和藤 幸弘
『日本医事新報』3623.pp.48-51,1993
目次
北アナトリア断層が通るエルジンジヤン地方は、トルコでも屈指の地震多発地域に
あり、過去1,000年間に大地震(Richter ScaleでM7.5以上の地震)(以下の震度
はすべてRichter Scaleで示す)が、1043年(市が全壊)、1458年(3万2
千人死亡)、1668年、1939年と4回記録されている。なかでも1939年1
2月26日の地震(M 7.9)では全壊家屋116,720戸、死亡32,968人の被
害で市は壊滅した。この地震で当時の市民は全員死亡し、現在の住民のほとんどは当
時の被災者の親類縁者であるといわれている。近年では1983年11月18日にも
地震(M 5.6)が起きたが、幸いにも特筆すべき被害には至らなかった。
トルコの耐震建築の基準は1944年にイタリアの基準に基づいて制定されたが、
1960年の軍事ク−デタ−以後に緩和された。現在のほとんどの建物は過去20年
以内の建造で、一般市民は5から6階建てのコンクリ−ト製集合住宅の一棟に10か
ら12世帯が居住している。
エルジンジヤン地方政府の発表によると、被災人口約15万人、確認された死者6
53人、負傷者約2,000人、うち重症420人、倒壊家屋3万6千500戸、家
屋喪失者約10万人の被害であった。しかし、実際には公式発表の犠牲者をはるかに
上回り、死者1,000人以上という評価が一般的である。負傷者はエルジンジヤン
市から半径50km以内で、エルジンジヤン市を中心する137村で発生した。駐屯す
る軍隊も被害を受け、兵士12人も死亡した。
負傷者は、自家用車やタクシ−などで搬送され、約80%は被災後24時間以内に
集中して病院前のテントに受診した(写真1)。また、生存者約40名が24時間以
内に瓦礫の下から救出された。
被災から約24時間後の14日夕刻までに、Light Rescue(鉄棒、シヤベル、つる
はしなどを使用した簡単な救助)での救助はほぼし尽くされ、Heavy Rescue(金属切
断器、リフト、クレ−ンなどの重機を使用する大規模な救助)が必要となったが、こ
の時点ではそれが可能な救助チ−ムは到着していなかった。
住民はプラスチツクシ−トなどでシエルタ−を造って寒さを凌いだ。
20日までに、国内国外から救援物資として合計テント17,524張り、毛布42,000枚
が支給されたが、多くは闇市場で売買された(テントは日本円に換算して約8,000〜4
0,000円、一般市民の月収は約15,000〜20,000円)。
最後の生存者が救出されたのは、21日(被災9日目)であった。
国立病院は1939年に開設され、275床を有する地域最大の病院であったが、
今回の地震により、建物は相当の被害を受け、病棟は使用不能となった。
国立病院付属看護学校療(1974年開設、5階建て)は、パンケ−キ状に倒壊(
注1)し、22人が死亡、瓦礫の下に閉じ込められた30人が救出された。
陸軍病院は、病棟の大部分が倒壊して機能を失った。
社会保険病院は1964年に開設され、120床を有していたが、倒壊してスタツ
フなど21人が死亡した。
なお、全ての病院で、医薬品/医療機器は使用不能の状態となった。これらの病院
は生存した入院患者をテントに収容し、さらに陸上競技場に野外診療所を設営した。
また、これらの病院は自家発電機を有していたが、余震を恐れるあまり、倒壊あるい
は半壊した建物に入って発電器を作動させる者がおらず使用されなかった。
これらの病院での断水は4日間続いた。
その他、近隣のシ−バス、エラツイグなどの都市から救急車が派遣され、負傷者を
エルズルム、エラツイグ(269km)、ツンセリ(130km)、グムシエン(150km)、イスタン
ブ−ル(1103km)などに搬送した。
エルジンジヤン地方政府の要請により、イズミル(トルコ西海岸の都市)から、民
間の救急医療チ−ム『マ−ム(marm)』の医師2名、医学生3名が、14日朝8時に
飛行機で到着した。
さらにトルコ赤新月社(注3)、軍隊2,700人の救援が到着し、地元の、医師
、看護婦、警察官等とともに、救助と医療にあたった。トルコ赤新月社は野外診療所
を設置して2週間活動し、計3,500人の診療を行なった。
2. 食料
3. 電気
4. 交通
5.電話、通信
一方、被害を縮小した要因として、被災当日は、イスラム教の断食月(Ramazan)
の最中で、モスクへ行くべき聖日であり、そのため、モスクにいたかなりの数の人々
が被害を免れたこと(前述のごとく、モスクはド−ム状構造一階建てですべてが倒壊
を免れた)。被災地支援のための進入経路としての陸路がほとんど障害を受けなかっ
たこと。冬期のスト−ブを使用する時期で、また夕食の炊事時刻であったにもかかわ
らず、火災がほとんど起きなかったことなどが上げられる。
今回の地震の救援医療は主に、エルズルムからの大規模な医療チ−ムと赤新月社の
医療チ−ムによって、比較的早い対応がなされた。また、イズミルの民間救急医療チ
−ム『marm』(規模は医師6名、医学生10名からなり、救急車、飛行機を保有する
)が、独自に災害時の救援チ−ムを送る準備を整えていたことは驚きに値することで
あった。
国際的緊急援助の反省としては、外国からの救援チ−ムの活動が的確に調整されず
、被害の大きかった地区に集中してしまったこと。トルコ政府からUNDRO(国連
災害救援機構)に正式な救援要請がなされず、現地で必要とされた物と実際に送られ
たものに食い違いがあったこと。例えば血液(写真6)など多量に廃棄されたことな
どがあげられる。また、トルコ政府関係官の発言によれば、トルコ国内でも東部は特
に農業地域であり、外国からの食料の援助は余り必要でなく、一番必要であったのは
経済的支援であったとのことである。しかし、ヨ−ロツパ各国のチ−ムが、救援活動
に必要なもの全てを自給した経験と機動力は評価されるべきである。
災害医学において、災害とは傷病者の数または質が地域の医療能力を圧倒してしま
った場合を示し、被災地から負傷者を他の地域へ運びだし、分散して収容することが
管理上重要である。今回の地震では、患者の大部分が集中してエルズルムに搬送され
たために、エルズルムでの医療能力を上回る結果となった。被災地の傷病者全体が、
搬送先の能力も考慮した的確な分散搬送計画で管理されなければ、このように搬送先
である第二の地域に医学的災害を引き起こすことになる。
今回の管理全体を総括すると、被災から12時間後、即ち翌朝までは、救援は全く
到着せず、被災したが負傷を免れた市民自身によるlight Rescueが行われたのみであ
る。しかし、被災から12時間程度、救援が到着しないのは普通のことであり、この
間はその地域のみで対応しなければならない。今回も12時間後から、国内国外の災
害救援チ−ムがぞくぞくと到着し始めるが、24時間後までにlight Rescueを終って
しまい約40時間後Heavy Rescueが可能となるまで、救助活動は空白となった。40
時間後から開始されたHeavy Rescueが24時間で200〜300人を救出したのは見
事な成果であった。しかし、特に地震のような急性型の災害では、被災から24時間
の救助と医療が負傷者の死亡、生存者の予後に対する重要な鍵となる(Golden 24 ho
urs)。
その他、電話は12時間、交通は24時間で速やかに復旧、水道、食料などのライ
フラインは1週間で50%が復旧して、地方政府の当初の管理復旧計画通りに遂行さ
れた。本地方は地震の多発する地域であり、適切かつ迅速な被害の評価と管理計画が
行われたものと考えられる。
(注1)上から下に押しつぶされるように倒壊する。
(注2) RCフレ−ム構造
(注3)国際赤十字に属するが、イスラム国では十字を使わない。
なお、本報告は著者がピッツバ−グ大学の調査にて実際に現地で聴取したことと以
下の資料を参考に作成した。
3)Unal Tuygun, Benim Memleketim, Erzincan 13/MART/1992
4)文部省自然災害科学総合研究班、1992年トルコ/エルジンジヤン地震−地域地
震活動と土木/建築構造物の被害および緊急対応−1992年6月
はじめに
【背景】
【被災経過】
〈被災当夜〉
地震直後より電気の供給がすべて絶たれたため、自動車のヘツドライト、懐中電灯
を使用して、家族や隣人の探索/救助が市民の手で行われた。また、電話、ガス、水
道などの供給もすべて絶たれた。〈被災翌日〉
早朝、最も近い街であるエルズルムより医療チ−ム(後述)が到着し、現地の医療
従事者とともに、国立病院前にテントを仮設して負傷者の診療を開始した。〈被災3日目以降〉
15日にダンプトラツクやクレ−ンなどの重機を使用した瓦礫の撤去作業が開始さ
れ、16日までに計200〜300人が倒壊建物より救出された。また、15日19
時18分、最大の余震(M5.8)が起きたが、市民はすでに避難していたので、これに
よる負傷者はほとんど出なかった。[医療機関の被害]
エルジンジヤン市には、国立病院、陸軍病院、社会保険病院の3つの主要医療機関
がある。[その他の建造物の被害]
倒壊した建物の多くは、3〜6階建てのコンクリ−ト製の集合住宅(注2)、商店
、病院などあった。そして、市内に発生した死亡者400人のほとんどはこれらの中
層の建物60棟余りの倒壊によるものであった(写真2、3)。2つのホテルも同様
の構造で、パンケ−キ状に崩壊し、多大な犠牲者を出した。市内に散在する約20の
モスクもコンクリ−ト製フレ−ム構造であるが、モスクはすべて1階建てのド−ム状
(空洞)構造であり、倒壊を免れた。1956年頃に建設された鉄骨造りの砂糖工場
も倒壊した。[国内の救援]
14日未明、エルズルム(エルジンジヤンから189km東の都市)より、アタトル
コ大学医学部を中心として臨時に結成された医療チ−ム(救急車13台、医師70名
、看護婦100名)が到着した。彼らはチ−ムの半分を被災地市内に分散し、残りの
人員で国立病院の前に、野外診療所を仮設した。15日までの病院の診療録はないが
、病院の医師へのインタビユ−では受診した患者のうち約300人は、スト−ブの転
倒やその上の熱湯をあびたことによる熱傷で、さらにその約半数は小児であった。そ
して、約500人のけが人を治療し、そのうち300人を救急車と鉄道を使ってエル
ズルムへ搬送した。しかし、エルズルムの医療能力も多数の負傷者に圧倒されてしま
い、6日後にもなお約50人の整復手術、切断手術の必要な患者が残されていた。[国際的救援]
今回の地震ではトルコ政府より、UNDRO(国連災害救援機構)へ正式な救援の
要請が行われなかったが、スイスチ−ムが14日に到着したのを初めとし、15日に
イギリス、ドイツ、ギリシア、オランダ、イタリ−、フランスより救助犬を含む救援
チ−ムが派遣された。これらの外国チ−ムは17日から18日には撤退した。これら
ヨ−ロッパの救援チ−ムは必要な資機材をすべて持参し、自立して活動した(写真4)。
ギリシア、ロシア、サウジアラビア、クウエ−ト、ベルギ−、パキスタンからは、
テント(2203)、毛布(6494)、ストレッチャ−(986)、スト−ブ(857)、フア−ストエイ
ドキツト(308)、血液などが送られた。日本からは全体の献金の約3分の一にあたる
約5千万円と発電機などが送られた。[ライフラインの被害とその復旧]
1. 水道[生存者の精神的被害]
トルコ東部の住民は特に敬虔なイスラム教徒が多く、彼らは地震は神がもたらした
運命であると信じているため、家族や住居を失ったことなどに関連する精神的後遺症
は予想外に少なかった。しかし、自宅が倒壊を免れた被災者も地震に対して脆弱なも
との集合住宅には戻りたくないと、1992年7月現在でも、プレフアブ住宅やテン
トに生活していた(写真5)。また、この地震の直後に数百世帯が、エルジンジヤン
を離れ、その後も家財が売却できれば、他へ移住したいという市民が多い。さらに、
アルコ−ルやタバコの消費量が増えるといった地震の恐怖体験や次の地震に対する不
安などのストレスが原因と思われる心因反応が多くみられた。[地方政府の対応]
エルジンジヤン県知事が最高責任者となり、毎晩、現地災害対策会議を開いて対応
した。県庁、国家災害対策局などの公的機関がとった緊急対応の概略は、初めの4日
間には救出救助活動を優先、1週間を目途にテントや食料など救援物資の充足とライ
フラインの50%復旧、2週間後より、住宅の建設などリハビリテ−シヨンを開始す
るというものであった。【考察】
【結 語】
文献
1)Polat G
災害医学・ 日本語論文リストへ
INTELLIGENCE 21へ
著者(allstar@kanazawa-med.ac.jp)
までご意見や情報をお寄せ下さい。