<はじめに>
救急医療が一人の救急患者に対し、多くのスタッフが総力を挙げて対処するものであるのに対して、災害医療では、多くの被災者の中から少ないスタッフで、いかにより多くの被災者を社会復帰させるかが重要である。
災害医学は本来軍事医学から発展したものである。そのため、戦争を放棄して半世紀を経過した日本には災害医学は存在しない。戦争では、ある程度の戦死者・負傷者を予測でき、衛生兵が医薬品・医療資材を持って隊と同行し、軍医も後方で待機している。しかし、平時の災害対策ではこのようには行かない。トリアージに関しても、これを医学の世界で最初に用いたナポレオンの軍医、DJ.Larrayは、seriously wounded soldierに治療の最優先権を与えていた。また、トリアージの目的も戦争と災害では異なり、戦争では生命に危険の無い負傷兵を直ちに処置して最前線に再び送ることにある。
<災害医療の目標>
医療での災害状態とは、膨大な医療の需要に対する供給の絶対的な不足の状態である。つまり、医療機関の被災の有無に関わらず、医療需要のアンバランスがあり、そのためその地域の通常の組織では対処できず、他からの救援を必要とする事態をいう。
このような状況下で、多人数が対象となる救急事態に対処するためのカリキュラムが、1982年、文部省・厚生省両省主催の「医学教育者のためのワークショップ」の中で試作されている。その中で、一般目標には、災害発生地における困難な状況下で迅速に的確かつ適切な救急医療が出来ることがあげられている。医療面における行動目標の要点は、災害についての広い知識を持ち、先ず災害から自分自身を守ること、管理面では、この行動目標を達成するためのコーディネーター役が出来ることを前提条件とし、その上で災害時の経時的医療ニーズに沿った行動が出来ることを要求している。しかし、このカリキュラムはその後の災害医療教育に活かされていない。
もう一つの問題点は、日本の災害に対する法律にあり、昭和22年の南海大地震を契機に制定された「災害救助法」と、昭和36年の伊勢湾台風後に制定された「災害対策基本法」が、現在の社会医療情勢下での災害に十分に対応できない点にある。
従って、医療に携わるものは、法の改正、災害教育の普及を待つまでもなく、地域で自衛策を講じておく義務があり、以下にその方法の一案を示す。
<医療展開の原則>
医療の災害状態下で最大多数の被災者を社会復帰させるためには、一定の方式によって被災者救助に当たらなければ目的を達成することは困難である。そのための方式がSearch & Rescue(探索と救出)とThree Ts'(3つのT)である。
1)災害の発生:発見者が119番通報し、これに応じて最初に到着した救急隊が災害発生場所、種類、範囲、被災者の概数などを本部に連絡する。
2)災害発生の覚知:通報を受けた本部では被災規模が災害対策基本法に合致すると、その自治体の長が災害発生を宣言し、災害対策本部、現地救護所の設置など必要な処置を講ずる。
3)探索と救出(Search & Rescue):災害現場では、引続き到着した消防隊、救急隊は被災者が閉じ込められているような場合には、被災者を捜しだし救出して、2次災害が及ばない安全な場所に設置した現地救護所に運び出す。
4) トリアージ(triage)と搬送(transportation):現地救護所で第1回目のトリアージを行う。トリアージの順に救命処置等を受けた被災者を適切な搬送方法で医療機関に搬送する。搬送責任者は重傷者を近くの病院へ送る。1ヶ所の医療機関に被災者を集中させないように注意する。
院内でも3つのTを守ることが原則である。その前提条件として、少なくとも当該病院に搬送される被災者の重傷度と人数が搬送開始時に知らされる必要がある。そのためにはまず、
などが必要である。
1。はじめに
テレビや新聞で報道される大きな自然災害は、地球上で年間70件発生しているといわれる。人為的なものも含め、このような大災害のうち、緊急的な対処が必要なものに対して、援助隊員、援助物資の供与を行なうシステムがある。
国際協力事業団(JICA)の国際緊急援助隊事務局には、人道的な立場から緊急援助隊(Japan Disaster Relief Team: JDR )の派遣を行なっているが、そのうち、国際緊急援助隊医療チーム(Japan Medical Team for Disaster Relief: JMTDR)は、医療援助を目的とした組織で、医師、看護婦(士)等、医療関係職の有志が要請に応じて出動する。これに対して、消防、警察、海上保安庁などで構成されるレスキューチームもある。
本稿ではフィリピン地震(1990年)での出動経験とレスキューチームとの関係について述べられている。
2。出動の記録
3。レスキュー部隊との連携
JDRレスキュー部隊(26人)は、7月18日日本を出発し、19日現地入りし、現地対策本部の指示により、捜索、救出を担当した。医療班はBGHにベースを置きつつ、連絡(無線とジープによる)が入れば直ちに現場に向かうという打ち合わせであった。しかし実際の救出者はいなかった。
今回の災害救援活動は、JDRとしては初めての、レスキュー・医療連動の組織的出動であった。日本レスキューチームの士気の高さと、それを裏付ける高度の装備は賞賛に値するものである。
3。今後の課題
4。JMTDRへのご招待 こうした災害援助に興味のある方は医師、看護婦あるいは業務を問わずJMTDRへの参加を呼びかけたい。日本の海外援助では「金や物は出すが、人は出さない。」との声もしばしば聞くが必ずしもそうではなく、少なくとも、災害救助に向かおうという意欲はここに集まっている。
今回の阪神大震災は、歴史的な大災害であったと同時に災害時における精神科の救援活動が初めて大規模に行なわれた災害であった。
阪神大震災の精神医療保健への影響を考える場合、震災による医療需要の増大という面と、それに対応すする医療保健システムの破壊という両面から考えなければならない。
精神科医療需要を示すデータとしては、1月17日以降2週間で兵庫県下の精神病院に入院した人は、900人を越えこれは通常の約3倍の数であった。外来診療数については確かなデータはないが、10保健所に開設した精神科救護所で診療した結果、これまで精神科の治療歴のない人が30〜50%であったという。
次に精神保健システムの問題であるが、激震地帯が神戸阪神地区の市街地を貫いており、多くの精神病院は郊外にあるためほとんど被害は受けなかった。しかし市街地にある地域精神保健システムは壊滅的な打撃を受けた。神戸阪神地区はもともと精神神経科のクリニックが多いところだったが、激震地帯に近い地区では、ほとんどのクリニックは何らかのダメージを受け満足な診療が出来なかった。仮設の建物や移転再開なども含めて全ての診療所が一応再開したのは3月になってからであった。多くの病院は数日間は救急患者であふれ、医師や看護婦にも被災者が多く、通常の外来診療が出来ないうえに、遠くの病院に通院していた人も多く、交通機関の破壊のため、外来通院のシステムは決定的なダメージを受けた。
地域精神保健システムの崩壊と、ニーズの急増という事態に直面した被災地の保健所でスタートしたのが精神科救護所である。1月21日以降1週間の間に10保健所で開設された。
精神科救護所は、当初は爆発的な精神科医療ニーズにこたえるためのもので、通院先を失った精神科の患者、被災によって急性再燃を起こした既往歴のある人たち、被災と避難所生活によって起こった急性ストレス反応の診療が目的であったが、徐々に避難所の多様な精神科ニーズをカバーする形となっていった。
避難所で働くスタッフ、ボランティアなどの人たちの多くも被災者であり、役割におわれて不眠不休で働きつづけ、いわゆる「燃えつき」や対照的な防衛的そう状態のための治療をするケースも多くあった。また一ヵ月ほどして事態が比較的沈静化した頃からはアルコール関連の診療が多くなった。支援物資として酒が届けられ、とにかく強烈なストレスと環境変化のため、被災をきっかけに飲酒量がふえた人は多かった。大量飲酒者のトラブルというものも多く、長期的には依存症の増加も予想される。
医療システムが大きなダメージを受けた中では、必然的に緊急の対応を迫られることが多く、被災地での夜間の精神科入院は、通常の2倍以上のペースが3月まで続いていた。
今回の震災では、被災者のメンタルヘルスケアの必要性がたびたび取り上げられた。海外からは、災害時のメンタルヘルスの専門家が来日し、講演や研修を通じて日本のスタッフにも働きかけを行なった。保健所や避難所の救護所精神科チームも、避難所の被災者全体のメンタルヘルスケアという役割を担うことになっていった。ただ通常の精神医療を第一とした救護所チームには容易なことではなかった。というのもほとんどの人が災害時のメンタルヘルス活動についてマニュアルもトレーニングも欠けていたからである。
被災者のメンタルヘルスケアは、災害対策の中で大きたウェイトを占めることが今回の震災で、突然に常識となった。しかしメンタルヘルスケアは、被災者への各種の情報やサービスと一体のものとして提供され、たとえば避難所の管理運営に生かされるものでなければならない。
今回の震災で、少なくとも災害時に精神保健のチームが活動すべきフィールドが存在することは明らかになった。そして今からやらなければならないことは、今回の経験を生かして活動の内容を確定しトレーニングのシステムを作り、それを災害対策全般のなかにきちんと位置付けることだと思われる。国際医療協力に参加して
福家信夫、救急医療ジャーナル3(2) 34-8, 1995(担当:栗田)
1990年7月16日、日本時間午後4時28分、ルソン島中部ヌエバエシア州カバナイツォアン近郊で、マグニチュード7.7の地震が発生した。同日午後8時までの情報で、死者は40人以上、負傷者不明、多数が生き埋めになっているとの報告だった。
7月17日午前11時、出動要請の電話が入り、午後5時に成田空港集合、8人で結団式を行ない、午後7時成田発。午後11時30分マニラ空港到着。翌日午前5時、軍用機、軍用ヘリコプターを乗り継いでバギオ市に入った。
バギオ総合病院(BGH)で医療活動を行なった。現地では、日本人夫婦が経営しているホテルに宿泊し、また、国際援助事業で作業中の企業に有形無形の助力をいただいた。
BGHは機能が麻痺状態であったため、病院前にテントを張り、仮病棟として入院設備はもたないまま、18日から21日まで100人程度の外来診療を行なった。最初の2日間は、地震関係の外傷患者が多かったが、次第に扁桃腺炎、喘息などの慢性、急性の疾患による患者が増えてきた。また、抗生物質が容易に入手できないためか、皮膚の化膿性疾患が多かったのが印象的である。
専門機のない日本は、出動するために直行便があり、かつ緊急的に座席を確保できる程度の便数があるところしか効果的な出動はできない。
今回は現地日本企業の積極的な協力があったが、安定した輸送路の確保が問題となる。
出動のためには「1週間かそれ以上の欠勤」が必要である。本来の勤務先でハードな勤務体制がとられている場合、これは難しい。JMTDRへの登録さえ許可されない大学病院もある。また、今回の人員は必要最小限であり、何かのトラブルが発生したら大幅に機能が低下する。派遣チームの量、質ともにより向上させる必要がある。大震災における精神科救護活動
麻生克郎、公衆衛生59: 467-9, 1995(担当:高橋)