(鈴木忠. 救急医学 15: 1787-92,担当:原井川)
事故状況の概要
JR東中野駅列車事故 1988年12月5日午前9時37分、JR総武線東中野駅構内の下り車線に10両編成の列車が停泊していたところ、やはり10両編成の下り列車が衝突した。現場は下り坂でしかもカーブにあたり、1964年と1980年にも同じ場所で事故が発生している。原因は運転士の重複ミス(ATS解除、赤信号無視、手動停止なし)。
救急活動状況
2分後の9時32分から9時49分にかけ、特別救助隊(いわゆるレスキュー隊で、閉じ込められたり挟まれた負傷者の救出)4隊、救助隊(ポンプ車で出動する消防隊、患者収容、救急車への搬送)20隊、救急隊26隊、その他(現場指揮、情報収集)26隊の合計272名の消防職員が出動した。事故後約20分して中野区医師会に出動要請、さらに帝京大学にも医師出動要請。
負傷者
事故時の両車両の乗客は約1600名で、負傷者数は、東京消防庁救急隊搬送者80名、JR東京総合病院所属の救急車(1台)による搬送者12名、自己受診26名の合計118名。
死亡は2名、中等症20名、軽症96名(東京消防庁資料)。読売新聞によると重傷2名、朝日新聞によると重傷5名。
搬送状況
消防庁救急隊による搬送患者は死亡2名、中等症20名、軽症58名の合計80名で、搬送回数は30回、1回あたり2.7名搬送。JR救急車は軽症患者12名を3回に分けて搬送した。
収容施設は三次救急施設が4施設で13名、それ以外の病院が20施設で95名、一般診療所が4施設で5名であった。
このうち死亡者2名と、新聞発表による重症者1名が三次救急施設に収容、重症者4名が新宿区、渋谷区、中野区の3カ所の病院に収容された。
医療機関の所在地は、新宿区11施設、中野区7施設、渋谷区4施設とこの3区で8割となる。
収容患者の比率は中野区37%、新宿区29%、渋谷区23%、その他11%で、新宿区、中野区、渋谷区の3区で9割となる。
重症患者が三次施設や救急対応に慣れた病院に搬送されたこと、現場近くの病院に搬送されたことから、トリアージがうまく行われたと思われる。
医師の現場出動
9時45分、中野区保健衛生部より中野区医師会に連絡があり、中野区医師会対策網東中野地区隊に出動準備が要請された。9時47分に医師要請(東京消防庁資料では9時59分)。中野区医師会には6つの災害救護隊が編成されており、1986年には中野駅での列車転覆を想定した訓練も行われていた。
帝京大学グループは依頼を受けてから、約20分後の10時50分ごろ到着。現場処置は中野区医師会により大部分終了していた。
考察
集団災害は、局地災害、広域災害、特殊災害に三分され、それぞれ都市型と地方型に区分できる。都市型と地方型では、道路事情、情報伝達、通信問題、医療機関数、救護体制などが異なる。最近の都市型災害では、これらがかなり整備され、多くは30分くらいで、現場から被災者がいなくなるといわれている。
JR中野駅列車事故は、総体的には迅速な救護活動が行われた。その理由としては、都市型災害としての様々な条件に恵まれたこと、負傷者の大部分が軽症で、一度で数名の搬送ができたことがあげられる。
しかし、最近の主な列車事故をみると、負傷者数、死者数、患者の状態は事故によって大いに異なり、様々な状況に応じた対応策の検討が必要である。