インターネットがつなぐ子どものこころ

水野義之

「季刊・子ども学」Vol. 10(1996年1月発行):
テーマ「子どもたちの震災復興−阪神大震災1年」

目 次

社会の中のインターネット
震災救援ボランティアとインターネット
子どもとの接点はどこにあったか
地域社会の子ども達との出会い
遊び場としての学校と子ども達
サハリン地震と神戸の子ども達
100校プロジェクトとインターネット
地域防災計画のインターネット利用と学校

参考文献


 本論文をウェブに収載するにあたり、チャイルド・リサーチ・ネット(CRN)のご協力をいただきました。

■社会の中のインターネット

 阪神大震災の救援ボランティア活動では、インターネットを活用した情報支援も 行われた。これが役に立ったのはごく少数(約200人に1人の割合)であったが、 これを利用出来た人々には非常に役立った。これを契機に、国の新「防災基本計画」 にもパソコン通信が位置付けられ、文化の一つともなった。

 さらにインターネット利用を通して、被災地の子ども達との予期せぬ出会いがあ り、地域や世代の壁を越えた予想外の交流もあった。

 インターネットのような新しい大衆メディアが出現したとき、社会はこれを使う ことで、その特性を理解し、新しい使い方を工夫する。平成7年度からは、各分 野の防災情報システムが整備され、学校や病院等の組織のネットワーク化が進む。 しかしインターネットと子どもの関係については、事例がまだ社会的な経験として 蓄積されていないように思われる。本稿では、インターネットが子どもと社会をつ ないだ事例を具体的な個別体験に基づいて幾つか紹介し、その意味を考えてみたい。

■震災救援ボランティアとインターネット

 通信ネットワークの利用は、情報を出さなければ情報が得られないという意味で、 ボランティア精神との親和性が高い。当時のインターネット利用者(主に理系の若 手研究者と大企業の技術系社員)から見ると震災で遮断された情報伝達系にも緊急 支援の必要性が明かであったため、自発的な情報ボランティア活動が展開された。 しかし当初は試行錯誤の連続であった。

 大阪にいた我々は、ネットの広域性を現地で生かそうと、1月末に当時のボラン ティアの拠点であった大阪YMCAにMacを持ち込み、理解を得て,インターネットで 情報ボランティアを募集した。阪大大型計算機センターの下條真司先生とも共同で 検討し、現地拠点の一つである西宮YMCAと、神戸の地元NGO救援連絡会議の合計3 箇所で情報支援を始めた。これを行なったグループをワールドNGOネットワーク (WNN)と呼ぶ。

■子どもとの接点はどこにあったか

 緊急時を過ぎると、子ども達にはまず勉学への配慮がなされた。しかし,ネット 上では協力申し出があったが反応は少なく、子どもの心のケアにも、我々が関与で きるとは思わなかった。

 被災地でインターネットが利用出来た少数の学校(赤塚山高校と葺合高校)では、 生徒から世界に向けて立派な情報発信が行われ、3月の国連社会開発サミットでも 紹介された。

 WNNグループの活動では、関連企業の協力を得てインターネットを支援ボランテ ィア活動の現場でどう生かせるかを検討していた。

 2月になると海外の子ども達からも問い合わせが来始めた。例えばアメリカの幼 稚園から神戸大学に、神戸の幼稚園とインターネットでの交流申込があった。海外 の小・中学校からは、地震の調査協力の依頼が多かった。

 そのころ日本では、通産省、文部省合同の100校プロジェクト(学校でのイン ターネット利用開発計画)の参加校決定直後の段階であり、学校で情報リテラシー と言えば、自主教材やCAIの利用開発を意味していたため,通信リテラシーやモラル に理解のある教師は少なかった。そういう中で、我々WNNグループは、震災救援の 現場で、学校という組織を飛び越えて直接に、子ども達と対話することになった。

■地域社会の子ども達との出会い

 1995年2月中旬には、個人ボランティアも行政も、避難所の生活支援が主務であ ったが、それもいずれ解消されること、また避難所は各点であるから、地域に面の 広がりを持つ支援が今後必要である、との見通しもあった。

 その活動を行っていたのは地域のボランティア団体(NGO/NPO団体)であり、そ の一つが西宮YMCAであった。予備校、キャンプ等の青少年プログラムやLD(学 習障害)児学級等の地道な活動の蓄積があった。そこに、インターネットと子ども との接点があった。

 西宮YMCAには、すでに情報班があった。新聞切り抜き等、高校生ボランティア らの運営で、地域住民の問い合わせに答える活動をしていた。これにインターネッ トで協力しようとしたが、当初は反発を買うのみであった。

 インターネット上の情報交換には、もっと地域に密着した情報を要求された。 また検索技術伝達の誘いには、「俺はひとを助けに来たのであって、パソコンを覚 えに来たんじゃない」とも言われた。健全な反発であった。

 そこで現地のネット担当者は、情報班からの難しい質問をネットに流し、検索協 力者(40人程)が、あらゆる手段で調べてその答えを返すオンライン検索を行な った。これは有効に機能した。この積み重ねから、相互の信頼関係が徐々に作られ ていったと思う。

 担当の女生徒がもう遠方に帰るという日に、ネットを通して私に伝言があった。 「水野さん、この頃ちっともきてくれないから怒っています、と伝えといてくださ い」、と言う。反発していた彼女にも、ネットワークでつながれるものは協力関係 であるということが、ようやく伝わったのだと、そのとき思った。

 反発していた男子生徒に連休の頃に会うと、自分の活動のまとめを書きたいと言 ってきた。

 避難所でも,ある種の解放区が現出し、生徒と教師の思いがけない交流が起こった という。我々も、高校生と直接の対話や共同作業が出来るとは思っていなかった。 このような出会いを組織的に実現する仕組みは日本には存在しないが、今後の社会 の面白い可能性である。

■遊び場としての学校と子ども達

 1995年の1月末から西宮YMCA近隣の八つの小学校では、近所の倉石哲也先生(大 阪府立大学)が毎日、学生ボランティアによる子ども達の遊びの指導記録を添削、 現場指導もされていた。我々はこの内容を是非インターネットで、全国に知らせた いと申し出た。どんな役に立つのかと問われて、答えられるものではなかったが、 とりあえず随筆風に現場報告を書いて頂き、WNNメンバーがネットニュースとWWWに 流した。社会人から活動参加の申込もあり、大量の絵本の寄贈もあった。

 この中の第3話「Cちゃんとの会話」は感動を呼んだ。「...『私の家、この避難 所のすぐ近くにあるけど地震で全部こわれたの。(中略)お母さんの方のおじいち ゃんが死んだ。近所に住んでいたから助けにいったけど、いえに埋まってた。足を 触ると温かかったから、消防士さんに‘助けて’と頼んだの。でも消防士さんは、 ‘声のする人が先です’といって別の方へ走っていった。後でおじいちゃんはたす けられたけど死んでた。でも体は温かかったから、消防士さんが来てくれた時は生 きていたんじゃないかと思うの。』(中略)Cちゃんは話しの内容に比べて驚くほ ど淡々と話してくれたのでした。...」その対応の様子も淡々と綴られ、人々に現状 をよく伝えた。

 5月になると、各地で余裕のある企画も始まり子ども達も参加した。西宮 YMAC では、多くの関係者の計らいでニュージーランドのワイヘケ島へ西宮の子ども達の、 心のケアのホームステイが企画された。WNNグループも「ネット特派員」として同 行した。現地のデジタル写真はWWWで公開し、最終日には子ども達と日本側との 簡易テレビ会議を行った。子供達の驚いた表情と操作担当メンバーの余裕のある笑 顔は今でも忘れられない。これはNASAが宇宙飛行の様子を民間に流す技術と同じで あるが、このような経験から何が育って行くか、楽しみである。

■サハリン地震と神戸の子ども達

 5月末にはサハリン大地震が発生し、その救援の実況がインターネットを通して 神戸の子ども達にも届くことになった。WNNグループはノウハウの蓄積を生かすべ く緊急派遣団体(医療NGOのAMDA)と直ちに連絡をとって協力した。AMDAの医 師から入る現地報告を次々に英訳、ネットニュースとWWWで提供したが、これは 反響を呼んだ。

 マスコミよりも早く詳細な情報が飛び込むことに感銘を受けられた神戸の松蔭女 子中学・高校の芦塚英子先生は、学校の講話でこの話を取り上げた。生徒は、神戸 の私達もお返しをしたいと、AMDAに募金を送った。AMDA活躍の情報は近隣の男子校に も入り、6月には8校が合同で、神戸・高校生ボランティア連絡会議を結成、街頭 募金も行なった。これは8月にかけて何度も報道され、‘学校の枠越えスクラム’ なる好意的な表現で社会に認知された。

■広域の情報交換とインターネット

 この思いがけない展開に興味を持った私は、松蔭の芦塚先生らにお願いし、8月 のある日、募金をした中学生や高校生ボランティアに話しを聞く機会を得た。イン ターネット上でどんな情報交換が起こっているかを説明すると、中学生はWWW上 の被災地地図に興味を示し、高校生はWWWでの情報提供で自分達のバザーの宣伝 を発想した。しかしなぜ、こんな交流まで起こったのだろうか?

 大震災後の学校の避難所経験は、学校の管理的側面を自然に壊し、制服も一時期 なくなった。不登校の生徒達も皆出てきた。地域社会と学校の垣根も取り払われ、 様々な人々とのボランタリーな新しい出会いがあった。大震災はこれを社会の共通 認識の一つとした(東京新聞、1995年8月21日、第34回教育科学研究会全国大会報告、 「震災と学校・地域」)。

 災害救援は、広域の文化的交流を要求する。従ってそこでは、インターネットの 技術と文化も、そういう日常経験を持つボランタリーな人々の存在により威力を自 然に発揮し、生徒も学校の枠を越えて自然に広域に連帯した。このような動向は社 会の文化状況や、社会とインターネットの関係の反映である以上、コントロールな ど出来ず、ただ単にインターネットの特性(すなわち自由で平等なコミュニケーシ ョンの可能性)を示唆しているに過ぎない。しかしこれは、従来の学校の状況とは かけ離れているように見える。問題はこれをどう考え、どう生かすかということで ある。

 社会の既存の階層的意志決定機構や教育システムと、インターネットのフラット な特性とを同時に生かすには、人間社会の繋がり方に、流動的な重複を許すような 新しい次元の座標軸が必要になるように思われる。この「自由度」がどこまで社会 に支持され、好まれる状況となるかは、まだ誰にも判らない。教師の側にこの事態 に対処する文化が育っていなければ、インターネットも結局学校では活用出来ない かもしれない。しかし子どもたちは、インターネットが当り前の技術であるという ことを知りながら、育っていく。

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 最後に、今後の社会の発展とインターネットとの関係を考える上で、学校や地域 社会を巡る2つの変化の可能性を指摘する。

■100校プロジェクトとインターネット

 平成7年度から全国で100の公立学校にインターネットが整備され、利用に関 する実験や経験交流が始まった。社会の新しい技術は従来も、放送教育に始まり、 LL教室、パソコンなど、登場する度に学校に取り入れられてきた。インターネッ トも、結果的には学校に大きな変化をもたらさないかもしれない。

 しかし子ども社会の必需品であるテレビゲームがインターネットのWWWと似ている という事実は、働きかければ確実に反応が得られる世界を、全員が落ちこぼれなく 楽しめる教材が得られた事を意味するのではないか。これによってコミュニケー ションを生かす機運や、生徒の様々な自信回復を期待したいと思う。

■地域防災計画のインターネット利用と学校

 インターネット(パソコン通信)の利用は、通産省が各都道府県に整備する災害 情報システムにも盛り込まれる(報道によれば多くの省庁で関係防災システムの情 報化が進展する)。兵庫県のモデル都市では、平常時にも利用出来る災害情報シス テムが平成8年度中にも完成する。これは行政系インターネットの整備と同時に、 避難場所の公立小中高校や地域社会の拠点等でのインターネット利用そのものであ る。

 平常時にこれをどこまで開放的に市民や社会各層が活用できるかという点で、こ のシステムが生きるかどうかが決まるであろう。これは、社会の中に知的好奇心が 旺盛で自主的に情報を出す人々をどこまで発掘するか、またそれによって結果的に 形成される「コミュニケーションのある民主社会」がどうあるかへの期待の大きさに 依存する。その方向に普及を掛ける役割は、まず行政、学校が担い、利用の先駆者 である大学や大企業、さらにマスコミの協力も期待されている。

 1995年内には米国カリフォルニア洲の12,000校がインターネットで結ばれ、西 暦2000年には全米に広がる。日本では神戸市が、その様な先駆的役割を果たす予定 である。

 今回の阪神大震災を契機として、日本中の誰の目にも、行政や学校の可能性と限 界が見えた。その結果一般市民も、そして子ども達も、すでにこういう「コミュニ ケーションのある社会」を欲し始めているように思われる。

 市民にも、子ども達にも愛されるネットワークを、作っていきたいと思う。


参考文献

1)今井賢一、金子郁容著「ネットワーク組織論」(岩波、1988年)

2)奥乃博「阪神大震災でインターネットの果たした役割と残された問題点」、日 本インターネット協会ニュース, 第2巻, 第1号所収

3)「災害時における情報通信のあり方に関する研究」(兵庫ニューメディア推進 協議会、平成7年5月)

4)「世界」臨時増刊、「技術爆発と地球社会」(岩波、1995年1月)


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