ちゃどう

服部記念病院 堂下 絵美

お互い暇やなぁという友人の軽い誘いに乗り、茶道を習い始めてからもう5年ほどになります。初めは社会生活に必要なマナーが少しでも身につけばと思っていましたが、最近ではその奥の深さにどんどん魅せられてしまっています。
 お茶を飲む習慣は、私たち日本人の生活にすっかりしみこんでいます。たとえば休憩をとるとき「お茶にしよう」といいます。ものごとのはじめにはまず「一服」し、お酒の席もお茶で「あがり」になります。ほかにも「茶飲み友達」や「お茶に呼ばれる」などのたくさんの慣用句が生まれたのもお茶が生活に密着しているからでしょう。
 私が茶道をお薦めするときに言うのが、まず、ストレスが解消されるということです。現代人の生活はとにかく忙しく(私はそうでもないですが)気がつくとイライラしていることもよくあります。静かな茶室での茶の湯のお稽古は日常の自分を見直すきっかけにもなり、落ち着いた精神を取り戻すには最適です(私はまだ取り戻せていませんが)。お稽古の快い緊迫感はかえってストレス解消につながります。
 次の理由として、感性が豊かになるということです。毎日の生活の中で四季の変化を味わえる機会が少なくなっています。茶の湯では四季折々の季節感を大切にし、こまやかな気配りをしますから、お稽古をすることでとかく忘れがちな四季の移り変わりを感じることが出来るようになり豊かな感性が養われます。また、茶の湯では道具を大切にし、茶席の話題にしますから、焼き物、塗り物といった美術品に自然に親しむことができ、知識も広がります。また、掛け軸、茶花、茶室の作りなど、日本の伝統的な文化、歴史にも強くなり、視野を一段と広げることができます。  
 利休が唱え、今でもお茶の根本理念になっているものに「和敬清寂」という言葉があります。「和」というのは、平和の和であり、人と人、人と自然、人と物など、あらゆることのバランスがとれていること、調和していることを意味しています。
 「敬」というのは、文字通り相手を敬うということです。「和敬」の精神とは、人間同士はもちろん、自然界すべてのものに対する思いやり、いたわり、尊敬の念を持つことによって、譲りあう気持ちが生まれ、和が保たれ、穏やかな気持ちでいられるという意味です。
 また「清」は清浄、清潔を意味していて、それは道具が清潔でなくてはならないと同時に、ねたみやおごりのない、澄み切った心であることが大切ということです。
 最後の「寂」とは、茶道の美意識を支える「わび、さび」をさしています。これは禅の思想に基づくもので、非常に意味の深いものです。たとえば、利休の師であった武野紹鴎は、「足りないことに満足し、おごらず、慎み深いこと」をわびといいました。
 このように、茶道とは一服のお茶を飲むことでだれでもが心にもっている「和敬清寂」の精神を呼び起こすことができます。お茶を習うことで、これが表現できるようになれば、ほんとうにすばらしいことではないでしょうか。
 お茶会は形式的で窮屈、というイメージをもっている方が多いと思います。また作法を間違えると笑われるのではないかと、敬遠されている方もよくおられるとおもいます。しかし利休は茶道の極意はとたずねられた時、それはお茶を飲むことだと答えたといいます。このエピソードからもわかるように、お茶会は作法を披露する場ではなく、出席者が和やかな一時を楽しむための場なのです。誘われたらぜひ参加してみてください。
 蛇足ですが、「茶道」は正式には「ちゃどう」と読みます。ご存知でしたか?74へぇ。