
1916年 | オキシコドンがデバインの半合成誘導体として合成された。 |
1916年 | Thomas Jonnesco(=Thoma Ionescu P 1860/9/13〜1926/3/28, パリ→ブカレスト Bucharestの外科医)が眼球突出性甲状腺腫(exophthalmic goiter)の治療に星状神経節ブロックを行った。1899年には緑内障の治療のため頸部交感神経切除術を行い、1902年には三叉神経痛、1905年には視神経萎縮症(optical nerve atrophy)、1917年には外頸動脈の血管腫(angioma of the external carotid artery)1921年には同様の手術で狭心症の治療に成功した。その成績を1920年に発表した。1900年にはlumbar sympathectomy、1901年にはsacral sympathectomy、1922年にはperi-arterial sympathectomyを行った。 |
1916年 | Georges Charles Guillain(P 1876/3/3〜1961/7/29 フランスの神経学)、Jean-Alexandre Barré(P 1876/3/3〜1961/7/29)とAndré Strohl(P 1887/3/20〜1977/3/10)が最初にギラン・バレー症候群を報告した。 |
1917年 | 1914年に第一次世界大戦が勃発して、英国はアスピリン↑の供給先のドイツから隔絶された。英国政府は、アスピリンの代替合成法を見つけた人に2万ポンドの賞金を出すと発表した。George Nicholas(メルボルンの若き化学者)がこの賞金を獲得し、彼の錠剤をAsproの名で市販した。 |
1917年 | Paul Trendelenburg(P 1884/3/24〜1931/11/4, ドイツの薬理学者、副腎のアドレナリン分泌などホルモンの生理・薬理学機構に関する世界的な権威)がモルモットから切り出した回腸の内圧を高めるときに観察される蠕動運動が、薬用量に相当するモルヒネで抑制されることを見いだした。 |
1918年 | Arthur Stoll(P 1887〜1971, スイス・サンドSandoz製薬の化学者)がエルゴタミンの単離に成功した。 |
1918年 大正7年 | 玉井天碧が「指圧法」を出版するにおよび「指圧法」として体系化した。指圧は、日本において発達した独特の手技である。古代中国の導引・按矯(古法按摩)や柔道の活法を総合した経験療法として江戸時代まで民間療法として行われてきたものが、明治時代に欧米の整体療術の理論と手技を取り入れて独自の手技療法として発達した。 |
1920年 | Henry Head↑(P 1861〜1940, イギリスの神経学者)とSir Gordon Morgan Holmes(P 1876〜1966年, ロンドン)が1920年に著した「Studies in Neurology」で最初に、「身体図式 body schem」の概念が記載された。 |
1920年 | Arthur Ernest Guedel(P 1883〜1956年, 米)が、エーテル↑の麻酔深度を4期に分類した。 |
1921年 | Fidel Pages Mirave(P 1886/1/26〜1923, スペインの内科医)が、腰椎硬膜外麻酔の43の症例を報告した。 |
1921年 | 中川小四郎(東北帝国大学杉村外科)が、「アルコールによる経静脈的点滴麻酔法」(独文)を発表した。 |
1921年 | 日本で初めて笑気↑を用いて口腔外科の麻酔が施行された。 |
1922年 | Louis Gaston Labat(P 1876〜1934, アメリカ)が「Text Regional Anesthesia 区域麻酔学」を著した頃には、ほとんどの局所麻酔法は確立されていた。局所麻酔、伝達麻酔、脊椎麻酔について記載した。 |
1923年 | William Gibson Spiller↑が、脊髄空洞症とアロディニアについて記載した。 |
1923年 | Richard von Foregger(P 1872/6/27〜1960 ウィーン→米国の化学者、Foregger Companyの創設者)が、4基の hanger yoke (ボンベ装着装置)とエーテル↑気化器を備えた Seattle 型麻酔器を開発した。 |
1924年 | Sir Thomas Lewis(P 1881〜1945, University College Hospital in London)が3重反応を発表した。 |
1924年 1929年 | Hans Berger(P 1873〜1941, イエナ大学精神科教授)が1924年に初めて人の脳波の記録した。1929年に論文として発表したが、その当時はあまり注目されなかった。Edgar Douglas Adrian↓(P 1889〜1977)が1933年に追試し、ベルガーの脳波記録をBerger Rhythmとして紹介した1年後にやっと脳波学会からも注目された。 ←動物の脳波記録 |
1924年 | Jay Albion Heidbrink(1875〜1957, Minneapolisの麻酔科医)が、麻酔バッグの圧による作動開閉弁と笑気↑、エチレン、炭酸ガス、酸素にそれぞれ2基の hanger yoke とエーテル↑気化器を備えた Lundy-Heidbrink 型麻酔器を開発した。 |
1925年 | René Leriche↑(P 1879/10/12〜1955/12/28, フランスの外科医)らが初めて、Procaineで星状神経節ブロックを行った。そして、1934年にanterior paratracheal approachでの星状神経節ブロックについて記載した。 |
1925年 | Ernst Rothlin(Sandozの薬理学教授)が酒石酸エルゴタミンの皮下注射が片頭痛発作に有効であることが発見した。 |
1925年 | Sir Robert Robinson(P 1886〜1975, マンチェスター大学→オックスフォード大学の化学者, ノーベル賞受賞)がモルヒネの構造を決定した。 |
1926年 | Edgar Douglas Adrian(1st Baron Adrian of Cambridge )(P 1889〜1977, ロンドンの電気生理学者)とYngve Zotterman (1898〜1982/3/13, Adrianの門下生、スウェーデンの神経科学者)が初めて筋紡錘を神経支配する単一神経線維から感覚神経を初めて記録した。活動電位は感覚神経の終末で発生し、受容器が修飾された情報は、インパルスの頻度を変えることによって伝えられることを発見した。(「全か無かの法則 all-or-none principle」は、H.P. Bowditch (1871)がカエルの心臓で最初に観察し、提唱した概念であり、Adrianは神経線維にも当てはまることを証明した。)→ノーベル賞受賞者(1932年) |
1926年 | フェンサイクリジン(PCP)が合成され、1950年にParke, Davisは特許をとり、Sernylという商品名をつけて、外科手術用の麻酔薬として研究を始めた。 |
1926年 1927年 | 「聖アントニウスの火」の原因が麦角アルカロイドであることがわかった後も、ロシアでは麦角中毒が発生し、約1万人の罹病し93人が死亡した。同年、英国で200件の報告があった。 |
1927年 | Nelse F. Ockerblad(アメリカKansas大学泌尿器科医)とTG Dillonが、脊椎麻酔時の低血圧にエフェドリンを使用した。(アメリカ)が、脊椎麻酔時の低血圧にエフェドリンを使用した。 |
1927年 | Chester William Darrow(アメリカ)が、galvanic skin reflexの研究をした。→ |
1928年 | Tzanck Aはエルゴタミンを片頭痛の治療に応用して、その成績を「酒石酸エルゴタミンによる片頭痛の治療 Le traitement des migraines par le tartrate d'ergotamine, Bull. et mdm. Soc. mdd. ci hOp. de Paris 1928;52:1057-1061.」という論文に発表した。 |
1929年 | Herbert Spencer Gasser(P 1888〜1963, アメリカの生理学者)とJoseph Erlanger↓(P 1874〜1965)が、加圧とコカイン麻酔↑による神経線維の伝導ブロックを報告した。これらの実験によって、末梢神経軸索の各々に対する特異的適合刺激を決めることができた。 →ノーベル賞受賞者(1944年) |
1929年 | Edgar Douglas Adrian↑(P 1889〜1977, ロンドンの電気生理学者)とDeltev Bronkが、同心針電極で筋電図を記録した。 →ノーベル賞受賞者(1932年) |
1930年 | Sir John Carew Ecclesが、屈曲反射の抑制を示した。 →ノーベル生理学・医学賞(1963年) |
1931年 | Ulf Svante von Euler(P オイラー 1905/2/7〜1983/3/10, Stockholmの生理学者、Hans Karl August Simon von Euler-Chelpinの息子)がDale's laboratoryでポスドクをしていた時、John Henry Gaddum(P 1900/3/31〜1965/6/30, 英国の薬理学者)との研究で、腸管収縮、血圧上昇物質を発見し、substance Pと名づけた。 →ノーベル生理学・医学賞(1970年) |
1931年 | Achille Mario Dogliotti (P 1897/9/25〜1966/6/2, Turin, Italy Universita Di Torinoの外科医) によりa |
1931年 | Albert Schweitzer(1875/1/14〜1965/9/4):「痛みは、死そのものより恐ろしい暴君である。」 "Pain relief, we can do much better. We all must die but if I can save him from days of torture, that is what I feel is my great and ever new privilege. Pain is a more terrible load on to mankind than death itself". *( 「My Life and Thought」 Schweitzer's autobiography, first published in German in 1931, translated to English in 1933 by C. T. Campion. ) |
1932年 | 最初の静脈麻酔として、Helmut Weese(1897〜1954, ドイツ出身のアルザス人で、フランスの神学者・医師・哲学者・音楽家、仏領赤道アフリカのガボンで医療活動、1952年のノーベル平和賞受賞者)とScharpffがhexobarbital (Evipan、超ショートアクティングのバルビツレート↑) を麻酔の導入に用いた。 |
1932年 | Donalee Tabern(P 1900 〜1974, Abbott社の化学者)とErnest H. Volwiler(P 1893/8/22〜1992/10/3, Abbott社の化学者→CEO)が、thiopental (Pentothal) とthiamylal (Surital)を合成した。Abbottでは、バルビツレート核の酸素原子を硫黄原子に置換した硫化バルビツレートを数種類作成し、共同研究していたArthur Lawrie Tatum(Wisconsin大学の薬理学教授、長男はノーベル賞受賞者のEdward Lawrie Tatum)に送付したところ、Tatumはthiopental が有効であると判断したので、AbbottはPentothalとして売り出した。 |
1932年 | Burrill Bernard Crohn(P 1884/7/13〜1983/7/29, ニューヨークの消化器内科医)と共同研究者のLeon GinzburgとGordon Oppenheimerがクローン病(終末回腸炎、限局性回腸炎 terminal ileitis)として症例を報告した。 |
1932年 | Jan Friedrich Tonniesがペン書きの脳波計を開発した。 |
1934年 | (1930年にRaphael Kurzrok(University of New Yorkの婦人科医)とCharles Lieb(University of New Yorkの薬理学者)がヒトの精液中にある子宮筋収縮作用,血圧降下作用を持つ物質として発見していた。M. W. Goldblatt(イギリスの薬理学者)も1933年にヒトの精漿内からprostaglandinを発見していた。) とUlf Svante von Euler↑(P オイラー 1905/2/7〜1983/3/10, Stockholmの生理学者)は、ヒトの精液中に血圧降下作用と平滑筋の収縮作用があることを確認した。Ulf von Eulerは,前立腺(prostate grant)で合成されていると思い,prostaglandinと命名したが、後で様々な臓器で合成されることがわかった。 |
1933年 | William Jason Mixter(P 1880〜1958, マサチューセッツ総合病院の神経外科医)とJoseph S Bar(整形外科医)が1933年に、19例の臨床病理所見から、椎間板ヘルニアは変性した椎間板の突出であり、髄節に応じた神経症状を起こすことを確立した。 |
1933年 | Ralph Waldo Gerard(P 1900〜1974, 米国の生理学者)が初めて実験的誘発電位を記録した。 |
1933年 | Otfrid Foerster(P 1873/09/09〜1941/07/15, ドイツの脳外科医)は、痙性麻痺のためのリゾトミーや、疼痛治療のための前外側コルドトミーを考案して、デルマトームも研究した。参考 |
1933年 | Henrik Samuel Conrad Sjögren(P 1899/7/23〜1986/9/17, スウェーデンの眼科医)がシェーングレン症候群を初めて記載した。 |
1934年 | Walter E. Dandy(P 1886〜1946、ジョンホプキンスの脳外科医、Cushing↑の最初の弟子)が三叉神経痛に対する新しい術式を創案し、200例以上の術中の観察から、神経血管圧迫説を提唱したが、その仮説の真偽は、30年以上検証されなかった。(Dandyは1918年に空気脳室撮影や気脳撮影を開発) |
1934年 | Ralph M. Waters(P 1883〜1979, Wisconsin大学の麻酔科教授)とJohn Silas Lundy(P 1894〜1973, Mayo Clinicの内科医)が静脈内麻酔↓として、pentothal sodium(thiopentone →ラボナール↑)を臨床応用した。(Watersは3月8日から使用し始めていたが、報告は翌年。Abbottの依頼により、Lundyの方が成果を先(6月)報告した。高名であるが謙虚な Watersは、Lundyの功績を認めた。) |
1935年 | Telford EDらがsupraclavical approachの交感神経遮断術を行った。この方法は、posterior approachよりも痛みが少ないが、神経や血管を損傷するリスクがある。 |
1935年 | Harold Ward Dudley(1887〜1935, ロンドンの国立医学研究所:NIMR)とJohn Chassar Moir(1900〜1977, オックスフォードの産科教授)らが麦角から「エルゴメトリン ergometine」または「エルゴノビン ergonovine」の分離に成功した。 |
1935年 | Walter Abraham Jacobs(1883/12/24〜1967/7/12, ニューヨークのRockefeller Instituteの化学者、Hermann Emil Fischer↑ Pの下で学位取得)が麦角アルカロイドの有効成分にレゼルグ酸(lysergic acid)とイソレゼルグ酸(isolysergic acid)が含まれることを報告した。→麦角菌 |
1936年 | Emery Andrew Rovenstine(P 1895〜1960 Ralph M. Watersの最初のレジデントであり、Emmanuel Papper、Virginia Apgar、Stuart Cullenなどアメリカの代表的な麻酔科医を多く育てた。)がNew York UniversityのBellevue Hospitalに最初のnerve block clinic for painを設立した。 |
1936年 | Hans Selye(P 1907〜1982, ハンガリー出身のカナダの病理学者、生理学者)は、有害な因子によって体に生じた歪みと、それに対する防衛(適応)反応を「生体内の歪みの状態」、すなわちストレスと呼び、「汎(一般)適応症候群」を提唱した。 |
1937年 | Wilder Graves Penfield(P 1891〜1976)とEdwin Boldrey(P 1906〜1988)は163人の脳手術患者(主としててんかん患者)の中心前回と中心後回に電気刺激を加えると、のべ800回以上の感覚応答を引き出すことができたが、そのうち痛みが報告されたのはわずか11回であり、大脳皮質が痛覚の発現に本質的な役割を演じないと結論した。postcentral gyrus (SI)を刺激しても痛みの申告はなかった。 |
1937年 | 「Papezの情動回路 Papez circuit」:James W. Papez(P 1883〜1958, アメリカの神経解剖学者)は、辺縁葉 le grande lobe limbiqueは、情動に関する解剖的基盤となる神経回路を形成すると報告した。 ⇒詳細 |
1937年 | Joseph Erlanger(P 1874〜1965)とHerbert Spencer Gasser↑(P 1888〜1963, アメリカの生理学者)が求心性線維を直径によって3群に分類した。 |
1937年 | Heinrich Klüver(P 1897/5/25〜1979/2/8 心理学者)とPaul Bucy(P 1904/11/13〜1993 シカゴの神経学者)とPaul Bucy(P 1904/11/13〜1993 シカゴ大学の脳外科医)はメスカリンが海馬の働きを撹乱して幻覚を起こすのであろうという仮説をたて、この仮説を検証するために、アカゲザルの両側側頭葉を切除し、その結果として出現する5つの徴候を示した。 →クリューバー・ビューシー症候群 |
1937年 | J Grafton Love(P 1903〜1987, メイヨークリニック)らが硬膜外アプローチによる椎間板ヘルニアの髄核摘出を始めた(J Bone & Joint Surg)。 |
1938年 | Albert Hofmann(P 1906/1/11〜2008/4/29 スイスバーゼルのSandoz研究所-現 Novartis研究所)がライムギに寄生する麦角菌に含まれるリゼルグ酸からLSDを合成した。1943年に、自分で試してみて、強い幻覚作用があることを発見した。この試薬は第二次世界大戦中にCIAが「洗脳剤」として使用するに至り、戦後には大麻、コカインと並ぶ世界で最も有名な麻薬の一つになった。 |
1938年 | Olof Sjöqvist(P 1901〜1954, スウェーデンの脳外科医)が、動物実験で行われていた三叉神経脊髄路切断術を、三叉神経痛の治療に応用した。三叉神経脊髄路を閂の高さで切断すると、手術側の三叉神経支配領域の痛みが減弱するが、再発例も多く見られるので、現在ではほとんど行われていない。 |
1938年 | George Riddoch*(1888〜1947、ロンドンの神経学者、Headの共同研究者)が、中枢痛を「spontaneous pain and painful overreaction to objective stimulation, resulting from lesions confined to the substance of the central nervous system, including dysesthesia of a disagreeable kind.」と定義した。 |
1938年 | Jonas Henrik Kellgren(P 1911〜2002, Manchester大学のリウマチ学の教授)がSir Thomas Lewis(P 1881〜1945, University College Hospital in London)のラボにいた頃に、筋肉痛における圧痛と関連痛の関係を記載した。⇒詳細 |
1938年 | Ugo Cerletti(P 1877〜1963 ローマの精神科医)とLucino Bini(1908〜1964, ローマの精神科医)が統合失調症の治療のために電気痙攣療法を考案した。 |
1938年 | Sir Thomas Lewis(P 1881〜1945, University College Hospital in London)↑は、筋肉に微量の食塩水を注入することにより、その部位だけでなく、痛みが放散することを報告した。生食を三頭筋に注入すると指に痛みを感じ、僧帽筋に注入すると頭痛を起こし、これらの部位に局所麻酔薬を入れると、痛みがおさまることを報告した。 |
1938年 | John Ruskin Graham(P1909〜1990 )とHarold G Wolff(P 1898〜1962, USA)が片頭痛発作が血管拡張によることを証明し、エルゴタミンの作用機序を明らかにした。→頭痛の血管説 |
1940年 | William T. Lemmon(P 1896〜1974、フィラデルフィア)が、Continuous spinal anesthesia 持続脊椎麻酔を行った。 |
1941年 | 精力的に三叉神経脊髄路切断術を行っていたFrancis Clark Grant(1891〜1967, Harvardの脳外科医 *)が、誤って閂の後側8mmの高さでを切断した(1941年)ところ、幸いにもその患者は三叉神経痛の苦しみから免れた。Sjöqvistの原法より安全であったため、一般化した。このような臨床経験から、三叉神経系の温痛覚を第一次中継核が閂よりも後ろにある部分であると考えられるようになった。 |
1941年 | Edgar Douglas Adrian(P 1889〜1977, ロンドンの電気生理学者)は、ネコ頭部の体性感覚野の後方に第2の体性感覚野(somatic sensory area II, SII)があることも確認した。 |
1941年 | Karl Spencer Lashley(P 1890〜1958, Harvard の心理学者、神経心理学の創始者)が、自分自身のa |
1942年 | Harold R. Griffith(P 1894〜1985, カナダの麻酔科医) & Enid Johnsonがクラーレを全身麻酔に用いた。⇒詳細 |
1943年 | William Livingston(P 1892〜1966, 外科医)が「Pain Mechanisms」を出版した。「痛みの悪循環説」を提唱した。(James A Evans↑やJohn Bonica↑は、この説に深く影響され、1980年代中頃までは、RSDは交感神経の過興奮によって生じる症候群と理解されていたが、この仮説はRSDの発現メカニズムを説明する汎用的理論にはならなかった。)William Livingstonも、ペインクリニックのパイオニアの一人であり、1947年にOregon大学にPain centerを作った。痛みの発現における心理的要因の重要性について示唆していた。* |
1943年 | David P. C. Lloyd(P 1911/9/23〜1985/4/20, カナダ、米国の神経学者)が遠心性および求心性線維を伝導速度によってGroup I〜IVの4群に分類した。 |
1943年 | Nils Löfgren*(1913〜1967, スウェーデンUniversity of Stockholmの化学者、Holger Erdtmanの学生)とBengt Lundqvist(1906〜1952, スウェーデンの化学者)が、lidocaine (xylocaine) -局所麻酔薬最初のアミドタイプーを合成した。 |
1944年 | Aristide Leão(P 1914/8/3〜1993/12/14, ブラジルの神経科学者)が、拡延性抑圧を発見した。感応コイルを使って、ウサギの大脳皮質にてんかん発作閾値以下の反復電気刺激を加えると、脳波が平坦になることを観察した(Leão, J. Neurophysiol.1944)。 ⇒詳細 |
1945年 | 終戦後の一時期、米軍の占領下でGHQにより、鍼灸施術の禁止令が出されたが、石川日出鶴丸博士(京大名誉教授、三重県立医学専門学校校長)が、鍼灸の科学的に説明した後実演し、禁止令が解かれた。 参考 |
1946年 | James A Evans(ボストンの内科医) は、Sudeck萎縮および類似の病態を反射性交感神経性ジストロフィー:reflex sympathetic dystrophy: RSDと名付けた。この疾患の特異的な症状は、疼痛よりも発赤・腫脹・発汗異常・萎縮等の交感神経の関与が大きいと考えたからである。 |
1946年 | Ulf Svante von Euler↑(P オイラー 1905〜1083, Stockholmの生理学者)が交感神経節後線維から放出される伝達物質として、ノルアドレナリンを同定した。 |
1946年 | Henry Knowles Beecher(P 1904〜1976, ハーバード大学麻酔学教授)が「Pain in Men Wounded in Battle」の中で、痛みの認知的要素と情動的要素の影響を示唆した。→ |
1946年 | Kenneth Stewart Cole(P 1900/7/10〜1984/4/18, 米国の生理学者)がvoltage clampを開発した。 |
1946年 | Sir Robert Robinson↑(P 1886〜1975, マンチェスター大学→オックスフォード大学の化学者、ノーベル化学賞受賞者)がstrychnineの構造を決定した。 |
1950年 | Frank Milan Berger(P 1913〜2008, チェコスロバキア出身の化学者、ロンドンのBritish Drug Houses Ltd(BDH)→アメリカWallace Laboratories)とBernard Ludwigがメプロバメートを開発した。New Jersey州のvillage Milltownに因んで、Miltownと名づけられた。 |
1947年 | John Bonica↑がワシントンのTacoma General Hospitalに、世界で最初のMultidisciplinary Pain Center: MPCを作った。 |
1947年 | Otto Steinbrocker(1898〜1987/1/11, ウィーン生まれのアメリカのリウマチ研究のパイオニア)は肩の有痛性運動障害を持った患者の中に、同側の手の腫脹を伴う者がいたことに注目し、肩手症候群(shoulder-hand syndrome=Steinbrocker's syndrome) と名づけた。 |
1947年 | Ernest Spiegel(フィラデルフィアTempel大学の生理学者)とHenry Wycis(脳神経外科医)は、Horsleyの装置を改良して、初めて定位脳手術stereotactic surgery (stereo-encephalotomy, dorsomedial thalamotomy) が行われた。(Dandy↑による脳室造影の開発とともに、彼らはランドマークを頭蓋ではなく、脳室内の前交連と松果体を結ぶ線にしたことが画期的であった。彼らは、精神外科手術からはじめ、除痛術、不随運動への手術へと発展させた。(Horsley↑動物用脳定位刺激装置、動物用には「stereotaxic」が使われていたが、スペルが「stereotactic」に変わった。)* |
1948年 | Maurrio Oscar da Rocha e Silva(P 1910/9/19〜1983/12/19, ブラジルの生理学者、薬理学者)、Wilson Teixeira BeraldoとGastão Rosenfeldが、ブラジキニンを発見した。血清に南アメリカに生息する毒ヘビ Bothrops jaroaracaの毒を注射したイヌの血清に、腸管収縮と血圧下降作用があることを報告した。 * |
1947年 | Torsten Gordh(P スエーデン Karolinskaの麻酔学者)が、lidocaineを臨床に応用し、1948年にAstraから販売された。 |
1948年 | Lars Leksell(P 1907〜1986、カロリンスカの脳外科医)が、定位脳手術のために仮想枠を要しないark-centeredの装置を開発した。その後、1949年Talairach、1950年Narabayashi、1951年Riechert & Wolffらが続き、1960年までに約40のここの施設独自の装置が開発され、脳室撮影化の手術が施行された。 |
1948年 | Keegan & Garrettは、ヘルニアによって脊髄根の圧迫されている患者に、神経根をブロックして、デルマトームを調べた。体幹部では各デルマトームがほぼ環状の帯状野をなして順次配列しているが、四肢ではゆがめられていることが明らかとなった。 参考 |
1948年 | Sandoz(スイス、現ノバルティスファーマ社)がカフェルゴットを開発した。エルゴタミンの経口投与は注射に比し薬効が充分に得られなかったが、カフェインを配合することにより、エルゴタミン注射に匹敵する効果が得られた。 |
1948年 | Bernard BrodieとJulius Axelrod(1912/5/30〜2004/12/29 P アメリカの生化学者)がアセトアミノフェンはフェナセチンとアセトアニリドの両方の主要代謝物であることを報告した。 |
1948年 | 鍼灸師に関する法律ができ、医学の一分野として認められた。 |
1949年 | John Bonica(P 1917〜1994 ペインクリニックの創始者)がワシントンのTacoma General Hospitalで、産科麻酔の24時間体制を米国で初めて確立した。1943年にエンマ婦人が第1子出産の時、卒後18日目のインターンがかけた不慣れな麻酔のおかげで死ぬ目にあって以来の夢の実現であった。 |
1949年 | A. P. Philipsが、サクシニルコリンの筋弛緩作用を発見した。 |
1949年 | 米国で、全プラスチック製のディスポーザブルシリンジ↑が完成した。Arthur E. Smithは、ディスポーザブルシリンジに、8つのパテント(U.S.)を取得した。(1949-50) |
1949年 | Philip Showalter Hench(P 1896〜1965 アメリカの内科医)らが、コルチゾンを治療目的で関節リウマチ患者に投与した。 |
1949年 | Paul Donald MacLean(P 1913〜2007, 米国の生理学者)は、Broca↑の辺縁皮質およびそれと神経結合している皮質下組織を辺縁系 limbic systemと呼び、情動および内臓機能に関与する1つの機能系とする概念を提唱した。 ⇒詳細 |
1949年 | Giuseppe Moruzzi(P 1910〜1986)とHorace Winchell Magoun(P 1907〜1991)が上行性網様体賦活系の概念を提唱した。 |
1949年 | Frederick Joseph Cadeが(1912/1/18日〜1980/11/16日, オーストラリアの軍医、精神科医)が、炭酸リチウムの 偶然に動物に対する抗躁効果を発見し、後に開発された。 |
1950年 | コルチコステロイドの同定により、Edward Calvin Kendall, Tadeus Reichstein, Philip Showalter Hench (アメリカ P)がノーベル賞を受賞した。 ←→ステロイド性抗炎症薬 →ノーベル生理学・医学賞(1950年) |
1950年 | James Hardy(1904〜1985, Cornell Universityの生理学者)、Herber Wolff(神経学者)、Helen Goodellが、様々な強度の痛みに対する患者の反応に基づいて調べる鎮痛効果を比較する方法をデザインした。 |
1950年 | Jerzy Olszewski(P 1913〜1964, カナダの神経病理学者)は、人やサルの三叉神経脊髄路核を細胞構築学的に研究し、3部に区分した。この区分は、かつて布施(1919)が髄鞘構築学的な研究に基づいて行った区分とほとんど同じであった。 |
1950年 | Paul Charpentier(フランスの製薬会社Laboratoires Rhône-Poulenc(現サノフィ・アベンティス)の主任化学者)が、クロルプロマジンを開発した。 |
1951年 | Rita Levi-Montalcini(ローマ・セントルイスの細胞生物学者)らの最初の神経成長因子 NGFの論文が出た。 →ノーベル生理学・医学賞(1986年) |
1951年 | Lars Leksell(スエーデンのカロリンスカ大学脳神経外科)がガンマナイフ Gamma knife radiosurgeryを考案した。 |
1951年 | Gubner Rらは乾癬(Psoriasis)やリウマチにメトトレキサートが有効であることを初めて報告した。その後免疫抑制剤がdisease-modifying antirhumatic drugs (DMARDs)として導入された。 |
1951年 | 田辺製薬が、チオペンタール↑の国産化に成功し、ラボナールの名前で販売した。 |
1951年 | 最も最近の「聖アントニウスの火」の流行は、フランスのPont-St. Espritで起きた。200人が羅患し、4人亡くなった。 |
1952年 1954年 | Bror Rexed(P 1914〜2002, スウェーデンの神経科学者)がネコの脊髄の層構造を記載した。[1/2] |
1952年 | Marshall Gates(P 1915〜2003, 米国ロチェスター大学教授)がモルヒネの全合成を初めて完成させた。 |
1952年 | 日本初めて、東京大学に麻酔科が設立され、山村秀夫先生が初代教授となった。 |
1952年 | Henri Laborit(P 1914〜1995, フランスの外科医、生化学者)が、クロルプロマジンの鎮静効果を発見した。 ⇒詳細 |
1953年 | John Bonica↑が、「Management of Pain」の中で、カウザルギー・幻肢痛・中枢性疼痛などをmajor reflex sympathetic dystrophiesに、Sudeck骨萎縮、肩腕症候群・帯状疱疹後神経痛などをminor reflex sympathetic dystrophiesに分類し、これら疼痛疾患全体をRSDの範疇に入れた。 |
1954年 | Karl-Erik Hagbarth(1926〜2005/5/17 スウェーデン)とKerrが脊髄腹外側部に誘発された反応が、網様体、小脳、大脳、皮質などの脳の様々な部位の刺激で抑制されることを観察した。 |
1953年 1955年 | Pennsylvaniaの製薬会社のMcNeil がアスピリンよりも胃にやさしい鎮痛薬として、Tylenol(アセトアミノフェン)を発売し、1955年に小児用のTylenolを発売した。 * |
1953年 | James W. Gardner (P 1898〜1987, 米国の脳外科医) が、三叉神経痛患者の頭蓋骨のX線写真を調べて、錐体骨上縁の高い側に三叉神経の圧迫がある例が多いことを確かめた。 |
1954年 | 日本麻酔学会(現在の日本麻酔科学会)が設立された。 |
1954年 | Foregger Company↑ の麻酔器が日本に輸入された。 |
1954年 | Wilder Penfield(P 1891〜1976)とHerbert Henri Jasper(P 1906〜1999)はてんかん患者のprecentral gyrusを刺激すると感覚が生じることを報告し、さらに切除すると灼熱痛が緩和されることを報告した。 |
1954年 | Jim Olds(P 1922〜1976, ハーバードの心理学者)とPeter Milner(アメリカの心理学者)は、ラットがレバーを押すと一瞬弱い電流が流れ、脳が刺激される研究法(自己刺激実験)を考案した。側坐核や腹側被蓋野が快情動を司る中枢(脳内報酬系)であることが明らかにした。 |
1954年 | Robert Burns Woodward(P 1917/4/10〜1979/7/8 アメリカの有機化学者)が、strychnine、LSDの全合成を完成した。 |
1954年 | Becton, Dickinson and Company がガラス製のディスポシリンジ↑と針を大量生産し、Dr. Jonas Salk(米)は、全米1万人の子どもにポリオのワクチンを注射した。 |
1954年 | Kux(オーストリアの外科医)が最初に胸腔鏡下交感神経遮断術を行った。 |
1954年 | Inperial Chemical Industries社のCharles W. Sucklingが、麻酔作用を持つ可能性があるハロゲン化薬物について理論的に解析し、halothaneを合成した。 |
1955年 | Henry Knowles Beecher(P 1904〜1976, ハーバード大学麻酔学教授)がプラセボの効果を研究した。「The Powerful Placebo」(JAMA;159,1602,1955) |
1955年 | Albert H. Coons(P 1912/7/28〜1878/11/30)による免疫組織化学の直説法の確立 |
1955年 | Roehr Productsは、初のプラスチック製のディスポの皮下注射用シリンジ↑(5セント)を製作し、Monojectと呼んだ。 |
1955年 | 別府化学社が、本邦で始めて、笑気↑の製造を開始した |
1956年 | Michael Johnstone(UK)とC. Ronald Stephen、Stephen(USA)がhalothaneを臨床使用した。halothaneは、臭気がきつくなく、作用は強力で、薬物導体特性にも優れた折、不燃性で毒性も低いという点で、エーテルやシクロプロパンよりも決定的に優れており、次第に古い麻酔薬に取って代わっていった。 |
1956年 | EkenstamとEgner(スエーデン)によってメピバカインが合成された。 |
1957年 | Ekenstam(スエーデン)によってブピバカインが開発された。 |
1957年 | Wilder Penfield(P 1891〜1976)とT. Rasmussenが運動系と感覚系のhumunculusを記載した。 |
1957年 | Roland Kuhn(P 1912〜2005、スイスの精神科医)がイミプラミンの抗うつ作用を発見した。 |
1958年 | Fahrniは初めてback educationの概念を提噌し、腰痛が体操と合理的なボディメカニクス(身のこなし方)の教育でコントロール可能であることを強調した。その後この立場は1960年代に主にスウェーデンでlow back schoolとして発達した。 |
1958年 | Peter M. Milner (Lashleyの弟子)は、閃輝暗点と拡延性抑制との間の病像および進行の類似性を報告した。閃輝暗点の進行速度と、Leãoの拡延性抑圧が拡がる速さと一致することから、大脳皮質の視覚野を拡延性抑圧が拡がるのに伴って、片頭痛の前兆の暗転が拡大するという仮説を発表した。 |
1959年 | Ainsley Iggoが皮膚のC侵害受容線維から記録を行った。 |
1959年 | George Engel(P 1913〜1999, ロチェスター大学の精神科医)は器質的原因に乏しい痛みの訴えを心因性疼痛 psychogenic pain)と名づけた。 |
1959年 | プリロカインが開発された。 |
1959年 | 日本でhalothaneの臨床使用開始 |
1960年 | Janssen Pharmaceutica(Belgium, Paul Janssen(Pのチーム)が、フェンタニル↑を合成した。1963年に市場に出た。 |
1960年 | 金舒白が中国で初めて鍼麻酔を試みた。 |
1961年 | John Bonica↑がSeattleのWashington大学付属病院に世界に先駆けてMultidisciplinary Pain Clinicを設置した。(教授就任の1年後) |
1961年 | Gabriel Mazars(1918〜, パリの脳外科医)らが慢性疼痛に悩む患者の、VPL刺激で鎮痛を得ることができたが、世界の注目を集めるには至らなかった。 |
1961年 | Stewart Adams、John Nicholson、 Colin Burrows(英国)らがアスピリンよりも安全な薬として1950代にイブプロフェンを合成し、1961年にパテントがとられた。 |
1962年 | Sune K. Bergstom(スウェーデカロリンスカ研究所)とその弟子のBengt I. Samuelssonはヒツジの精嚢腺抽出物からPGE1, PGF1α, PGF2αの構造を決定し、不飽和脂肪酸であることが証明された。 →ノーベル生理学・医学賞(1982年) |
1962年 | フリードマン(ニューヨークの開業医)を中心としたAd Hoc委員会が頭痛を分類した。 |
1962年 | Calvin Stevens(Parke Davis Labs)が、PCPに代わる麻酔薬としてketamine1↓を合成し、「CI581」と命名した。動物実験で効果を調べられた後、人でテストされた。 |
1962年 | Blom S(スウェーデン、オランダの神経学者)が、三叉神経痛にcarbamazepineが有効であることを報告した。 |
1962年 | 東京大学病院にペインクリニック科が新設された。 |
1962年 | 日本でテルモ社が、プラスティック製のディスポーサブル注射器↑を製品化した。 |
1963年 | Leo Sternbach(P 1908/05/07〜2005/09/28, ポーランド系ユダヤ人 の化学者→Roche社)がジアゼパムを開発し、1953年に認可された。 |
1963年 | Aaron T Beck(P アメリカの精神科医)が認知療法を始めた |
1963年 | Martin Brännström(P 1922〜2001 スウェーデンカロリンスカの歯科組織学者)が象牙質の痛みメカニズムとして「動水力学説」を提唱した。 |
1963年 | Ralph Douglas Kenneth Reye(P 1912〜1978, オーストラリアの病理学者)らが、原因不明の小児の疾患に関する論文を科学誌「Lancet」に発表。 →ライ症候群 |
1963年 | Tsung-Ying Shen がインドメタシンをアメリカで開発した(Br Med J 5363: 965-70)。 |
1964年 | Annica Dahlstrom(Goteborg Universityの神経科学者) とKjell Fuxe(Karolinskaの神経科学者)がラットの脳幹内に、モノアミンの神経系を明らかにした。 |
1964年 | Ronald DubnerがNIH (National Institute of Dental Research: MIDR) の中ではじめて痛みの研究に焦点を当てた研究室を設立した。 |
1964年 | Zacks, Langfitt & Elliotは、PHNではWaller変性があるにもかかわらず、神経線維炎との相関が見られないので、中枢痛のメカニズムが示唆された。 |
1964年 | 日本でカフェルゴット↑が発売された。 |
1964年 | ディスポーザブル注射針が発売された。 |
1965年 | Ronald MelzackとPatrich D Wall(P 1925〜2001)の「The gate-control theory of pain」がScience誌に掲載された。 |
1965年 | Edward Domino(Michigan大学薬理学教授)がketamine↑を安全性の高い、麻酔物質として研究開発し、「dissociative anaesthetic」と示唆した。 |
1965年 | 東京において国際鍼灸学会が開かれた。 |
1966年 | Sean Francis Mullan(1925〜)が、経皮的前側索切断術を開始した。局所麻酔下、定位脳手術でStrontium90電極を使って、外側脊髄視床路のコルドトミーを行った。 |
1966年 | Virtue(アメリカ)エンフルレンの臨床使用開始 |
1967年 | Cecily Saunders(P 1917〜2005/7/14)がSt. Christopher's Hospice(ロンドン郊外)を創設した。St. Christopher's Hospiceは、医学的に患者の疼痛を和らげる方法を付け加えた近代的なホスピスである。Saundersは、がん末期患者に対するモルヒネ↑の鎮痛の重要性を提唱し、ホスピス運動を世界に広めた。 |
1967年 | Patrich D Wall(P 1925〜2001)とWIlliam Sweet(P 1930〜2001/1/22、ハーバードの脳外科医)が、眼窩下神経刺激あるいは後索のバイブレーションが慢性痛を緩和することを発見し、TENSを始めた。 |
1967年 | C. Norman Shealyら(アメリカ)が、末期がん患者の脊髄硬膜下腔電気刺激による慢性疼痛治療を行った。 |
1967年 | Peter J. Jannetta(ピッツバーグの脳外科医)は、三叉神経痛に対して微小血管減圧術 Microvascular decompression: MVDを精力的に行い、Dandyの説を復活させた。 |
1960年代 | 下地弘毅らが、脊髄刺激 (経皮的硬膜外電極) による慢性疼痛の治療を行った。 |
1968年 | Wilbert E. Fordyce、Roy FowlerとBarbara Delateurがbehavior modification therapy for painについて記載した。行動療法(オペラント条件付け)の立場から、慢性疼痛患者の疼痛行動にも着目した。患者が執拗に痛みを訴え続けるのは、その行動により患者にとっての好ましい結果(例えば休息、補償金、家族からの介助、病院への通院などの心理学で「強化子」とよばれる諸要因)が得られるためだと考え、疼痛行動を無視した上で、身体活動量を漸増していくプログラムを編み出した。患者は自覚的な痛みの程度はどうであれ、可及的に医療から自立していく(=疼痛行動の減少)ことが期待される。 |
1969年 | Bessouと Edward R. Perlが初めてpolymodal receptorについて記載した。 |
1969年 | Edward Lowenstein(MGHの麻酔科医)が心臓手術における大量モルヒネ麻酔の使用を広める契機となる論文を発表した。 →オピオイド麻酔 |
1969年 | 第1回ペインクリニック研究会が東京で開催された。 |
1969年 | David V. Reynolds(オンタリオ州のウィンザー大学の心理学者)が、外科手術に使われる止血鉗子を改良した疼痛計を用いて、ラットの四肢先端部や尾を圧迫し、嫌悪反応を調べた。PAGの背外側を電気刺激すると、この嫌悪反応を誘発する圧刺激の閾値が上昇した。そこで麻酔薬を使わずに、PAGを60Hzの正弦波で
電気刺激して、開腹手術に成功した。 ---しかし、Reynoldsの研究は注目されなかった。←→下行性疼痛抑制系1 |
1970年 | Ludwig A. Sternbergerらによる免疫組織化学のPAP法の開発 |
1970年 | 「按摩マッサージ指圧師、鍼師、灸師に関する法律」 |
1971年 | John R. Vane(P 1927〜2004/11/14, 英国の薬理学者)が、アスピリンによるPGの合成阻害機序を明らかにした。 →ノーベル生理学・医学賞(1982年) |
1971年 | Philip H. Sechzer(1914〜2004)がPCAの原形となる“analgesic demand system”を考案し,オピオイド↑を使った術後鎮痛法として紹介した。[PubMed, Anesth Analg. 1971 Jan-Feb;50(1):1-10.] * |
1971年 | ニクソン大統領訪中の前年に訪中したニューヨークタイムズの記者が北京で急性虫垂炎に苦しみ、術後痛が鍼と漢方薬で緩和されたことを自身の記事で報道したことから、鍼治療が爆発的に広まった。 ⇒詳細 |
1971年 | John C Liebeskind(P 1935〜1997, UCLA心理学)のLabのDavid Mayerらは、中脳と間脳の種々の部位の電気刺激による鎮痛効果を調べ、PAGのほぼ全域と間脳の第3脳室周囲灰白質の電気刺激が鎮痛効果(SPA)を持つことを示した。 Huda Akilらは、SPAはナロキソンで遮断されることを示し、Liebeskindは脳がオピエート様物質を脳が作ることを予測した。 |
1972年 | Marc Sindou(フランスLyon大学脳外科)らが、顕微鏡的後根進入帯切載術 microsurgical DREZ0tomy:MDTを最初に行った。 |
1972年 | 久保田康耶教授(元東京医科歯科大学)が笑気↑吸入鎮静法を日本に紹介した。 |
1973年 | International Association for the Study of Pain:IASP(First_Steps)が創設され、シンポジウムが 5月にIssaquah, Washingtonで開催された。 |
1973年 | Solomon Snyder(Johns Hopkins大学)とCandace Pert(Snyderの学生)がオピエート受容体↑を発見し、脳内のオピエートの結合部位を同定した。Lars Terenius(Uppsala, Sweden)も同年オピエート受容体を発見した。 ⇒詳細 |
1973年 | 日本で最初のホスピス病棟は、大阪の淀川キリスト教病院に設けられた。当時のホスピス長、柏木哲夫先生の功績によるものである。 |
1973年 | イギリスの薬局方が、ブロンプトンカクテルを激痛治療のための妥当な万能薬として承認した。 |
1973年 | Yoshio Hosobuchiは、視床中継核のVPM/VPL刺激の有効性を報告し、視床中継核刺激法が世界的に拡がった。 |
1973年 | Paul Donald MacLean↑が、三位一体脳説 a hierarchy of three brains in one—a triune brain」(1973年):恒温動物の脳に3型のシステムから構成される階層性があると考えた。 ⇒詳細 |
1973年 | 湖南省長沙市Changsha の馬王堆 Mawangdui 三号漢墓(長沙丞相 、利創の妻の墓ーBC186年に埋葬)から、ミイラ以外に、15種類の医書が出土された。これらの医書のほとんどは絹に書かれた帛書 "Bo Shu"で、一部が竹簡と木簡である。馬王堆漢墓医書の著者は不明であり、各医書には序文も著者名も記されていないが、研究の便を考えて、各医書の内容に従って書名がつけられた。『足臂十一脈灸経』、『陰陽十一脈灸経』等、灸についての記載があり、戦国時代には灸 moxibustion はすでに用いられていて、経絡理論は鍼治療より前に、灸治療の経験から形成された可能性が示唆された。 |
1974年 | John E Adams、Yoshio HosobuchiとFields HLは、脳出血後の視床症候群、前頭葉あるいは脊髄病変による神経因性疼痛患者の内包後脚の後ろ1/3(Vb complexからの上行路、Vbの外側)を電気刺激し、一部の患者で鎮痛効果を得ることができた。 |
1974年 | アメリカ初のホスピス:New Haven Hospice(現在Connecticut Hospice)が、コネティカット州に開設された。 |
1975年 | John HughesとHans Walter Kosterlitz(P 1903/4/27〜1996/10/26, ベルリン生まれのアバディーンの薬理学者)が、モルヒネがモルモットの空腸とマウスの輸精管の収縮を抑制し、この抑制がナロキソンなどによって拮抗されることを利用して、モルヒネと同じ作用を持つ化合物をブタの脳から単離して、メチオニンエンケファリンとロイシンエンケファリンを発見した。 ⇒詳細 |
1975年 | Rabi Simantov & Solomon H. Snyder(Johns Hopkin大学薬理学)が仔牛の脳からモルヒネ様物質(エンドルフィン)を精製した。 |
1975年 | 第1回国際疼痛学会(Ist World Congress on Pain)が9月5日から8日にFlorenceで開催された。↓ |
1975年 | 痛み強度に関する初めての測定法として、Dr MelzackがMcGill Pain Questionnaire[PubMed]*を発表した。 |
1975年 | Dobkin(アメリカ)イソフランの臨床使用開始 |
1976年 | Edward Perlが侵害受容器の過敏化=末梢の過敏化について述べた。 |
1976年 | Tony L. YakshとRudyがラットのくも膜下腔にモルヒネを投与して、脊髄分節性の鎮痛作用を観察し、脊髄にもオピオイド受容体が存在し、鎮痛に寄与していることを示した。 |
1976年 | Huda Akil↑らは、電気ショックを被験動物に与えると、痛み閾値が上昇し、それに伴い脳内のオピオイドレベルも上昇することを報告した。ストレス鎮痛に関する最初の実験的研究である。 |
1976年 | William Robert Martin(P 1921〜1993)らは、 N-allyl-normetazocine (SKF-10,047)の効果がμ受容体にもκ受容体にもよらないので、第3のオピオイド受容体第3のオピオイド受容体・σ受容体の存在を示唆した。 |
1976年 | Evans JMらが最初のPCA専用機器を開発した* |
1976年 | Philip Kahler Hench(1930/9/19〜 Phillip Henchの息子)らが「fibromyalgia」 ("-algia" meaning pain in fibrous tissue) という用語を初めて使った。 [1/2] |
1977年 1979年 | Donald E. RichardsonとHuda Akilが、脳内刺激鎮痛法を始めた。痛みの治療のため、視床破壊手術を行おうと、中脳と間脳の移行部に電極を刺入し、試みに電気刺激したところ、痛みが軽減した。そこで、電極を固定し、患者がスイッチを押すと、脳に刺激電流が流れるようにした。 |
1977年 | 米国疼痛学会(American Pain Society:APS)↓が設立された。(IASPのchapter) |
1977年 | 神戸大学名誉教授の西塚泰美先生らが、牛の脳細胞からPKCの抽出に成功した。 |
1977年 | Alan Scott(米国の眼科医)とEdward J. SchantzがA型ボツリヌス毒素を初めて斜視に対して臨床応用した。 |
1977年 | Lankfordは、John Bonica↑が分類したRSDの分類では疾患名が多すぎ、症状と分類の不一致などの問題点があることから、RSD を causalgia (major, minor)、traumatic dystrophy (major, minor)、shoulder-hand syndrome の5つに分類した。 |
1978年 | SeattleのWashington大学に公式にWashington Multidisciplinary Pain Centerが開設され、John Bonica↑は初代の Directorとなった。 |
1978年 | Holaday(アメリカ)がセボフルランの臨床使用開始 |
1979年 | IASPの用語委員会(chairman: Harold Merskey)が痛みと、18の関連語を定義した。[PubMed] →2020年に改訂 @terminology@history |
1979年 | Allan BasbaumとHoward Fieldsが下行性疼痛抑制系を証明した。[PubMed, J Comp Neurol. 1979 Oct 1;187(3):513-31.] |
1979年 | Daniel Le Bars (INSERMの生理学者)らがDNICを発見した。 |
1979年 | 沼正作先生(京都医化学教授)らは31個のアミノ酸からなるエンケファリン↑と同様の作用を持つエンドルフィンを単離し、N末端の5残基がメチオニンエンケファリンと同じであることを明らかにした。 |
1979年 | 高木博司教授(京都大学薬学部)の大学院生だった植田弘師先生(現長崎大学教授)が中心となって、ウシ脳からキョートルフィン kyotorphinが単離した。 |
1979年 | Beharらの硬膜外腔へのモルヒネを投与し、臨床における薬物投与ルートとしての地位が確立した。 |
1979年 | 第1回痛みの研究会が開催された。 |
1981年 | Jes Olesen(Copenhagen)らは片頭痛の血管説を唱えた。 ⇒詳細 |
1981年 | Su-Ming Hsu 許世明, Raine L & Fanger Hらによる免疫組織化学のABC法の開発 |
1981年 | Kathleen M. Foleyがはじめて、ニューヨークのMemorial Sloan-Kettering Cancer Centerに「Pain and Palliative Care Service」を開設した。 |
1981年 | 長谷川保*(1903年〜1994年)が、国内初の独立施設として、聖隷三方ヶ原ホスピスを設立した。日本で初めてがん末期患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)を開設である。 |
1982年 | WHOがん疼痛救済プログラムの起案 参考* |
1982年 | Bardeらがブタの脳からBDNFを生成した。 |
1983年 | Woolf CJが脊髄後角ニューロンの中枢性の過敏化が痛みの感受性亢進に寄与することを示した。[PubMed, Nature. 1983 Dec 15-21;306(5944):686-8.] |
1983年 | Amitriptylineに、抗不安作用と独立して、鎮痛効果があることが確認された。 |
1983年 | Janet Graeme Travell(P 1901〜1997, Kennedy大統領の主治医)とDavid Simons(P 1922〜2010/4/5)が、「The Trigger Point Manual (Lippincott Williams & Wilkins)」の中でトリガーポイントの特徴を記載した。 |
1983年 | Muhammad B. Yunus(P バングラディッシュ、Illinois大学リウマチ学の教授)が統一した分類を作ることを提唱し、初めて診断基準を作った。(Yunus, Fibromyalgia Syndrome: A Need for Uniform Classification, (Editorial) J. Rheum 10: 1983, 841-844.) |
1984年 | Michael A. Moskowitzらが三叉神経血管説を唱えた。 |
1984年 | 痛みの研究会が、日本疼痛学会に昇格した。 |
1985年 | ペインクリニック研究会が、ペインクリニック学会に昇格した。 |
1985年 | Stark RD(イギリス)プロポフォール公開シンポジウム |
1986年 | IASPは「Classification of chronic pain : descriptions of chronic pain syndromes and definitions of pain terms」 Subcommittee on Taxonomy ; editor, Harold Mersey [Pubmed]を発刊した。 causalgia と RSD とを明確に区別し、RSDを「外傷後に交感神経の過剰緊張を伴って主に四肢に起こる持続性の疼痛」と定義した。 |
William J. RobertsはRSDに対して自律神経系の薬やブロックが奏効するものとそうであるものがあることを報告した。疼痛が改善するものを sympathetically maintained pain :SMP 交感神経依存性疼痛とし、効果がないか、症状が増強するものを sympathetically independent pain :SIP 交感神経非依存性痛とした。 | |
1986年 | WHOは、がんの痛みからの開放をめざして、「がん性疼痛緩和のガイドライン:Cancer Pain Relief」を発表した。WHO three-step analgesic ladder:モルヒネ↑をはじめとして、限られた数の鎮痛薬の使用を基本とした疼痛治療法を発表した。 |
1986年 | Jose L. OchoaがABC 症候群を定義した。 |
1986年 | Russell K. Portenoy (New York's Beth Israel Medical Center)とKathleen M. Foleyが、特定の慢性痛に対するオピオイド↑使用の有用例を示した。[PubMed, Pain. 1986 May;25(2):171-86.] |
1986年 | NGFの発見者であるRita Levi-Montalcini博士がノーベル生理学医学賞を受賞した。 |
1988年 | anesthesiology-based postoperative pain management service.として、Patient-controlled epidural analgesia (PCEA)(オピオイド↑)が導入された。[PubMed, Anesthesiology. 1988 Jan;68(1):100-6.] |
1988年 | 国際頭痛学会 International Headache Society IHSが頭痛を分類した。 |
1988年 | 柳沢正史先生(テキサス大学)が筑波大大学院当時に、血管収縮因子としてのエンドセリンとエンドセリン受容体を同定した。 |
1990年 | WHOが、がん医療などのための「Cancer Pain Relief and Palliative Care」を発行した。終末期医療を含む新しいケアの考え方を「緩和ケア」と呼ぶように提言している。←→ホスピス |
1990年 | アメリカリウマチ学会が線維筋痛症候群の分類基準を作成した。 |
1991年 | COX-2↑が3つのグループから発見された。 Kujubu et al. [PubMed, J Biol Chem. 1991 Jul 15;266(20):12866-72.] Xie et al. [PubMed, Proc Natl Acad Sci USA 1991; 88: 2692-2696.] O'Banion [PubMed, J Biol Chem 1991: 266: 23261-23267.] * |
1991年 | MacCafferyが簡易型McGill Pain Questionnaireを発表した。 |
1991年 | 坪川孝志先生らが、感覚野ではなく、大脳皮質運動野刺激法で除痛に成功した。 |
1992年 | Christopher J. Evansら*とBrigitte L. Kiefferら*のグループが独立して、DOR(δ受容体)cDNAののクローニングに成功した。 |
1992年 | コクラン共同計画 |
1994年 | Harold MerseyとNikolai BogdukがIASPのClassification of Chronic Painを出版した。 IASPは慢性疼痛の分類で、名称に「sympathetic」という用語を含まないCRPSという新しい名称を作って、RSDとカウザルギーがCRPSにまとめた。RSDをCRPS type I、カウザルギーをCRPS type IIとした。また、neurogenic painとneuropathic painが分けられた。 @terminology@history |
1990年代 1994年 | 1990年代にκ受容体様受容体のクローニングが契機となり、μ, δオピオイド受容体がクローニングされた。さらに1994に、未知のオピオイド受容体↑:オーファン受容体(opioid receptor-like 1: ORL1)がクロスハイブリダイゼーションでクローニングされた。 |
1995年 | 米国疼痛学会(American Pain Society:APS)↑の会長のJames Campbellが「痛みは、体温、脈拍、呼吸状態、血圧の次の第5のバイタルサイン」とした。←APS1/2 |
1995年 | Lloyd R. SaberskiとLuke M. Kitahataがエピドラスコピーを診断だけではなく、慢性疼痛の治療に応用した。 |
1995年 | 日本でプロポフォールの臨床使用開始 |
1996年 | John Woodのグループらはテトロドトキシン抵抗性の特異的に発現するTTX非感受性Na+チャネルをクローニングし、SNS(Sensory Neuron Specific)と名づけ、Sangameswaran L.らが同じ遺伝子をPN3と名づけた。[PubMed, Nature. 1996 Jan 18;379(6562):257-62.] |
1997年 | Abba J. Kastinが、μ受容体に特異的に結合するエンドモルフィン-1,2がウシの脳から単離した。 |
1997年 | Michael Caterinaらにより、ラットDRGのmRNAからカプサイシン受容体(=TRPV1 (VR1))遺伝子をクローニングした。[PubMed, Nature. 1997 Oct 23;389(6653):816-24.] |
1998年 | WHOが「小児がん性疼痛治療針」を発表。 |
2000年 | アメリカ議会は2001年から10年間を「痛みの10年(the Decade of Pain Control and Research)」とする宣言を採択した。 | ||||
2001年 | 4月19日 厚生労働省は解熱鎮痛剤フェナセチンの乱用に対する対策として全ての供給停止を通達した。 | ||||
2003年 | 熊澤孝朗先生が愛知医科大学に、日本で最初の「痛み学講座」開講(ファイザー中央研究所の寄附講座) | ||||
2004-2005 | IASP Global Year Against Pain "The Relief of Pain Should Be a Human Right" | ||||
2005-2006 | IASP Global Year Against Pain in Children | ||||
2005年 | 12/13 厚生労働省は乱用が問題となっている全身麻酔薬ketamine↑を、麻薬及び向精神薬取締法に基づく「麻薬」に指定することを決めた。 | ||||
2006-2007 | IASP Global Year Against Pain in Older Persons | ||||
2007年 | 1/1「ketamine↑10」の麻薬及び向精神薬取締法に基づく「麻薬」指定が施行された。* | ||||
2007年 | 「がん対策基本法」が施行された。 | ||||
2007-2008 | 2007年11月国際疼痛学会評議会(IASP council)が京都で開催され、この会議で痛みに関する用語の改訂版「IASP 基本痛みの用語京都プロトコール(The Kyoto protocol of IASP basic pain terminology)」を2008年にWEB上で公開することが可決され、この原案が機関誌Painに公表された。neuropathic painの定義が変更となり、nociceptionやnociceptive painも初めてIASPで定義された。 Loeser JD, Treede RD. The Kyoto protocol of IASP Basic Pain Terminology. Pain 2008;137:473-7.[pubmed] 参考1/2 Members of the IASP Task Force on Taxonomy. Flemming, W. Bach, Helmut Blumberg, Nikolai Bogduk, Michael Bond, David B. Boyd, Milton L. Cohen, Robert Dworkin, Joel Greenspan, Troels S. Jensen, Steven A. King, Martin Koltzenburg, John Loeser, Harold Mersey, Huib ten Napel, Jordi Serra, Rolf-Detlef Treede, Alain Woda @terminology@history | ||||
2007-2008 | IASP Global Year Against Pain in Women real women, real pain | ||||
2008-2009 | IASP Global Year Against Cancer Pain | ||||
2009-2010 | IASP Global Year Against Musculoskeletal Pain ←→筋骨格系の痛み →関連 | ||||
2010年 | 9/3 IASP 13thの翌日のサミットでモントリオール宣言→が出された。[患者が痛みに対する適切な診療を受けることは、基本的人権であるという宣言](北原正樹先生による第9回日本運動器疼痛学会のFBの2016/3/7に全訳あり 原文、関連 1/2/ | ||||
2010年 | 9/13 厚生労働省が 今後の慢性の痛み対策について 「慢性の痛みに関する検討会」からの提言 を公開した。 | ||||
2010年 | 9/13 厚生労働省が 今後の慢性の痛み対策について 「慢性の痛みに関する検討会」からの提言 を公開した。 | ||||
2010-2011 | IASP Global Year Against Acute Pain -関連 | ||||
2011年 | IASP PainTerminologyが改訂された。nociception/nociceptive pain/neuropathic pain等も定義が改訂された。 Taxonomy Committee :David Boyd, Michael Butler, Daniel Carr, Milton L. Cohen, Marshall Devor, Robert Dworkin, Joel Greenspan, Troels Jensen, Steven King, Martin Martin Koltzenburg, John Loeser Harold Mersey, Akiko Okifuji, Judy Paice, Jordi Serra, Rolf-Detlef Treede, and Alain Woda. @terminology@history | ||||
2012-2013 | Global Year Against visceral pain ←→内臓痛 | ||||
2013-2014 | Global Year Against orofacial pain ←→口腔顔面痛 | ||||
2014-2015 | Global Year Against Neuropathic pain ←→神経障害性疼痛 | ||||
2015年 | 慢性痛 —統合的心理行動療法 柴田政彦・北原正樹監訳(Chronic Pain: An Integrated Biobehavioral Approach-の日本語訳本)がIASPの eBookとして発売された! | ||||
2015-2016 | IASP Global Year Against Pain in the Joints | ||||
2016年 | 2/16 ←→慢性疼痛ーICD-11 Revision of the International Classification of Diseases (ICD-11)/ICD-11 Update | ||||
2016年 | 6月2日閣議決定された「ニッポン一億総活躍プラン」の中に「慢性疼痛対策」が位置付けられた。(16ページ、(3)障害者、難病患者、がん患者等の活躍支援 の項目の6行目) 1 | ||||
2016年 | 9/26-9/26 アジア発のIASP 16thが横浜パシフィコで開催! 日本語/英語 ←→IASP歴 | ||||
2016-2017 | Pain After Surgery | ||||
2017年 | 米国ではオピオイド乱用による死者が増え続けていて、1999年から2017年までの間に70万2000人がオピオイド過剰使用で死亡し(MMWR Morb Mortal Wkly Rep 2018; 67: 1419-1427)、交通事故による死者を上回った。この事態を踏まえて、トランプ米大統領は2017年に公衆衛生上の緊急事態を宣言し、オピオイド乱用防止などの対策に60億ドル(約6500億円)の予算を投じた。 ←→オピオイドクライシス | ||||
2017年 | IASPの用語委員会(委員長Eva Kosek)は慢性疼痛の第3の機構分類として、nociplastic painを採用した。 @terminology@history 1/2/3 | ||||
2018年 | 9/12-9/16 IASP 17th Boston ←→IASP歴 | ||||
2018 | Excellence in Pain Education 1/2/3 | ||||
2019年 | 6月 米国疼痛学会(American Pain Society:APS)↑が突然解散した。 →history-opium/オピオイドクライシス | ||||
2019 | Global Year Against Pain in the Most Vulnerable →白書(日本語訳) | ||||
2020年 | IASPは41年ぶりに、痛みの定義を改訂した。 @terminology@history | ||||
2020 | 2020 Global Year for the Prevention of Pain | ||||
2020年 | 日本痛み関連学会連合が設立された。 | ||||
2020年 | NPO法人いたみ医学研究情報センターが一般財団法人 痛み財団として、生まれ変わった。 | ||||
2021年 | 6/27-7/21 IASP 17th Amsterdam ←→IASP歴 | ||||
2021 | 2021 Global Year About Back Pain | ||||
2021年 | 10/02 第1回 日本痛み関連学会連合↑ 発足記念シンポジウムが開催された。(参考 医学界新聞)シンポジウムで「nociplastic pain↑」の日本語訳として「痛覚変調性疼痛」が選出されたことも報告された。 | ||||
2022 | 2022 Global Year for Translating Pain Knowledge to Practice 1/2 | ||||
2022年 | ICD-11 施行「chronic pain」の新しい定義の導入と新たな「chronic primary pain」の疾患分類の採用 |
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