(救急医学 20:233-236,1996)
目 次
食料や水については現地では補給出来ないものと考え、原則的に自給自足が可能なように十分量持参した。ガスの復旧は当分は困難と考えられたため、カセットコンロを多数持参し、簡単な炊事はドーム内部で可能なように準備した。
救護班開始後数日すると、近くの保健所から薬品が供給されるようになった。保健所には市販薬から注射薬、輸液製剤等に至るまで用意されていたため、可能な限りそちらから補充した。
神戸市灘区の西灘小学校内に仮設診療所を開設した。当初は狭い用務員室で診療していたが、学校側の配慮で数日後に保健室に移動し、点滴用のベッド等も確保することが出来た。神戸市によれば対象となった医療圏は、主に西灘小学校と原田小学校に避難していた被災者に加え、周辺住民を含めて約5000人と推定された。1月22日から2月28日の38日間で、のべ総受診者数は2131名(男性855名、女性1276名)であった。患者の年齢分布を図2に示すが、平均年齢は52.8歳で、最年長は91歳、最年少は1歳で60歳台にピークがあり、20歳台にも小さなピークを認めた。受診者数の推移(図3)については、開始初期は一日100人以上の受診があり、震災による外傷患者もみられた。受診者数は避難所生活者が減少するに従って漸減し、撤収前は20〜30人程度となった。
受診者の疾患を診療科別に分類すると、66%を内科系が占めた(図4)。精神科的な患者は不安、不眠を訴える人がほとんどであったが、精神分裂病と考えられる例も5名いた。外科系受診者については、初期は震災による挫傷、開放創が多かったが、徐々に持病の腰痛、膝痛を訴える患者が増えた。震災による受傷は延べ149人であった。骨折と考えられる患者が延べ38人いたが重度外傷は少なかった。
内科系疾患の内訳を図5に示す。上気道炎症状を訴える人が,内科系受診者の78%にのぼった。避難所生活で咳が他人への迷惑になることを気にする患者が非常に多く、鎮咳剤の需要が多かった。X線等の検査が不可能だったので確診は不可能であったが、肺雑音が聴取されるなど臨床的に肺炎と考えられた患者は7名であった。腹痛、高血圧の患者はそれぞれ約8%であった。高血圧患者のほとんどは、震災で薬を失ってしまったための受診であった。インシュリンや経口血糖降下剤をなくした糖尿病患者には、検査が出来ないこと、食生活が激変していることを考慮して処方はしなかった。いわゆる持病の悪化や薬を失ったことによる受診は、高血圧、虚血性心疾患、胃十二指腸潰瘍、気管支喘息等の内科疾患に加えて、腰痛・膝痛等の整形外科的疾患が目立ち、持病の悪化に伴う受診者は、全受診者の12.8%を占めた。入院加療が必要とされ、他の医療施設に転送した症例は、肺炎、脳梗塞、精神分裂病等で計16名であった。
当救護班は幸運にも新潟市からの全面的なバックアップが得られ、さらに高度な機能を持ったエアドームをベースキャンプとすることが出来た。当初は避難所に泊まり込んでの診療を覚悟していたが、エアドームのおかげで、冬季にもかかわらず暖かく安全に過ごすこせた。暖かい食事も確保され、被災者の方々に申し訳なくなるくらい恵まれた状況であった。高橋ら1)は外国の医療救護チームは、難民救護でも自分たちの生活レベルを落とさないことを当然とし、救護に専念出来る体制をとり、「自らを救えずに、何で人が救えるか」という基本哲学をもっていることを紹介している。当院救護班が一ヶ月以上もの間無理なく活動出来たのは、しっかりとしたベースキャンプを確保出来たことによるところが大きい。阪神大震災のように極めて大規模な災害の場合、救援・災害医療の専門家以外を含めた多人数の救援医療への参加が不可欠となる。そのマンパワーの確保の為にも、安全なベースキャンプは絶対必要なものといえよう。
自然災害後の救護は、急性期の外科的な治療が中心となり、数日後から内科的なニーズが高まるとされる2)。当院の救護班は地震発生4日後から開始され、急性期に発生する重症外傷に対応するものではなかった。興味深いことに、受診者の多くがいわゆる一次患者であったにもかかわらず、年齢分布は60歳代にピークがあり、20歳代に小さなピークを認め、本震災での死亡者の年齢分布4)と同様のパターンであった。丸川ら4)は、今回の地震の衝撃が大学生と老齢者の異なった集団に集中していることを指摘し、震災の被害が社会構造に依存している可能性を推定しているが、当救護班の受診者の年齢分布も同様の理由によるものである可能性もある。
当救護班では内科系患者が66%を占めたが、他の救護班でも同様の傾向であったようである3)。上気道炎(いわゆる感冒)の患者が圧倒的に多く、冬季であったことと避難所の劣悪な環境が大きく影響している様に思われた。入院を要すると考えられた転送例は16例と少数で、全てが内科と精神科疾患で、重度外傷患者は認めなかった。地元の診療所は壊滅的な被害を受け、診療不能の状態になっているところがほとんどであった。我々の救護班は主に1次医療機関の機能の代替えを果たすこととなった。高血圧や腰痛を主体とする持病の悪化、内服の中断を主訴とする患者も多くみられた。また診療所に来ることそのものが楽しみとなっている高齢の被災者もいた。
近隣の開業医が診療を再開したとの情報が入りだした時点で、受診者にはその情報を提供し、可能な限り地元の診療機関を紹介した。当救護班は無料で診療しており、また避難所に開設していたため便が良く、従来受診していた医療機関が再開しても当救護班でのフォローアップを望む患者も相当数いた。地元の医療機関と競合して、かえって復興の妨げになるのは本意ではなかった。撤収の時期は、地元の医療機関と連携を密にして決めるべきであろう。一日の受診者数が30人以下となった段階で、当救護班の役割はほぼ終了したものと考え、神戸市と協議の上、2月28日に撤収し救護班活動を終了した。
我々の救護班活動は新潟市民病院全診療科、各部署、及び新潟市役所の全面的な御協力があってはじめて成し得たものでした。また昭和大学チームには友好的に共に活動して頂きました。ここに深く感謝の意を表します。
本災害で亡くなられた多数の方々の御冥福と、被災地の一日も早い復興を心より祈念致します。
§文献
§図、表
【図1】エアドーム
【図2】患者の年齢分布
【図3】受診者の推移
【図4】受診者の診療科別分類
【図5】内科系受診者の内訳
§はじめに
§救護班派遣までとベースキャンプの設置
§派遣人員
§用意した物品、薬剤等
§受診患者の実態
§考案
§結語