信楽列車事故

     (藤田仁ほか. 救急医学 15: 1793-7,担当:宮本)


 1991年5月14日午前10時35分、信楽高原鉄道でJR西日本・京都発信楽行き(3両編成、乗客約700名)と信楽高原鉄道・貴生川行き列車(4両編成、乗客約15名)が正面衝突し、死者42名、負傷者576名を出した。救護班出動総数は87名、うち医師38名、看護婦33名、その他16名であった。

 現場の状況は、JRの先頭車両は、前端部約1/4が「く」の字折れて約45度の角度で立ち上がり、折れた部分では天井と床が接近し、約50cmの間隙を残すのみであった。信楽高原鉄道の先頭車両の損壊は著しく、ほとんど原形をとどめず、「へ」の字に変形して約40度の角度で立ち上がり、もっとも高い部分で地上約10mに達した。前端部2窓の空間は天井と床が接近し、人の出入りは不能であった。車内は軽油に引火する恐れがあったので、特殊工作機械が使用された。車両は不安定な状態にあり、二次災害を防ぐためクレーン車で車両を支えながら救助活動は進められた。

 事故直後から、医療機関に対する医師派遣および負傷者受け入れ要請があった。
 現場における救護活動は、まず、現場に到着した医師が、大事故に遭遇した過去の経験に鑑み、負傷者のトリアージを主として行った。重傷者は公立甲賀病院へ、軽傷者は、国立療養所紫香楽病院および信楽町国保中央病院へ搬送するように救急隊員に指示した。それから、梯子とレスキュー隊の助けをかりて、JRの「く」の字に折れて立ち上がった部分の窓から車内にはいると十数名が立ったまま寿司詰めになって挟まっており、腕をあげることもできず頭だけがごろごろと並んでいるような状態であった。互いに挟まり込んでいるため、引き上げようとしてもまったく不能、生存者の間に2, 3名の死者が挟まっているのが確認できた。座席もずり落ちていた。出入口の空間に2名の生存者が下肢を挟まれたまま立っていた。意識レベルの低下、呼吸困難、ショック状態の者などが4,5名いた。腕を出せないので点滴はすべて頚静脈から行い、酸素の供給、人工呼吸を試みたが車内での処置は極めて困難であった。特殊工作機械で少しずつ車体をこじ開けながら1名ずつ順次救出した。国道上に設置された現場救護所で気管内挿管、応急処置などを行い後方病院へ搬送した。搬送手段としては、救急車のほかヘリコプターも用いられ必要に応じて医師も同乗した。軽傷者は地元消防団の軽トラックなどで搬送された。現場救護活動の初期においては、医師・看護婦の不足を痛感したが閉じ込められた空間内の救出に限局された頃になると、いかにして速やかに車外に搬出するかが焦点となった。
 車内には血痕はほとんど認められず、死者、重傷者は衝突車両の前方に集中しており、とくに折れて立ち上がっていた部分の底部では寿司詰め状態で、主たる死因は胸部の圧迫による窒息と思われた。
 医療機関別救護活動として、事故現場から直接搬送された負傷者を受け付けた医療機関と、他の医療機関を経由し、主として重傷者の治療にあたった後方医療機関に分けることができる。
 遺体は、2つの公民館に、地元消防団の軽トラックなどで順次搬送され、検死を行ってから、遺体の清拭、創処置などを行った。各医療機関で死亡した人も含めて42体の全遺体は信楽町民体育館に移送され安置された。
 以上をまとめると、事故発生地点が幹線道路に接していたこと、快晴、週日かつ昼前で外来診療が終わりに近づいていたこと、および医療機関にも近かったことなどの好条件に恵まれながら多数の犠牲者を出した原因は、超満員であったことと事故の性質そのものに内在していると思われる。すなわち、車両が折れて立ち上がったため、寿司詰めになり圧死のかたちとなったこと、閉鎖空間に閉じ込められた被災者の救出に時間を要したことである。救護活動中に息絶えていく負傷者は少なくなかった。
 また、外傷の種類としては骨折など整形外科的損傷がもっとも多く、次いで肺挫傷、血気胸などの胸部損傷であった。病院に搬送されて死亡した例の大多数はDOAであった。緊急手術を必要とした例は意外に少なく、トロッカーカテーテルを挿入した血気胸2例と翌朝の開腹術1例にすぎなかった。
 問題点としては電話、ファクシミリなどの通信手段がマスコミに占拠され飽和状態になったこと、各医療機関が必要とする情報量が絶対的に不足していたこと、軽傷者が殺到して診療機能が麻痺したこと、救護班の現場へのアクセス、遺体処理の不備あるいは遺族への引き渡し時間の遅れなどによるトラブルなどがあげられる。生存者に全力を尽くすことは当然であるが、遺体の処置にも細心の配慮が望まれ、人手を必要とする。