DISASTER MEDICINE

Application for the Immediate Management and Triage of Civilian and Military Disaster Victims

Burcle FM Jr, Sanner PH and Wolcott BW

翻訳・青野 允、谷 壮吉、森 秀麿、中村紘一郎

(情報開発研究所、東京、1985)


Worcester郡を襲った竜巻から得た教訓

John W. Raker, M.D.

目 次

1)調査方法と視点
2)被災地
3)Worcester郡の病院
4)竜巻の襲来
5)通信手段
6)病院の対応
7)外傷の種類
8)外科的処置とその結果
9)情動反応
10)結論


 1953年 6月 9日、マサチューセッツ州中部にあるWorcester郡を竜巻が通過した。この竜巻は最初は外側にあるPetershamという町に発生し、時速40マイル(約65km)で、やはり田舎にあるBarreとRu11andの町を破壊して進み、Worcester市の北側の狭い部分を通って郊外にあるHo1denに進んだ。ここで竜巻は二つの小さな竜巻に分裂した。竜巻は最初、田舎で発生して郊外そして市街地に達し、また同じ経路をとって引き返し、しかもWorcesterの人口の多い地方を通過したために、National Research Counci1は竜巻災害として調査に価すると決定した。それは、ただ単に自然災害としてではなく、軍事災害としても重要な認識が得られると判断したからである。

 これによりマサチューセッツ総合病院はWorcester地方に4人からなるチームを送り、災害時の医療調査を行った。チームは行政官、公衆衛生専門家、外科医、内科医の4人であった。

1)調査方法と視点

 ここでこのチームが用いた調査方法と視点に注意しなければならない。彼らは災害が発生してから6週間後に現地にはいった。すなわち、そのころにはすでに被災者は恐怖から逃れ、その経験について話したいという欲望を十分満足させるに必要な時間をもっていた。彼らはすでに自分たちの行動と他人に話す内容のパターンを確立させ、災害直後に気づいたであろう矛盾についても、そのうちのいくつかについてはすでに意図的に消去していたと思われる。したがって、このような場合には、得られた情報に関して厳しく吟味しなければならない。インタビューによって得られた証拠は、ほかのインタビューや情報によってチェックする。

 Wi1ford Trotterは、第二次世界大戦当時のロンドン空襲についての記述のなかで、調査の方法について、次のようにふれている。パニック状態のなかで達した結論について調査する場合には、誤った行動、判断、無学の報い、役所の暗愚などというものに関してでなく、もっと微妙で特徴的なこと、正確な判断力が失われた人間によってくだされた判断について調査しなければならない。まちがった判断に対する罪を分散(そんな罪などなし)するなどということにも関与すべきでないし、自然現象とその結果について論ずるべきである。面子をつぶすなどということは考えずに、容赦なく(正確に)パニックによってどういうところが影響を受けてそのような判断をくだすに至ったかを調べるのである。

 ここに述べたコメントは客観的なものであって、Worcester市に対しても医師や市民に対しても批判したものではない。

2)被災地

 Worcester市の人口最密集地域が被災した。数か所の大きな集合住宅、多くの中流家庭の住宅、Ho1den地区も同様に中流住宅地とさらにそれより上流の住宅地もいくつか被害をこうむった。Shrewsbury地区もだいたい同じような状態であった。

3)Worcester郡の病院

 被災地から約2マイル(3.2km)のところに市立の大きなWorcester病院がある。ここは通常、警察の救急車が病人を運び込む病院で、救急業務に慣れており、その設備も十分である。南側にはやや小さなSt.Vincent病院があるが、救急の設備はほとんどない。東側にはMemoria1病院があり、この病院は立派な教育施設とスタッフとを有しているが、救急設備は比較的小さい。北側には被災地から約1/4マイル(400m)のところにHahneman病院があり、約100床を有し、たまに発生する救急時に備えて小さなスペースを確保している。30床をもつHo1den地区病院は、当時拡張工事の真っ最中で、新病棟は壁と床はできあがっていたが、まだ照明設備が整っていなかった。Shrewsburyには病院はなく、この地区の患者は通常、直接Memoria1病院に行き、今回もそうであった。Linco1n通り、Bumcost通りの患者はHahneman病院へ、Ho1den地区はHo1den地区病院に行っていた。

4)竜巻の襲来

 災害は午後5時15分にWorcester郡を襲った。竜巻は午後4時30分ごろPetershamで発生し、Shrewsburyの東側で午後5時35分ごろ消失した。

 効果的な警告は何一つなかった。何度か警告が行われたが、どれも効果的ではなかった。たとえば、Barreの警察署長は2,3軒の家が破壊されたのを見てHo1denにある州警察署を呼び出し、そこからパトカーが調査に出発したが、竜巻が警察署のすぐ近くを通過した直後、電源がすべて破壊されてしまった。

 そのすぐあとに通りがかりの車の人がHo1denの住宅地の近くに大勢の負傷者がいると報告し、再びパトカーが現地へ行き、その惨状を無線で知らせてきた。やっとそれから本当の通報が行われた。Ho1den警察からボストンの州警察、そこからWorcesterの民間防衛本部(Civil Defence headquarter)へ報告が行われた。そのときにはすでに竜巻は、Shrewsburyを通過していた。

 Hahneman病院の医師、看護婦たちは、ちょうど夕食の最中であった。誰かが、頭部に大きな裂傷を負いながら、入院病棟の前の庭から走ってくる患者を見つけた。このような緊急時に備えてあった緊急放送で市の病院スタッフが呼び出しを受け、大多数の医師たちも病院に連絡してきた。

 災害現場では、市民たちが自力かまたは互いに助けあって石くずの間から被災者を引っ張りだしていた。荒廃はその極に達していた。この竜巻の接地点での幅は、200ヤード(約180m)から広いところでおそらく1/4マイル(約400m)あるし)はそれ以上であった。いちばん被害の激しい部分では、地上のほとんどの建物が破壊されてしまった。死亡した市民の大部分はこの最も荒廃の激しいところにいた。大部分の負傷者は荘然と動いていた。骨折した足のまま、ある者は走り、ある者は歩いていた。また、自分が大きな裂創から出血していながらも、他人に手を貸している者もいた。

 誰もが他人を助けたいという大きな意志をもっていた。周囲の地域から被災地に向かって援助が洪水のように押し寄せてきた。数千人が走って駆けつけ、がれきによじ登り、応急手当ての考えもなく被災者を引っ張りだし、まとめて手近の車にのせた。重傷者をはしごかドアにのせてがれきの上を運び、トラック、ステーションワゴンまたは運搬車で搬送した。午後7時になると被災地にはもう負傷者は見当たらなかった。ただそのとき、ブロックが道路に積み重ねてあり、負傷者の救出の交通整理に用いられていたことがわかった。

 病院に到着した患者のうちで応急手当てを受けたあとに運ばれた者は皆無であった(駆血帯、包帯、副子など何もなかった)。

 かなり多数の患者がボランティアの車で運ばれたが、“早く病院に到着すればするほど助かるチャンスが高い、と運搬している人は考えているようだった”とある者は言っていた。被災地の人々の交通整理に対する熱意は強く、警察で訓練を受けたかどうかはわからないが、とにかくコントロールしたがっていた。みなが被災地にはいりたがるのが大間題で、みなが各自の車でできるだけ被災地に近いところに駐車するので、まもなくものすごい混雑となってしまった。午後6時30分ごろには警察官とボランティアが道路に立って被災地から市の中心地を通ってWorcester市立病院まで一方通行の路をあけた。この道路を通って負傷者はボランティアの車やトラックにのせられて、時速40〜60マイル(65〜95km)で汽車の線路と平行して警笛を鳴らしながら市立病院へ急いだ。

 現場に自発的に急行した医師たちのうちで1人だけが、受傷後2時間後のショック患者を1人みたと言っている。これに反して重症で病院に運ばれてきた患者の大多数は、外傷性ショックであった。

5)通信手段

 竜巻の襲来とほとんど同時に、通信手段としての電話回線は不通となった。少数しかない回線が不通になると、多数の電話が交換台へ殺到し、たいへんな混雑を招き。メッセージの送信・受信は不可能となる。結局はこのような緊急事態に備えて各病院がもっていた救急車に取りつけてある移動電話(mobile phone)がいちばん役に立った。したがって将来の防災計画のなかにはぜひこれをいれるべきである。しかし想像できるように、この移動電話もこの地方で回線が統一されていなかったので、完全なものではなかった。

 Holden地区の州警察署は、Worcester西部およびShrewsburyも含めて全地域の州警察と交信可能であった。しかし州警察とWorcesterの地方警察との間には直通回線はなく、電話か無線によらねばならず、この場合もボストンを中継してWorcesterと連絡する。したがって実際にはこの回線は使用できなかったわけである。Shrewsburyの町警察は数台のパトカーを保有しており、州警察からの通信は傍受できたが、こちらからの通信は不可能であった。したがってShrewsburyはほとんど孤立状態であった。Worcesterは残った電話回線と無線によってボストンや他の地域との交信は可能であった。

6)病院の対応

 災害犠牲者が病院に押し寄せるまえに、あらかじめ立てた計画どおりに準備する時間はほとんどなかった。Memorial病院ではサイレン以外には知らせはなく、Hahneman病院とHo1den地区病院では患者が到着して、はじめてそれとわかった。市立病院は患者が到着する約20分まえに警察から電話連絡がはいった。St.Vincent病院では1時間以上もまえに連絡があった。

 市立病院には2ぺ一ジにわたる災害時のプランがあった。管理責任者はそれを読んでいたが、病院内のほかの人は誰もこれについて知らなかったらしい。実際患者がはいってきてからはこのプランの重要な部分が無視されていた。いくつかの病院では第二次世界大戦中につくられた計画に基づいて対応したところがあった。Memorial病院では戦争当時トリアージを担当した士官がやってきた。市立病 院では25人の医師が救急病棟の入口で同時にトリアージに当たった。Hahneman病院では有効なトリアージは行われなかった。この病院は四つの入口があり、ほとんど同時にこの四つの入口へ患者が殺到した。どの入口にも規制はなく、かろうじて1か所で2時間程度患者のスクリーニングが行われた。約30分後には病院全体が車であふれ、廊下や芝生にまで病人があふれてこれ以上の収谷は不可能になった。そこでやっと次の病院に運ばれた。

 Memorial病院でも同じような状態であった。高い石の壁が病院全体を囲んでおり、入口は1か所しかなく、ここは車が1台通れるだけの大きさであった。救急時に使われる特殊病棟には入口が二つ、両側についていて、被災者たちは同時に両方からはいってしまったが、一方の入口のみで長時間にわたり、患者のスクリーニングが行われていた。

 最高責任者のDr.Osgoodは、負傷者の処置をしている場所がまるで“雪ダルマ”のようにみるみる膨れ上がったと表現している。まず、少数の患者がくると最初の病室が使われる。次の患者で次の部屋が満床になるというふうに、入口に近い部屋から次々に廊下を通じて遠いほうに運ばれ、っいに病院全体がいっぱいになった。

 Hahneman病院とMemorial病院は、負傷者の名前やその他の事項の確認をするために、家族、友人など誰でも一緒に病院内へいれさせた。そしてボランティア、供血者、親戚を捜す人々で膨れ上がった。

 Ho1den地区病院は約200人の負傷者を収容した。この病院は新病棟新築のためにこの地方から援助を得ているために、その見返りとして住民に貢献すべきであると主任医師が考えた。

 そして来院したすべての患者の面倒をみるべきであると考え、事実、彼は何度も外へ出てほかの病院へ行こうとする患者を引き止めた。彼はこう述べている。“来院した患者を追い返すと、あとで厳しく非難されると思った”、“たとえ屋根の上に収容してまでも、来院するすべての犠牲者の手当てはしなければならない”と。そして、本当にそれくらいのことをした。彼らはまだ照明も、水道もベッドもない新しい病室に患者を収容し、マツトレスを床に拡げてベッドがわりにした。1〜2時間後には暗くなり、暗闇のなかを患者を捜し、傷を求めてその場で処置を行った。医師は患者の見落としがないように場所的な順番によって(重症度によってではなく)、ほとんどはうような格好で看護婦のライトのもとで傷の処置をした。担架を木びき台の上にのせて小さな部屋に3台の手術台をつくった。しかし、滅菌水が不足しており、わずかの時間で滅菌水と滅菌材料が底をついた。水は水道からの比較的“きれいな”水と器械の洗浄に使った“きたない水”とに分け、手術の合間に手術器具は水道水で洗浄した。清潔度を保つほかの方法は選択しなかった。

 合計94人が死亡し、そのうち88人が即死であつた。最初の48時間のうち490人が17の病院に来院した。Memorial病院がいちばん多くて168人、Hahneman病院とHolden地区病院がそれぞれ55人ずつ、市立病院が103人、St. Vincent病院は27人であつた。軽症で治療を受けた者は推定で少なくとも900人、全体で1,500人が負傷したことになる。したがって、この竜巻は限局した災害とみることができる。もし、これ以上の災害が発生していたら、医療施設は患者の手当てをすることは不可能であったにちがいない。

7)外傷の種類

 重症患者の大多数は頭部外傷で、88人の死亡者の大部分が頭部外傷、すなわち空中に飛ばされたか、飛んできたものに当たったものである。竜巻の力は強く、そこに発生する真空現象によって数人の頭蓋骨が割れて小さな亀裂となり、そこから脳の軟部組織が吸い出されてしまうほどである。生存者のなかにも77人の頭蓋骨骨折、頭部外傷が含まれていた。その他180人が主として長管骨骨折、28人が眼外傷、9人が腎挫傷、6人が脾破裂、5人が熱傷を負い、147人が大きな裂創を負っていた。熱傷患者が少なかった理由は、従業員がすばやく電源スイッチを切ったためであり、このため感電したものは1人もいなかった。ガス管からのガス洩れによる爆発もなかつた。

 167単位(1単位は500 ml)の血液、101単位の血漿、54単位の血漿増量剤が最初の24時間以内に使用され、当時、66単位の血液、126単位の血漿があり、外部から159単位の血液と1,014単位の血漿が届けられた。使用された血液、血漿量(患者1人当たり血液1単位以下または血漿も1単位以下)はおそらく負傷者の重症度に比して不十分であったと思われる。血漿増量剤は、比較的少量しかなかったが、おそらく医師たちが使用した経験がなかったためであろう、あまり用いられなかった。血液、血漿は十分にあり、もし本当に必要ならばさらに供給できた。

 最初の24時間に1,120単位の採血が行われた。病院中の手のあいている職員が全員採血にかりだされ、すべての滅菌びん、採血用具、針などがなくなってしまった。そして、ついに遠方からわざわざきた供血者を帰すはめになった。

 しかし、このようにして採血された血液は翌日になると血液型もあやふやになり、また、十分な冷蔵庫もなかったために保存状態が不良であり、実際には被災者のためには1単位も使用されずに、唯一の利用方法であるγグロブリンの製造に使用された。

8)外科的処置とその結果

 竜巷が去ってから24時間以内に、14例の脳外科手術が行われた。Worcesterには2人の脳外科医がいて、ともに軍医の経験があった。

 まず1人が、Hahneman病院に重症脳外傷患者がいるからと呼ばれたが、すぐそのあとでさらに数人が入院する予定であると聞いて、彼は、“これから市立病院に向かう。すべての脳外科外傷患者は市立病院に送れ”と指示し、助手をHahneman病院に行かせて、すべての脳外傷患者にタッグをつけ、適切な方法で市立病院に搬送させるようにした。助手は、夜間はMemoria1病院で脳外科患者の診療に従事した。

 これは非常にスムースにかつ効果的に行われた。ただ、これは上部組織からの計画によるものでなく、脳外科医たち自身のアイデアによるものであった。市立病院では1人の脳外科専門医と助手たちが最初の24時間で11例の大手術をこなし、もう1人の専門医は同じ時間にMemoria1病院で3例の手術を行った。すべての手術は術後菌血症を起こさないように十分な注意のもとに行われた。というのも、この脳外科医たちは、Worcesterからニューヨークに通ずる高速道路での交通事故患者をしばしば取り扱っているためで、非常に馴れた仕事ぶりであった。病院到着時にほとんど死亡の状態であった1人の患者を除いて全員が生存した。術後菌血症は1人も発生せず、実にすばらしい記録であった。

 整形外科手術は最初の夜に15例の開放骨折、特に長管骨について行われた。手術方法は術者によってまちまちで、転帰についても同様である。ほかに30例の長管骨の固定が、ほとんど同時に行われた。1,500例の外傷のうちの大部分が広範囲または小範囲の裂創であり、23例を除いてデブリドマン(汚染した傷縁を鋭的に切除すること)と創の一次縫合を受けた。このうちの何人かはさきに述べたHo1den病院で処置を受けた者が含まれている。

 この竜巻は竜巻としては明らかに汚いものである。それは二つの湖の上を通過して水とほこりを吸いあげてきており、実際、すべての創傷には泥が詰まっていた。この竜巻の力はものすごく、たとえば自動車の外側には飛来物が入墨のようにしみこみ、これを除去するのに強力な研磨機を必要とした。傷も同様に汚染されていた。もちろん大部分の症例で麻酔を必要とし、多くの手術は局所麻酔を必要とした。その理由の一つには十分なデブリドマンが行われていなかったことがあげられる。たとえば、市立病院では治療を待つ患者の列が長くなって食堂に誘導した。小さな傷を負った患者はまず、洗浄を受け、破傷風の予防注射をされ、ペニシリンを打たれた。局所麻酔をされてから外科医が診療して、消毒して、一次縫合を受けた。だいたいこれが、小さい外傷患者の取り扱い方法であった。

 市立病院、Memorial 病院で行われた手術数は、通常の忙しい日とほぼ同数であったので、それだけの麻酔症例をこなすことができた。

 St.Vincent病院では27人の患者を受けたが、1例だけが手術室を使う大きな手術で、ほかはすべて局所麻酔で、救急室で行った。少数の患者しかこなかった理由は、途中で市の救急車が動けなくなったからで、そうでなければSt.Vincent病院はこの4,5倍の患者をこなすことができたと考えられる。

 大部分の病院では破傷風抗毒素を全員に投与し、ある者はトキソイドをも投与された。それによるアナフィラキシーはなかったが、約10日後に軽い血清病が数例に認められた。

 いくつかの症例で再度デブリドマンを必要としたものがあった。また、よく起こった例として、ギプスをはめたまま入院して2,3日後に発熱し、ギプスをはずしてみたところが骨折は整復されておらず、汚物がついた開放骨折が発見されたというような症例が報告されている。大きな裂創でまずデブリドマンを行い次いで二次縫合を受けた症例は123例のみである。これらの処置は軍隊時代に多くの経験を積んだ4,5人の外科医によって行われた。

 クロストリジウム(破傷風菌)による筋炎は3例にのみ発生し、死亡例はない。1例において軟部組織にガス発生をみたが、クロストリジウム(ガス壊疽菌)は分離されなかった。他の種類の菌血症についてはかなりまちまちである。ある外科医によれば、実際にはないが、あってもせいぜい10例に1例と言い、ほかの報告では、同じ病院の外科医でその後引き統き患者をみていて創傷治癒の悪いものは皆無であるという。さらにある家庭医はWorcester病院で縫合を受けた患者の大部分が化膿していたと言っている。事実、災害から6,7週間たった7月27日、その地方のWorcester看護連盟はいまだに600例の化膿した外傷の手当てを続行していた。

 一次縫合を行わずに、デブリドマンをしてから二次縫合を行っていれば、術後化膿の頻度ははるかに低下していたにちがいない。

9)情動反応

 被災者はまったく無欲状態で反応も反射的であった。子供たちでさえ、傷を受けた者は笑いもせず、遊びもせず、何もせず、完全に静かであった。

 熱狂的に家族を捜し求める人々は、まったく混乱しており、災害のあった日、それから1週問はヒステリー患者としての取り扱いを余儀なくされた者も数人いた。

 被災した低所得者層の約100人の子供たちはサマーキャンプ場に隔離されたが、1〜2日の間に、熟練したキャンプ場の主任が手をやくようになった。それは子供たちが悪夢にうなされたり夜尿をするようになり、夜になると叫びながら走り回り、空に雲がでると“また竜巻雲が来た”と叫びだしたからである。

 これより少し上流の階級の人々の一群で、破壊を免れた隣人たちのところに収容された人々について、実験的に母親とその子供たちを集めて話し合いや遊びをさせた。そうすると1〜2時間は子供たちは母親と一緒にいられるからである。実によく彼らは話し合い、約1か月の間に、はじめは竜巻のことであった会話の趣旨が、徐々に通常のものにかわっていった。このグループでは実際、精神的に異常を示した者はなかった。

 被災地に住んでいたWorcester州立病院のある医師は、自分の言動を客観的に観察できたので彼の反応は非常に興味深かった。彼いわく、“私は被災地にはいって、自分でも理解できないようなことをした。傷口から出血している子供を見つけたので、アイロンについているコードを持って来て、アイロンを片方につけたままでそれを止血帯として使用した。その子供はアイロンをぶらぶらさせながら歩きまわっていた”と。

 ある病院の責任者は言っていた。“私は自分で考えてもまったく理解できないことをしていた。その一つは、私は処置の終わった患者を病院から帰すことをまったく思いつかなかった。翌朝になるまで病院から1人も帰さなかった。翌朝になってはじめてこのことに気がつき、帰宅させると楽になると思った”と。事実、このような状態が生じていたのである。

10)結論

 以上が、人口20万都市に発生したこの程度の規模の災害時におけるかなり典型的な反応であると思われる。Worcesterの人々のこのときの反応は、おそらく米国のほかの地域の人々のそれと比べてもたいしてかわりがないと思われる。以上のことを念頭において、将釆の防災計画を立案する必要がある。たとえこれが、スケールの大きな軍事災害でパニックに襲われた住民全体の脱出の場合であれ、防災計画は被災地のなかおよびその周囲の住民の熱心な反応に頼るしかないことは明らかである。この反応は二つに分けて考えられる。一つは、少なくともはじめは自分の興味を他人に、さらには集団のそれに一致させようとする精神的な態度と、もう一つは、他人を援助することに自分も積極的に参加しようとする態度である。この自発的反応は自然発生的であり、まったく未熟なものである。したがって、将来計画を立てる場合には、この反応をコントロールし、適切な方向に向けるように考えなければならない。

 もしこの早期反応に対する適切なガイダンスを行えば、一般市民の協力は重要な力になると思われる。

 Worcester郡を襲ったこの竜巻によって、この地方には災害に対する何の計画も統一のとれた中央機構もないことがはっきりした。しかも、この地方全体の利害関係を考えたうえで、行政を司る機関もなかった。このような防災計画も機構もないことが各方面で証明された。

 まず、通信網であるが、被災地と隣接地域間、病院間、病院とほかの政府機関との間に回線はなかった。電話による通信は不適切であることが判明した。警察のパトカーやほかの政府機関の車が被害地での相互通信か可能なラジオを有していた。これがおそらく将来、被災地と周辺地域の通信に用いることのできる適切な方法であろう。種々の場面において病院の近くのパトカーや無線が唯一の通信の方法であった。

 将来の災害に備えて、このような無線設備を完備させて常時使用可能にしておく必要がある。

 自治体中心の機構が欠如していたことは明白であり、災害地からの犠牲者の救出も統制がとれていなかった。それと一般市民による救出の際には、応急手当てが不適当であった。これらの欠点は、一つには救急時に備えて適切な訓練があらかじめされていなかったこと、さらには被災地で集団反応としてあまりにも多くの未経験者が行動したためと考えられる。被災者を一刻も早く救出しようとして素人が急いで行動をした。トリアージも何も行われず、パトカーが救急処置に必要な物品を持ち込んだ地域以外では、医師たちは必要なものも持たずに現場にはいった。このようなことはShrewsburyでも起きた。大多数の死傷者が運び去られてしまってから必要な物品がやっと着いたということが数か所で起きた。交通や運搬にしても、まったく何のコントロールも組織化もなかった。

 市の助役は、課長の1人が具合が悪いので午後2時ごろに帰宅させた。午後4時ごろ竜巻がくる少しまえに、この課長の家の前の大きな木がものすごい突風で倒されてしまったので、彼はこのことを助役に電話で話した。公共課の課長は午後4時には夕食を終えていて、自分の車で現場に向かうことにした。その車は無線がついており、同じ課に所属するすべての車(ブルドーザー、その他)および役所と連絡が可能であった。彼はその車で行き、ちょうど竜巻が通り過ぎてから3分後に到着した。すなわち、まったく理想的な状態であった。ただちにブルドーザーを呼び出したために、交通が混雑して膠着状態になる以前にブルドーザーが来て交通整理ができた。おそらくこのようなことは二度と起こらないであろう。

 他の大部分の地域では、最初に着いた車(キャタピラー、トラック、チェンソーを持った人々などをのせた車を除けば)は、警察のパトカーであった。Ho1den地区では州警察、Worcester,Shrewsburyでは市警察が到着した。これらが本当は統制ができたはずである。もし、救出作業がコントロールされるとすれば、24時間勤務にある者、そのとき近くにいた者、通信手段を有している者、責任者などがこの任に当たるべきであった。

警察官はその権威を与えられているばかりでなく、制服を着用しているのでうってつけである。彼らがもし、中枢部の上司から命令を受けて被災地を封鎖し、犠牲者救出を急がず、適当な医療救護者をすばやく現地に送り込み、そして何らかの方法で医療物資が搬入されたならばよかっただろう。このような方法はおそらく将来の災害時に役立つ方法であろう。このような考えは希望のないものではない。将来のために計画を立てておけば、何かできるものである。災害時に出動した種々の機関の相互の統制はまったくとれていなかった。民間防衛計画は敵の空襲に対して準備したものであって、このような非軍事的災害時に行動を起こすべきかどうかで上層部は優柔不断に陥っていた。アメリカ赤十字は災害医療の即戦力としては期待できない。しかしいったん行動が開始されれば、それは非常に強力な救済機関となる。そしてこれは、竜巻発生48時間後に発揮された。竜巻発生中とそのすぐあとに各機関がそれぞれのなすべき役割を自覚する以前に、かなりの議論や感情のもつれなどがあった。

 災害処理に関係する各機関の長の性格、能力もことの成否に大きな影響を有する。中枢部の長の方針がはっきりしていないと、このようなときには、命令は無視されることもありうる。長たる者がもし組織化の能カに欠けていれば混乱は統き、計画は命令どおり実行されない。Worcesterおよび周辺町村では、各関係機関の代表者が災害時に指揮をとるべきポストにあり、ここから役所に所属する人に命令がだされるようになっていた。したがって、指揮者が役所に常駐しないために各種機関に与える指揮系統が乱れてしまった。

 病院においても、事務系、医療スタッフともに災害に対して無防備であった。

 災害に対する準備と計画の欠如はこのようにまったく明白で、多くの場面で不適切な資材、無経験な人材の使用がみられた。患者の扱いにしても同様で、病院の入口での規制はなく、患者の受け入れ部分で不必要な人間を退出させることもしなかった。被災者が病院にはいってきても、満足なトリアージも、患者の識別もなく、どんな治療が行われたかの記録もなく、実際に、適切なタッグシステムをもっている病院は一つとしてなかった。2,3の病院には災害計画がなく、外部からの資材の供給が断たれた場合の医療資材のストックもなかった。

 医療スタッフの医学的判断も災害の雰囲気に左右され、唯一の例外はさきに述べた2人の脳外科医のとった慎重で計画的な行動と数人の経験豊富な外科医がみせた軟部組織の損傷に対する処置だけであった。この災害が医療スタッフの医学的判断に大きな影響を与えた例としては、大小の裂創に対してデブリドマンのあとすぐに一次縫合をしたことであった。このような処置のあとでの創の化膿率は、デブリドマンのあとでゆっくり創の状態をみて二次縫合した場合と比較すると明らかに高い。細菌の侵入による菌血症、特にクロストリジウム菌炎は非常に少なかったが、これは抗生物質を用いたためであり、テタヌス(破傷風)の発生が1例もなかったのは抗毒素またはトキソイドの使用によるためである。

 負傷者の初期治療の期間中に用いられた血液、血漿の量は多くの外傷の症状からみて驚くほど少ない。不適切な量の輸血のためにどの患者が死亡したかは、証明するのは困難だが、もっと多量の輸血の適応があったように思われる。被災地のある地域全体の医療二一ドを考える立揚にあるべき人々が、医学的処置は全体の患者の登録を行ってからその評価に従って病院に任せる、という提案を行った。これに対して市の病院の医師や管理者のなかには反対する空気もあった。その程度は明らかに好戦的なものから、仕方なく中枢部の推薦としてまあ考えましょう、というものまであった。このような考え方は、ことに当たった医師、管理者の大部分の人々が考えていたことで、将来は計画を立てる際にはこのような中央的な患者登録と治療方針の選択ということも考慮しておかねばならない。

 一つだけはっきりいえることは、このような研究には答えはない、ということである。それは単に答えるべき間題を提起するのみで、非軍事的な自発的協力による計画は、災害によってどこかに破綻を生ずるものだということを認識しておく必要がある。戒厳令をしいて民間病院、民間機関の一部または全部を軍の指揮下におく必要があるかもしれない(Worcesterでは戒厳令はだされず、州兵軍が出動したが、財産を守るだけであった)。しかしどんなに悲惨な状態でも、災害が襲ったあとの数時間は、被災者の救出と医療には民間機関に責任があると思われている。そして、たとえ軍によるコントロールが始まっても、やはりできるだけ援助し働き続けることが期待される。

 どこの地方においても災害時の医療計画に対する努力は、たとえ災害が起こらなくても浪費ではけっしてない。この1953年にWorcester郡で起きた竜巷の残した教訓と経験が将来の役に立てばと願うものである。


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