被災地における看護大学の支援活動―兵庫県立看護大学の活動から
南 裕子、看護 47: 46, 1995(担当:井上)
災害時における被災地の看護大学が直面する課題は、大学としての機能をどのように取り戻すかということと、看護の専門家を抱えた大学としてどのような役割を果たせばよいか、ということの2点である。ここでは主に後者の課題について、大学全体としての視点から振り返ってみる。
今回の震災は全く想像だにしていなかったので、最初から体系化された行動が取れたわけではなく、その場その場で臨機応変に対応してきた。暗中模索、試行錯誤の連続だったわけである。その中で、教員同士で情報交換を行い、大学全体として互いに何をしているか知り合う機会を設け、意見交換を活発にしてきた。また、学内の教員の活動を集約するために教授会の下にボランティア長期プロジェクトを設けた。
兵庫県立看護大学は被害が少なかったので、1月18日に実習病院や県の保健環境部に被災状況や支援の必要性を問い合わせたところ、その時は大丈夫という返事であった。しかし後で聞くところによると、その直後に頼みたいことができたにもかかわらず、もはや電話がつながらなかったという。支援の必要性は1度の電話ではわからないのである。被害の大きかった地区に住む2名の教官はすでに近所の病院で終日看護に当たっているという。テレビ報道を見ると看護婦不足が予想されたが、具体的にどこに行けばよいのかわからず焦るばかりであった。19日になって大学近くの病院(神戸西医療センター)で、移送されてきた患者があふれているという情報が入り、さっそく11人の教員が必要と思われるものを持って駆けつけた。20日からは神戸大学医学部付属病院にも救援に入った。さらに要請を受けて灘区の民間病院にも、夜勤の交代要員として教員が入った。当時は大学で3食炊き出しをしており、帰りが夜遅くなる彼女たちも一旦大学に戻っていた。そこでその日体験したことを聞くことで、待機組は状況を想像し次の活動を予測した。事務局の白板には活動プログラムと活動者のリストが張り出されており、誰がどこに行っているのかわかるようになっていた。そのような中で、21日になるまで避難所へのアクセスはつかめなかった。
1月23日に日本看護協会の会長から「全国の看護協会から義援金が集まり始めているし、ボランティアを希望する看護職の人がいる…」という連絡が入った。さっそく現地のニーズを調べ、ボランティアを受け入れる態勢を作り始めた。最終的には全国から集まった565人の看護職の人が被災地の57の施設で活動した。ボランティアに登録した人は約1000人であり、延べ実働ボランティアは3086人であった。ボランティアが所属した機関は233に上る。このほか、日本看護協会を通さずに兵庫県看護ボランティア調整本部に登録した人もいた。派遣先も当初は大半が病院や高齢者の施設であったが、次第に避難所や保健所などの割合が高くなっていった。また、当大学の教員のほとんどは県外から就職して1〜2年しか経っておらず、この地方の病院についてあまり知らなかったことも逆に幸いし、需要のあるところはどこへでも行くという姿勢を貫くことができた。
被災地の看護婦もまた被災者であるのに、自分のことは後回しにして病院や避難所で活躍した。被災が少なかった我々でも心理的に苦しい時があった。震災後の心の回復を必要としているのは看護職をも含めた被災地に住むすべての人々である。看護職は他の人々を助ける職業であるがゆえに自分への援助が必要であるという自覚はあまりなかったが、自分が自分でないような心もとない体験をした人は少なくない。そこで私はグループ・サイコ・エジュケーションが活用されないかどうか、看護職の集団に働きかける活動を始めたのである。
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