□鎮痛法 | │ブロック療法2│→ |
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←→刺激鎮痛法 |
痛み求心路および侵害刺激に関連した部位 | |
脊髄神経 三叉神経 脊髄 |
┏脊髄神経後根切載術 posterior rhizotomy ┣三叉神経根切載術 Trigeminal rhizotomy ┣脊髄後根進入部切断術 DREZ-lesion/MDT ┣前側方脊髄切断術 anterolateral cordotomy ┣脊髄前交連切断術 anterior commissural myelotomy ┗脊髄中心部切截術 Central Cord Lesioning |
脳幹 | ┏三叉神経脊髄路切断術 trigeminal tractotomy ┗中脳網様体凝固術 (Stereotactic) mesencephalotomy |
痛み認知に関する部位 | |
間脳 | 視床破壊術 Thalamotomy ┏視床正中中心核・束旁核破壊術 CM-Pf tomy ┣脊髄視床路中継核破壊術 ┣視床中間核破壊術 Vim-tomy ┣視床背内側核破壊術 DM-tomy ┗視床枕破壊術 pulvinotomy 視床下部後内側部破壊術 |
脳 |
┏gyrectomy ┣(前頭葉切載術ロボトミー) ┗帯状回前部破壊術 anterior-cingulotomy |
ー下垂体破壊術 |
破壊術 | 手術目標点に電極を挿入し、電極先端部を65℃から70℃の温度(卵の白身が白く変性する温度)にて熱凝固する。熱凝固により、同部位の神経活動の機能低下が出現し、異常興奮(または抑制)が抑えられ神経機能の回復が得られる。 |
電気刺激術 | 手術目標点に電極(尖端に4極の刺激点が存在)を挿入し、適切な刺激条件(刺激点、刺激電圧、刺激頻度、刺激時間、単極刺激、双極刺激など)を設定し同部位の神経機能を麻痺させることにより、異常興奮(または抑制)が抑えられ神経機能の回復が得られる。 |
1888年 9月 | spasticityの治療として脊髄神経後根切断術の最初の使用としては、Charles Dana(ニューヨークの神経学者)が神経を切断することを示唆し、Robert Abbeがそれを採用した。患者の痛みだけでなく、spasticityも改善された。 |
1913年 | Otfrid Foerster(P 1873/09/09〜1941/07/15, ドイツの脳外科医)は1913年に総説を書いた。 L2 〜S2の神経根を切断すると、下肢の痙縮が改善された。 |
1750年 | Maréchal(Louis XIVの外科医)が、三叉神経痛の治療のためには、眼窩下神経の部分切除を行うと痛みを軽減するだろうと試みたが、成功しなかった。 |
1860年頃 | John Murray Carnochan(1817〜1887, ニューヨークの脳外科医)が世界で初めて三叉神経痛の外科治療に成功し。三叉神経の第2枝を頭蓋の眼窩下孔 infraorbital foramen から正円孔foramen rotundumの間で切断することによって、三叉神経痛を治療した。 |
1889年 | William Rose(ロンドン)は卵円孔から三叉神経節を切除することによって、三叉神経痛を治療した。 |
1891年 | Sir Victor Alexander Haden Horsley(P 1857〜1916)が三叉神経痛のために、外科的治療を行った。middle fossa approach(硬膜外アプローチ)で、三叉神経の第II枝と第III枝を部分的に切断した。それを1891年にFrank Hartley(ニューヨーク)、1892年にKrause(ドイツ)が1892年に一部改変した。 |
1900年 | Harvey Williams Cushing↓ (P 1869〜1939, アメリカの脳外科医、Halstedの弟子、Horsleyにも影響された)は三叉神経痛の治療のために、Gasserian ganglionectomyを行った。 |
1901年 | Charles Harrison Frazier(P 1870-1936, フィラデルフィアの脳外科医)とWilliam Gibson Spiller(P 1863〜1940, フィラデルフィアの神経病理学者)は、三叉神経の治療のためのHarvey Williams Cushing (P 1869〜1939, アメリカの脳外科医)のganglionectomyは、困難でかつ危険を伴うので、Horsleyの方法を広め、三叉神経痛の治療として、Hartley-Krause approachで、三叉神経を部分的に切断した。 |
1904年 | Cushing↑はganglionectomyの後に、舌の前2/3の触覚が消失することを確認した。 |
1934年 | Walter E. Dandy(P 1886〜1946、ジョンホプキンスの脳外科医、Cushingの最初の弟子)が三叉神経痛に対する新しい術式を創案し、200例以上の術中の観察から、神経血管圧迫説を提唱したが、その仮説の真偽は、30年以上検証されなかった。 |
1967年 | Peter J. Jannetta(ピッツバーグの脳外科医)は、三叉神経痛に対して微小血管減圧術 Microvascular decompression: MVDを精力的に行い、Dandyの説を復活させた。 |
脊髄後根進入部 Dorsal root entry zone:DREZ ←→三叉神経のroot entry zone |
脊髄後根進入部破壊術 DREZ-tom/Dorsal root entry zone lesion:DREZ-lesion P/2 | 顕微鏡的後根進入帯切載術 microsurgical DREZotomy:MDT 選択的脊髄後根遮断術 selective dorsal rhizotomy: SDR |
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機序
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機序 |
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1876年 | Sir William Richard Gowers(P 1845〜1915, イギリスの神経学者、病理学者)は、痛覚線維の局在について研究した。片側腰椎部の脊髄銃創を受けた患者を研究、痛覚路は脊髄の前側索にあるとし、それを外側網様核付近まで追跡した(Trans Clin Soc London)。(しかし、「ガワーズ束」は、前脊髄小脳路を示す。) |
1889年 | Ludwig Edinger↑(P 1855〜1918, フランクフルト)は、Gowers↑が途中まで追跡していた脊髄視床路が視床に達する事を発見し、温痛覚の経路であると報告した(Anat Anz)。「交叉性求心路」と命名したが、厳密に言えば、非識別性触覚の伝導路である前脊髄視床路??? |
1899年 | Vladimir Mikhailovich Bechterev(P 1857-1927、ロシアの神経学者)が、前側索を上行する伝導路を「脊髄視床路」と命名した。(L. Edingerは、前外側索を「交叉性求心路」と名づけていた。 |
1905年 | William Gibson Spiller(P 1863〜1940, フィラデルフィアの神経病理学者)が、下肢の触覚が保たれているが、温冷覚、痛覚が消失している結核腫瘍の患者の剖検から、脊髄の両側に一つずつ結核腫があって、胸髄レベルの前側索が両側性に侵されていることを見出した(→1909年, J Nerv Ment Dis)。 |
1911年 | Spiller↑は同僚の脳外科医のEdward Martin(P 1859〜1938, John Rhea Barton Professor of Surgery)を説得して、脊髄腫瘍による下肢の痛みに苦しんでいる患者の脊髄前側索(腹外側)を両側性に切除すると、痛みが消失した。直視化に脊髄の前側索の切截術を行ったコルドトミーの始まりである。 |
1914年 | Charles Harrison Frazier(P 1870-1936, フィラデルフィアの脳外科医)は、前側索切截術を改良し、1920年には、上位胸髄が最適部位であると報告した。 |
1927年 | Otfrid Foerster(P 1873/09/09〜1941/07/15, ドイツの脳外科医)は、上位頸髄レベルで前側索切截術を行った。 |
1966年 (1663) | Sean Francis Mullan(1925〜)が、経皮的前側索切断術を開始した。局所麻酔下、定位脳手術でStrontium90電極を使って、外側脊髄視床路のコルドトミーを行った。 |
1965年 | Hubert L. Rosomoff(1927〜)がMullan↑の方法を改良し、針に高周波電流を流して、熱で破壊巣を作る、侵襲の少ない経皮的脊髄視床路切断術を報告した。 |
1980年 | A B Levin, E R Cosmanは、thermocouple cordotomy electrodeを使い、それによってインピーダンスと温度をモニターしながら遮断した。 |
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1892年 | Bregman BSが三叉神経脊髄路に求心性神経が含まれることを証明した。ウサギのガッセル神経節を切断すると、三叉神経脊髄路が変性することを見出して、橋の高さで脳幹に入った三叉神経求心性線維が三叉神経主感覚核に向かう枝と、三叉神経脊髄路核に向かう枝に分かれることを明らかにした。 |
1895年 | Adolf Wallenberg(P 1862-1949, ドイツの神経学者)は、後下小脳動脈が閉塞して、延髄背外側部に軟化巣があると、病巣と同側の顔面の痛覚と温、冷覚が失われるが、触覚は残ることを報告した(=ワレンベルグ症候群)。彼はBregmann↑の研究を知っていて、この疾患に見られる感覚の乖離が三叉神経脊髄路の損傷によってもたらされたと考え、翌年ウサギの三叉神経脊髄路を延髄の高さで切断する実験を行って確認した。(外側延髄の梗塞障害については、Wallenbergよりも前に1810 年にGaspard Vieusseuxによって報告されていた。) |
1938年 | Olof Sjöqvist(P 1901〜1954, スウェーデンの脳外科医)三叉神経痛の治療に応用した。三叉神経脊髄路を迷走神経下端の高さで切断すると、手術側の三叉神経支配領域の痛覚が消失させることに成功した。三叉神経脊髄路切断術(Sjoqvist O (1938). Studies on pain conduction in the trigeminal nerve. Acta Psychiatry Neurol Scand (Suppl17):1-139.)。 |
1941年 | 精力的に三叉神経脊髄路切断術を行っていたFrancis C. Grant(1891/11/9〜1967, フィラデルフィアの脳外科医 1)が、誤って閂の後側8mmの高さでを切断したところ、幸いにもその患者は三叉神経痛の苦しみから免れた。Sjöqvist↑の原法より安全であったため、一般化した。このような臨床経験から、三叉神経系の温痛覚を第一次中継核が閂よりも後ろにある部分であると考えられるようになった。 |
1970年 | Zdeněk Kunc(P 1908/3/16〜1985/5/10, プラハCharles Universityの脳外科医)は閂の高さで切断すると顔全体の痛覚が消失するが、閂よりも尾側で行うと、顔の中心部に痛覚が残存することを報告した。閂を次第に遠ざかるにつれて、痛覚の残存部位が同心円状に拡がっていく。Dejerine's "onion-peel sensory loss"と一致する。 |
中心灰白質に近い内側部 | 中脳の外側部=外側脊髄視床路 | |
刺激 |
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破壊 |
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正中中心核・束傍核破壊術 :CM-Pf tomy ←→髄板内核/刺激術 |
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脊髄視床路中継核破壊術 ←→Vb complex ←→刺激術 |
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視床中間核破壊術 :Vim-tomy |
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視床背内側核破壊術 :DM-tomy |
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視床枕破壊術 :pulvinotomy ←→視床枕 |
境界核の破壊
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1954年 | Wilder Penfield(P 1891〜1976)とHerbert Henri Jasperはてんかん患者のprecentral gyrusを刺激すると感覚が生じることを報告し、さらに切除すると灼熱痛が緩和されることを報告した。 |
Lendeらは、postとprecentral gyriの両方が痛みを関連があるとした。中枢性の顔痛患者にprecentral and adjacent postcentral facial cortex切除で除痛できることを報告した。 | |
1955年 | James Clarke White(P 1885〜1981, MGHの脳神経外科医)とWilliam Sweet(P 1930〜2001/1/22, Whiteの後任)は中枢痛の患者にpostcentral gyrectomyを施行すると、13%に鎮痛効果が持続したことを報告した。 |
1890年 | Friedrich Leopold Goltz(P 1834〜1902, ドイツの生理学者)がイヌの側頭葉を切除すると、穏和になり、攻撃性が減ることを発見した。 |
1890年 | Gottlieb Burkhardt(スイスの精神病院の主任医師)は1988年から1889年にかけて、7人の統合失調患者に前頭葉切載術を行い、2人は死亡した。1890年のベルリンの学会で報告したが、この過激な治療法は批判された。 |
1935年 | John Farquhar Fulton(P 1899/11/1〜1960, 米国の生理学者)とCarlyle Jacobsen(1902〜1974, Yale大学の心理学者)は暴力的で神経症のチンパンジー「Becky」の前頭前野を外科的に破壊したところ、穏やかで従順になったことを、ロンドンで行われた神経医学会で報告した。 |
1935年 | António Egas Moniz↓(P 1874年〜1955年, ポルトガルの神経科医、ノーベル賞受賞者)は、神経医学会でのFultonの発表に感銘を受けた。強迫神経症やパラノイアのような精神症状は、一連の思考が生理学的に脳の神経細胞の中に固定化してしまった状態であると考え、感覚情報を皮質に送る視床と前頭葉との結合線維を外科的に切断すれば、患者を破壊的な観念や感情から解放できるだろうと考えた。Monizは痛風のため手術ができないので、Pedro Almeida Lima(1903〜1983, リスボン大学での神経外科医)を共同研究者として、脳を破壊するアルコールを患者の脳に注入するという予備実験をした。その後、ドリルで頭蓋骨に開けた穴から、白質を切断する前頭葉白質切截術 prefrontal leucotomyを考案した。平たい針金のナイフであるLeucotome(白質切断用メス)を脳内に刺入し、神経線維を切断した。Monizはleucotomyを最後に選択する治療であると考えていた。最初の20例のうち、完全によくなった者が7人、部分的によくなった人7人、改善しなかった者が6人であったと報告した。この手術を施行したうつ病の患者の6%は手術死、その他てんかん発作、人格変化、無気力、抑制の欠如、衝動性などの重大かつ不可逆的な副作用が起こった。 |
1936年 9月14日 | Walter Jackson Freeman II ↓(1895/11/14 〜1972/5/31、1926-1954までGeorge Washington Universityの神経学の教授)もFultonとMonizの報告に影響された。FreemanとJames Winston Watts (1904〜1994, Fultonのresearch fellowの後脳外科医、1949年までFreemanのパートナー) は、ご遺体の脳で練習した後、George Washington Universityで、激越性うつ病(agitated depression and sleeplessness)の63歳の婦人 Mrs Hammattにleucotomy手術を行った。このときに手技は、頭蓋に6個の穴を開ける方法であった。手術後、彼女は穏やかになり、恐怖は消失し、自分の車で劇場へ行き、演劇を楽しめるまでに回復し、5年後になくなった。彼らは、手技名を「leucotomy」から「lobotomy」に変えた。最初の手術の数か月後、ロボトミー手術は「魂の病に施された外科手術 Surgery Used on the Soul Sick」という見出しでニューヨーク・タイムズの一面を飾った。Monizの方法を改良し、「Freeman-Watts Standard Procedure」というガイドラインを作成した。 |
1937年 6月 | Freeman↑/↓と Wattsは annual meeting of the American Medical Associationでロボトミー手術の20の症例を発表した 。 |
1938年 | ローマのUgo Cerletti(P 1877〜1963)とLucino Bini (1908〜1964)が、統合失調症の治療のために、薬物痙攣療法に変わる治療法として電気痙攣療法 electroconvulsive therapy: ECTを開発した。 |
1941年 | John F. Kennedy大統領の妹のRose Marie Kennedy ↓(1918/9/13〜2005/1/7) は、ごく軽度の知的ハンディがあり、体面を気にした父親Joseph Kennedyは、Rose Marieが23歳の時に、本人の承諾なしに、ロボトミーを受けさせた。FreemanとWattsが執刀した。手術前よりもむしろ知能が後退し、性格まで粗暴になってしまい、その生涯のほとんどをウィスコンシン州の養護施設で過ごした。 |
1942年 | 新潟医大外科の中田瑞穂教授が日本で初めてロボトミー手術を行った。戦時中および戦後しばらく、主に統合失調症患者を対象として各地で施行された。日本ではこの手術を受けた患者は、東京大学精神科医師の磯田雄二郎の推計で、全国に約12万人いると見られている。 |
1946年 | ロボトミーは脳外科医にしかできない手技であったので、Freeman↑/↓は1945年までは、脳外科医の立ち会いの下でなければlobotomyを行っていない。1945年の冬に、眼窩からのアプローチを検討し、ご遺体の脳で、手技を練習した。手術用具としては、硬い眼窩を貫くために、アイスピックを採用し、操作しやすいように、特別なハンマー型のヘッドを付けた。このような手術用具を使って、眼窩からのアプローチによるロボトミーが始められた。局所麻酔をかけ、眼球と瞼の間から前頭葉部にアイスピックを差し込み、これを左右に動かして前頭葉に水平に切り込む手法であったことから、「経眼窩ロボトミー transorbital lobotomy」あるいは、「ice-pick lobotomy」と呼ばれた。経眼窩ロボトミーは、脳外科のトレーニングを受けいなくても行える簡単な手技であり、わずか10分で大きな傷もなく行うことができるようになった。FreemanとWattsは全米の精神病院でロボトミーを実演して回った。ウエストバージニアで1日に最高24件ものロボトミー手術を実行していた。 |
1946年 | イギリスでの最初のロボトミーがMaryfield Hospitalで行われ、その後30年間この治療が続けられた。 |
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1949年 | 女優のFrances Farmer(フランシス・ファーマー 1913〜1970)は、34歳の時にロボとニー手術を受けた「ロボトミーの犠牲者」という説と、そうでないらしいと言う説とがある。「大自然の凱歌」(1936)で絶賛を浴び、「第二のグレタ・ガルボ」と言われた。結婚生活の破綻し、事件を起こし、収監したり、精神病院に入退院を繰り返し、当時の標準的治療であったインシュリンショック療法や電気けいれん療法を何度も受けたとされる。食道がんにより57歳で亡くなった。 |
1949年 | Moniz↑は、湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したのと同年に、Walter Rudolf Hessとともに、ノーベル医学生理学賞を受賞した。受賞理由は、前頭葉白質切截術の考案だけでなく、脳造影撮影法の事実上の考案者としての評価であるが、現在でもアメリカなどでは、ロボトミー手術の被害者やその家族らがノーベル賞受賞の取り消し運動を行っている↓ 。(その後、Monizは国会議員や外務大臣も務め、第二次世界大戦終結時には、パリ平和会議にポルトガル使節団の一員として参加したが、患者に銃撃され、重傷を負った。) |
1952年 | Papa Pius XII(教皇ピオ12世 1876/3/2〜1958/10/9, ローマ教皇在位:1939/3/2〜1958/10/9)も容認発言をした。 |
1952年 | DSM-ICDが発表された。 |
1952年 | Henri Laborit(1914〜1995, フランスの外科医、生化学者)がクロルプロマジンの鎮静効果を発見し、1954年に米国FDAがクロルプロマジンを精神病治療として承認した。 |
1960年 12月16日 | Freemanは12歳のHoward Dully↓ にtransorbital lobotomyを施した。Robert Lichtensteinが助手をつとめた。10,000人の中で最年少の患者であった。 |
1962年 | Ken Keseyが小説「 One Flew Over the Cuckoo's Nest↓」を出版した。時代設定は1963年9月。精神異常を装って刑務所での強制労働を逃れてオレゴンの州立精神病院に入った男が、患者を完全統制しようとする精神病院の看護婦長から自由を勝ち取ろうと試みる。婦長を絞殺しようとすると、隔離されて、ロボトミー手術によって、もはや言葉もしゃべれず、正常な思考もできない廃人のような姿になって戻ってくる。題名は最後にチーフという名の患者が一人 (One) で自由を求めて、精神病院 (the cuckoo's nest) から飛び出して脱出する (flew over) ことを象徴しており、もともとの由来はマザー・グースの詩である。* |
1964年 昭和39年 11月2日 | 桜庭章司↓(元スポーツライター、ペンネーム・鬼山豊、当時35歳)は、桜ヶ丘保養所(東京都多摩市、現・桜ヶ丘記念病院)で、藤井澹(きよし)は加藤雄司医師に肝臓検査と言われて、全身麻酔をかけられ、cingulectomy)を強行された。その後遺症(精神的意欲の減退、集中力の低下やてんかん、頭痛など)によりライターの職を失ってしまう。 →1 |
1967年 2月 | Berkeleyの主婦Helen Mortensonは、Freeman↑にロボトミー手術を受けたが、脳出血により3日後になくなった。これがFreemanの最後の手術となった。Freemanは1972年に亡くなるまでに、23の州で2500件のロボトミーを行った。 |
1973年 昭和48年 6月11日 | 札幌・ロボトミー訴訟事件:札幌市の私立精神病院「北全病院」から脱走してきた入院患者の男性2人により、病院関係者の暴行が明るみに出た。これを契機に、アルコール依存症により入院していた加藤直信さん(29)が4月19日と6月5日にロボトミー手術を受けさせられて、廃人同様にされていた事実が判明した。昭和61年3月31日札幌高裁において和解が成立している。 →参考1/2 |
1975年 | 日本精神神経学会で「精神外科を否 定する決議」が可決され、以降ロボトミーは行われていない。 |
1975年 | 「One flew over the cuckoo's nest カッコーの巣の上で↑」が監督Milos Forman(亡命チェコ人)によって映画化された。日本では、1976年4月3日上映。主演はJack Nicholson演じるRandle Patrick McMurphy。 一羽は東に 一羽は西に 一羽はカッコーの巣の上を 飛んでいった…… 1975年のアカデミー賞では、作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞と主要5部門を独占した。 |
1975年 昭和50年 | 少年チャンピオンコミックスに掲載された「ブラック・ジャック」連載第58話「快楽の座」などは単行本に再掲載された時、未収録となった。鬼頭教授は、自閉症で何年も笑わない少年の脳に、スチモシーバという装置を埋め込み、快楽中枢に刺激する。少年は笑うようになったが、凶暴な行動をとるようになる。BJがオペで装置を取り外すと、元の少年に戻る。刺激治療であるので、ロボトニーを題材にしたものではない。ロボトミーよりも、自閉症に対して、間違った知識を与える可能性があるのではないか?1/2 |
1977年 昭和52年 1月 | 少年チャンピオンコミックスに掲載された「ブラック・ジャック」連載第第153話「ある監督の記録」は、日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」、「ロボトミーを糾弾しAさんを支援する会」などから抗議された。手塚治側は「不勉強のためロボトミーにそれほど問題があるとは知らなかった。申し訳ない」と謝罪した。世界的に有名な映画監督野崎舞利が脳性マヒの息子の手術をBJに依頼し、手術場面を映画に記録した。BJは、脳性マヒは運動中枢の異常が原因だとして、頭蓋骨を開いて脳に電極を差し込み、電流を通して治療を行なう。作品の中で「ロボトミー」という言葉も使っていた。手塚がロボトミーを美化したのことなどにも問題かもしれないが、ロボトミー手術でもない。単行本収録寺には、「フィルムは二つあった」という題名に変更となり、病名は脳性マヒからデルマトミージスへ、手術方法もロボトミー手術から癌切除手術となったようだ。 |
1979年 昭和54年 | 桜庭章司↑が、15年前にcingulectomyを施した精神科医の妻と母親を刺殺した。1997年に無期懲役が確定した。 →1/2 |
1986年 | Elliot S. ValensteinがFreemanと彼の手技を批判する最初の本「Great and Desperate Cures」を出版した。 |
1989年 | Christine Johnson(N.YのLevittown の医学図書館員)の祖母Beulah Jonesはdelusional妄想症(1949年)を患い、薬物療法や電気ショック治療では症状が改善されなかったので、1954年にロボトミー手術を受けたが、残りの人生を施設の中で過ごすことになった。Johnsonは祖母の死をきっかけに、Psychosurgery.orgを開設し、ロボトミー被害者の家族によるネットワークを組織し、Monizのノーベル賞↑の取り消し運動を始めた。 |
Jack El-Hai(ジャーナリスト)が「The Lobotomist」を出版した。ナチスドイツで「死の天使」と呼ばれたJosef Mengeleと同一視される、Freemanの活動に焦点を当て、現在に伝えられる彼のイメージが余りにも現実と異なっていること、そしてまた、ロボトミーが少なからず効果を挙げていたことなどが再検証されている。たとえば、IndianaのHarry Danneckerは長期にわたり、うつに苦しんで自殺を図ったが、1937年ロボトミーを受けた後は、世界大戦中も回復し、軍事工場での長期労働に耐えることができた。多くのエビデンスの中で、感謝している患者からの手紙はEl-Haiを力説せしめした。ある患者の手紙では、Freeman と Wattsは、「私の心を保持させ、私の精神を解き放した。」と書かれていた。1 | |
1991年 | 渡辺淳一の「脳は語らず*」は、1974年に「週刊小説」に連載されたものに大幅加筆し文庫オリジナルとして、1991年に出版された。 1970年代に日本の大学で行われ、後で週刊誌などに取り上げられて「事件」に発展したロボトミー手術をドキュメンタリータッチで描いた小説である。実際に起きた事件↑をヒントにした作品。 |
2005年 | 12歳の時にロボトミーを受けたHoward Dully(San jose在住)↑が「My Lobotomy」を出版した。1/2 |
2005年 | 1941年にロボトミー手術を受けたRose Marie Kennedy ↑が亡くなった。 |
2005年 | Barron H. Lerner(医学史)らがNew England Journal of Medicine, 53:119-121, 2005においては、Jack El-Hai↑の主張を受ける形でロボトミーを検証し、「当時、米国の精神病院に押し込められていた400,000人もの患者を救う為に考案された、悲痛な、しかし最後の手段だったのではないか」と記している。またその中で、一部の患者に対しては確かに効果を発揮したことは確かであると認めているのである。 |
Elkhonon Goldbergの「脳を支配する前頭葉—人間らしさをもたらす脳の中枢」*)
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下垂体ブロックが普及していた理由 | 下垂体ブロックがおこなわれなくなった理由 |
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Pain Relief |