奈良県立橿原考古学研究所 調査研究部長 松田 真一
大和盆地南部に位置する飛鳥地方には、『日本書記』などに記載がみられる飛鳥時代の宮殿跡や寺院跡のほか、天皇や皇族の陵墓も数多く存在しています。飛鳥はまた古代史上の重要な舞台ともなったほか、飛鳥で華開いた文化は、現在にも繋がる日本文化の淵源ともみなされ、我々日本人の心のふるさとともいわれる所以です。
飛鳥では毎年のように新たな考古学的発見があり、重要遺跡の発掘調査は当時の政治的な動向や、新来の文化受容の姿などをより一層鮮明にさせてくれます。近年では飛鳥寺に近い飛鳥池遺跡で富本銭や金、銀、鋼のほかガラス製品などの工房跡を確認し、飛鳥時代の先端工業技術の実態を明らかにしました。隣接する酒船石遺跡は丘陵斜面に大規模に石垣を築いた要塞状の飛鳥時代の遺跡であることが判明し、『日本書記』にみえる斉明天皇が造営した両槻宮にあてる見解が示されています。また、天文図、四神像、十二支像が描かれた壁画をもつことで注目されたキトラ古墳の発掘調査は、今年になって本格的に開始され、絵画に凝縮された思想的な背景や、終末段階の古墳の具体的様相が明らかにされようとしています。
5世紀後半以降、中国との公式な外交が永らく途絶えていたわが国は、推古朝に至り南朝を統合して中国を統一した隋に使者を送ります。これが『随書』にみえる遣随使の派遣です。先進的な中国の政治制度の導入を図ろうとした姿勢は、その後中国の政権が唐に替わっても継続した遣唐使の派遣に如実にあらわれています。特に天智朝以降わが国では、新たな冠位制度や氏姓制度の再編による官僚秩序の確立、初めての全国規模の戸籍整備の着手など中央集権化を推進し、浄御原令の成立を経てついには大宝律令の完成をみることになります。このように飛鳥時代は政治的秩序の基本となる律令制度が整備され、法による国家統治の始まった時代であったといえるのです。
さて、飛鳥時代の政治の中枢である歴代の宮殿は、推古天皇が豊浦宮を営んで以降、孝徳朝と天智朝に一時飛鳥を離れた時期があったものの、持統天皇が藤原京を造営するまで一貫して飛鳥川に沿った飛鳥の狭小な平野部に所在していました。なかでも飛鳥京跡と総称している宮殿遺跡は、大化改新の舞台となったことで知られる飛鳥板蓋宮跡として今に伝承されていますが、近年の発掘調査によってここにはいくつかの宮殿遺跡が重なって存在していることが明らかになり、出土した木簡や土器などの年代が根拠となって、飛鳥板蓋宮跡など先行する宮殿の上に、斉明の後飛鳥岡本宮と天武の飛鳥浄御原宮が造営されたということがほぼ確実となりました。宮殿中核部は後の大極殿や内裏に継承される形態や構造を備え、周りを囲む外郭には附属する役所の機能を果たした施設が配置されていました。さらに、宮殿と飛鳥川の間には石工技術を駆使した導水施設や、石積された護岸と島、石敷の池などからなる大規模な苑池も確認されています。このような飛鳥時代の宮都の整備は、律令体制確立へ向けての諸施策の動向と密接に関わっていて、先進的な大陸からの影響を多分に受けていたはずです。藤原京造営で一応の完成を迎えるわが国の宮都の発展過程を検証するうえで、飛鳥京跡の構造解明は重要な鍵を握っており、最近の発掘調査の成果が今まさに注目されているところです。