会員の広場

追憶奈良空(大和海軍航空隊の想いで)

播金 収

[はじめに]
 今年(平成15年1月)の奈臨技役員会の新年宴会の席上、天理医学技術学校の藤本先生と雑談中に宗教都市天理(当時は丹波市町)に今から50数年前、東洋一の海軍航空基地があり、敗戦直前のあの時代に生命を掛けて国の為に仕事をしていた男女の大集団が居た事を話した所、是非書き残しておいて欲しいと言われ、本稿を起稿しました。
 平和な宗教都市とロケット彈、37o機関砲、艦上戦闘機の爆音、はとても信じられない位アンバランスな光景でした。龍王山の美しい山並みと、三輪山の稜線を見乍ら、50数年前の大和平野の中の出来事を記述してみました。

 [本文]

 大和海軍航空隊(略稱:奈良空)と言う名前の海軍基地が天理、桜井、三輪、田原本、川西、平野、三宅の各町村の広域に亘って奈良県に実在したのです。
 滑走路の長さ3000米は当時としては珍しく、東洋一のスケールを持つ飛行場でした。大和の季節風に合せたこの滑走路は東南端が三輪の初瀬川の右岸に始まり西北端の終末点が二階堂でした。
 離陸した飛行機は矢田丘陵を足元に生駒山を目指して上昇し、そこからそれぞれの目的地に向った方角に飛び去るのが常でした。然し何故海の無い大和に海軍航空隊が?
 戦況我に利非ず米軍は既に硫黄島まで進攻し、沖縄本島も本土決戦を視野に入れ、陸軍は大本営を浅間山麓の碓氷峠に設置し、妙義、赤城、榛名の山々に囲まれた此の地域を本土最終決戦場として考えていたようです。九十九里浜や湘南海岸に上陸した米軍が、主都圏及び関東平野を制圧した後、最終的な決戦場として複雑な地形を有する此の地を選んだようでした。
 これに反して海軍は、敵米軍の海軍や海兵隊が上陸してくるのは紀州の田辺湾であると想定していたのです。事実戰後の米占領軍は関西地区の進駐に際し、此の紀州田辺湾から上陸を始めたのです。
 京阪神の大都会に近く紀伊半島の山岳地帯と深い十津川渓谷を持つ此の地区を西の上陸地点と考えていたのです。神武天皇の東征説の中にも此のコースが利用された事は周知の事実であり、熊野川を北上し十津川渓谷、吉野谷を経て高取、明日香に出るコースは仲々進撃し難い山岳地帯であり、一旦平野に出るとそこはもう数十粁先に、関西の大都会が連り並ぶ絶好の地域であり米海軍は田辺湾に上陸集結した後、海兵隊を以って十津川渓谷を北上し、京阪神直撃の計画を持っていたようです。山岳地帯の始めて切れる所が奈良盆地であり、日米の海軍同志が同じ作戦計画を持ったとしても不思議ではなかったようです。
 日本海軍は若し万一陸軍が失敗しても山岳戰に有利な奈良盆地東端の比較的工事の進め易い龍王山を中心とした山岳戰を計画し、かの昔郡山城主の柳沢出羽守の出城の十市城が山岳城として築城された故事に乗っ取り、陸軍同様海軍軍令部を天理東部の山岳地帯に設営し、天皇を奉載して日本国発祥の地大和で、本土決戦を決行しようと計画したのです。
 神武天皇が大和橿原に於て日本発祥の歴史を開いた同じ大和で、昭和天皇を担いだ軍部が宗教都市天理を舞台に、日本国崩壊の大スペクタルの演出を計画し海軍がその準備をしていた様です。既に陸軍は大阪府八尾近郊に航空基地(現八尾空港)を持っており、本土決戦の場として海軍は大和に基地を創る事にした様です。
 昭和19年7月中等学徒動員令が発令され、母校畝傍中学(現畝傍高校以下畝中と略す)は、三年生以上を動員学徒として三菱航空機名古屋発動機工場え送っていたのでした。大学、高専等の学徒動員令は前年の昭和18年10月に発令されており、殆どの学徒はそれぞれ陸海軍部隊の見習士官として軍務に精していたのです。
 特に特別攻撃隊専任の飛行將校が最も多く、海軍は鹿屋、陸軍は知覧と九州南端の大隅、薩摩の両半島に基地を置いていたのです。
 旧中等学校1、2年生のみが在学中であったが、それも終りを告げ男子たるもの13才以上の者は、全員何等かの形で軍務に服さざるを得なくなったのでした。
 10月に入るとサイパン基地が整備され、グアム島やテニヤン島からのB29爆撃機の大編隊が本土空襲に参画して来たのです。豊橋、名古屋等の航空機製造工場を爆撃した後、編隊は伊勢湾上空を南下し、南部奈良県の山岳地帯を越え、尾鷲付近から熊野灘へ脱去して行く状況でした。
 昭和19年12月13日の名古屋空襲で畝中から7名の犠牲者が出たのです。五年生2名、三年生5名の死亡者でした。白木の箱に納った先輩7名の中には、毎朝自宅の前を通って通学していた小学生時代からの顔見知りの先輩の1人も含まれていたのでした。
 明けて昭和20年1月3日、正月中であったが遂に低学年1、2年生にも動員令が下ったのです。行先は奈良空、先述した大和海軍航空隊でした。我々の作業は滑走路の基礎工事の部分補強で、平坦に地馴らしされた滑走路予定コースの上を70pの高さ迄30cm四方に角切りされた花崗岩を積み上げ、その上を又ローラーを走らせ平坦にした上、30cmの厚さにコンクリートとアスファルトを以て舗装することでした。ローラーの運転以外は全て用手法であったが、手押車や一輪車を使っての作業自体はそれ程酷くなく、あまり不満は聞かれませんでした。作業監督員の乙種予科練の上飛曹に練習機でも良いから乗せてくれとか、実際の戰闘飛行をして見せてくれとか、色々と注文を付けたが結局乗せる訳には不可んが、実際に操縦席に座らせてくれて、操縦桿を握らせてくれたり、スロットルのペダルを踏ませてくれたりしたので、飛行機操縦の基本的なことは理解出来たようでした。戦闘飛行では急降下爆撃、旋回飛行の横転、逆転、宙返り等を実際にやって見せてくれました。未だ未だ余裕のある長閑な動員内容だった様でした。
 飛行場へ行かない日には、飛鳥村の奥の稲渕峠や高取山で森林伐採をやったり、炭焼き用の原木を担いで学校へ持って返ったり、園芸工作担当の教官が顔をすすで真黒にし乍ら製炭作業をやっており、「可哀想にお前らがこんな事せんでもええんや。お前ら勉強するつもりで畝中に来たんやろ」、優しいその一言が今でも思い出され、暖かい生徒思いの教官の言動に頭が下がる思いがします。確か大工の頭領上りの人だったと記憶しています。炭焼き叔父さんスタイルの優しい教官でしたが名古屋空爆で爆死した3年生5名の担任教官でもあったと記憶していますが、その件に関しては我々学生も教職員一同も何かを感じた事は事実ですが、深い詮議はせず任舞だったのです。
飛行場の作業は続きました。硫黄島は既に落ち沖縄攻防戰たけなわの項だったでしょうか、敗色既に濃く連合艦隊は潰滅、本土決戦の準備が焦眉の急を告げていました。僅かに14機の零戰と6機の一式陸攻が我々の頼みの軍用機でした。これらの海軍機を標的に連日夜明と共にグラマンF6Fヘルキャットや、ノ―スアメリカンP51ムスタング等の米戦闘機が終日来襲し、ロケット弾攻撃や機銃掃射を反復して来たのです。恐怖感を感じたのは最初の一回丈で、回を重ねる毎に余裕が出来、掩体壕の中や誘導路脇の溝の中に隠れて、パイロットの顔を見る事も出来、不思議と落ち着いてくるのに驚きました。中にはグリーンボーイなんて名付けられた緑色のマフラーを付け風防を全開にして操縦席に仁王立ちしてなびくマフラーを見せつける奴や、段々と顔見知り?になってくるような錯覚も感じるようになって来ました。
 バリッ、バリッ、バリッ、と機関砲の銃撃音、ピュン、ピュン、ピュンと土煙を上げ乍ら目前を走り抜け、パシッ、パシッ、パシッ、とコンクリートの壕壁に彈ね返る銃彈、数秒後にゴオ〜と言う嵐の如き大気の擦過音と共に、ビュイーンと言う特異的なエンジンを止めた金属製プロペラの回転音を轟かせ、超低空で頭上を通過する米軍機、それは正に巨大な立体音響映像(シネラマ)の世界でした。50年以上経った今でもあの一瞬の緊張感と興奮感が懐かしく思い出されます。
 祖国の危機に身を捧げる使命感に支えられた誇りと幸福感が15才の少年の生命と共に燃えた青春の日の感慨は終世忘れる事はないでしょう。尊い犠牲の上に得た平和なのに、それがこんな状況、環境で良いのでしょうか?弾丸の下をくぐった人間が段々と減って来る現在、口先丈の戰争反対、平和だ、平和だ、と言い乍らアフガニスタン、パキスタン、イラク、イラン問題等そして、生きる目的意識を持てない若者達、受験戰争、進学塾、偏差値オンリーの母親や教師。有名大学、有名企業、エリート官僚しか考えられない連中、落ちこぼれ組の行く先は前途の闇のみ。前途の見えない現実の諸問題等同様の疑問が脳裏にあふれるのです。
 空襲で校舎を焼かれ東京の品川を追われた海軍経理学校が、神戸の垂水に移転し、そこで又空襲にやられ、鉄筋コンクリート三階建の畝中校舎を利用するため橿原に移転して来たのです。7つボタンに短劒の海軍将校スタイルの学生は街の歓迎を受けましたが、その為に我々は馴れ親んだ校舎を追われ、同じ町の比較的新しい小学校の校舎に移転したのです。昭和20年3月14日の大阪大空襲の翌日のことでした。
 我々の居た校舎の搭屋には16葉の菊花の御紋章が埋め込まれ。屋上には電波探知機と高射機関砲が据え付けられ、それに防空監視所迄が付けられました。も早や何物でもない海軍施設と化した校舎は、軍施設として米軍機の攻撃対象の標的となって行くのですがその時は未だそんな事になろうとは夢にも想像出来ない我々でした。
 3月10日に東京、3月14日に大阪が本格的な夜間空襲を焼夷弾攻撃で受け、一夜にして灰燼に帰しました。通学の電車に乗った途端今迄臭いだ事もない激しい焦臭に襲われました。それはテルミットエレクトロン焼夷弾による焼焦げた衣類や小さな家財道具等を持った避難民の大群衆でした。それらの乗客等の姿を見て始めて事の重大さを知りました。大阪は一夜にして廃墟と化していたのです。勿論親父の勤めていた四ツ橋筋の会社も、姉の勤めていた梅田新道の会社も外壁丈を残して内部はすっかり焼け落ちました。
 其の後大阪は6月1日、6月3日、6月5日、6月7日と隔日に4日間連続の晝間爆撃に依り梅田新道や淀屋橋、堺筋や御堂筋、日本橋や松屋町筋等の大型鉄筋コンクリートのビルやデパート、或は路面電車の殆どが爆破されたのです。私の好きだったハンブルグの市電を模して作られた800型や900型の流線型の市電の破壊された姿があまりにも傷ましく、戎橋や千日前の変り果てた姿に、在りし日の戰前の賑わいを憶い出し、もう一度あの日に戻り度いと願ったものでした。
 大丸百貨店と十合百貨店の間に在る地下鉄心斎橋駅え降りるスロープと階段の出口通路の屋根に、どこから飛んで来たのか判らないブリキやトタンの破片が屋根に引懸ったままガラン、ガランと風にゆられて佗びしい音を立てていたのですがあまりにも物悲しく哀れなものでした。そしてあの心斎橋の雑踏をもう一度見たいと思ったものでした。今でもあの階段の上で暫し佗み、去りし日の悲しみと現在の繁栄の姿を想い返している私です。
 焦土と化した大阪は、その後遂に8月14日の最後の空襲で敗戦を迎えることになるのです。それ以前に何故か沖縄戦終了の6月25日に海軍航空隊が動員解除となり前述した小学校の木造校舎で授業を受ける事になりました。海軍は全て先読みしていたのでしょうか?、海軍航空隊は6月25日に動員解除になると予告されていた通りでした。奇しくもその同じ日に沖縄守備隊牛島中将以下全員の陸海軍将兵、動員学徒、女子挺身隊員、映画や記録で有名な白百合部隊等全島民が白兵戦を展開、その殆んどが玉砕戦死を遂げ、現在の沖縄市民の殆んどの人達は米軍の人道戦略によって保護された人達の御子孫達ではないのでしょうか、沖縄玉砕白兵戦の記憶です。(白兵戦とは、全員白鉢巻の決死隊のこと)
 沖縄基地、硫黄島基地、南方洋上の第7艦隊所属空母の艦載機による攻撃が激しくなり、大和海軍航空隊の3000m滑走路も無用の長物と化し、只一度鹿屋基地の特攻機がエンジン不調の為緊急着陸をしようとしたが、前方に発進中の一式陸攻を認め急に再上昇を試みたが、失速して前回転後破砕し火焔に包まれました。燃え上る零戦を見、救急車のサイレンが響くのを聞き乍ら、離陸は出来ても着陸出来ないインスタント特攻機の哀れさを見せ付けられました。2、3日後に柳本駅の臨時貨物引込線の中に止められた無蓋貨車の中に例の零戦の残骸が積込まれていました。
 動員解除の私達は激しい機銃掃射の中で毎日の授業を受けていたのです。皮肉にも英語の授業時間の時でした。殆んどの中学や女学校が英語の授業を取り止め(敵国語だから勉強不要との指令)る中、陸軍士官学校や航空士官学校、海軍兵学校等への志願者の多い畝中はいわゆる軍人組を含めて、「敵をやっつける為に敵の言葉を勉強せよ」を合言葉に週12時間の英語授業を受けていたのです。テキストの中に美しく描かれている国立公園日光の風景、男体山、中禅寺湖、華厳の滝ドライブウェイの湖に架かる長い橋等美しく描かれた観光地英語会話の実習です。How high is that mountain」、担当教官のニックネーム「鈍角さん」事K先生が構文の同じ中国語風に訳された日本語訳が続きます。「如何に高いあるかあの山は―」、正に英語の直訳である。「Its about 2 thousand and 3 handredmeaters high」、「それは約2300m高いある―」、男体山の高さについての会話です。「How long is that bridge?」、「如何に長いあるかあの橋は―」、「Its about 6 handred meaters long」、「それは約600m長いある―」、「How far is it from hear to that hotel?」、「如何に遠いあるか―ここからあのホテル迄は―」、「Its about 12 handred meaters from hear」、「それは約1200m遠いある―」と言った鈍角先生のJapanese englishの迷訳が終った瞬間でした。バン、バン、バン、バリッ、バリッ、バリッと言う大音響と共に窓枠の鉄片とガラスの破片が37mm口径の機関砲弾と一緒に教室内に飛び込んで来たのです。本能的に机の下に屈み込んでしまったのですが、そんな事をしなくても弾丸が当らない様に設計されていて座高90cmに対し廊下の腰板の高さは1m20cmもあり机の上に頭を伏せる丈で充分彈よけが出来たのです。然し足素に転がっている徹鋼弾と異って焼夷実砲は10cm以上も壁に喰い込みプスプスと音を立て乍ら黄燐の臭いのする火花を吹き出しています。廊下や足素の床面に転がっている鋼鉄製の徹鋼弾を集めてキーホルダーのアクセサリーにしました。それでも「やりやがったなあ」と言う思いで窓の外を見た途端、鮮なブルーに白い星のマークの垂直尾翼を持ったノースアメリカンP51ムスタング(硫黄島基地所属の米陸軍の攻撃機)がエンジンを止めザーッと言う空気の擦過音を残して、三階の軒場をかすめて通過しました。良く見ると4機編隊の1番機と2番機が攻撃して来たらしく3、4番機はそのまま超低空で次の攻撃目標に向って飛び去って行きました。「えらい近くで撃ちやがったなあ」と鈍角先生はそう言い乍らも相変らず「如何に高いあるかあの山は―?」、とやっていますし私達も面白い半分に「それは約2300高いある―」、なんて言い乍ら「ワハハハハ」と笑いました。「機銃掃射なんて有っても無くても一緒やなあ」、いつわらぬ心憶でした。
 それから一週間後、高取山の高射砲陣地に動員されました。十津川渓谷を北上して来る戦闘機と、柏木から大台を超えて南下するB29爆撃機の両方を撃墜するための高射砲陣地の構築をするためでした。部隊長は同級生I君の御父君で陸軍軍医大尉でした。陸軍が如何に人材に欠亡していたのか、それとも使えるものは何でも使えと言う考えなのか判断に苦しみました。然し軍令では一日3回尾根一つ向うの山から谷渡りで直径15〜20p、長さ4mの杉の原木を二人で担いで運ばねばならないのですが、T君の御父君の御蔭で一日2回に変えて戴きました。運んだ杉の原木は砲台の基礎となるコンクリートの枠組に使うものでした。
 我々の作業分担量を軽減してくれたT君の父親としての息子の同級生に対する愛情は単なる職業軍人の部隊長ではない医官軍人つまり軍医としての愛情だったのです。艦載機の地上施設に対する銃撃戦や、工場や倉庫の炎上するのを見乍ら、高取城本丸の石垣の上に列を組んで座り乍ら、B29のきらめく巨体を眺めたものでした。8月10日又しても動員解除、今度は陸軍からです。多分前日9日のソ連の参戦と長崎への原爆投下、そして何よりも大きかったのが連合軍のポツダム宣言による無条件降伏の勧告だったようです。機銃掃射の標的となる学校へ来るよりも、各自自宅で待機するよう指示が出されたのです。明日から学校も休みだと思った8月14日は早朝からの大空襲の連続でした。夜が明けたら艦載機が編隊を組んで飛んでいました。6時30分から9時30分に至る早朝の3時間に亘る何百機と言う米空母からの艦上戦闘機と艦上攻撃機、それに巨大な500k爆弾を両翼に釣り下げた艦上爆撃機の大群が関西地区に襲来、8時過ぎの通学時間帯にB29の大編隊は500機の大梯団で以て1000m以下の低空を真黒な影を落し乍ら、金剛山、葛城山、二上山、生駒連峰の上を無数の黒点が飛びそれを攻撃する高射砲彈の弾幕の黒煙が西の空を真黒に染め、B29爆撃機による第2次爆撃が始まり大阪最後の空襲が展開されたのです。玉造、森の宮、京橋、片町、鴫野、放出地区はもとより、大阪造兵工庁に対する最後の爆弾攻撃でした。一屯爆弾のクラスターを撒かれた京橋一帯はおろか、梅田新道、淀屋橋、北浜、本町、心斎橋へと広大な地域が破壊されたコンクリートの塊りと鉄骨の破片の山と化し、特に京橋駅に停車中の上下2本の省線電車は(現在のJR環状線)8輌の破片と1000人に達する乗客の粉砕死体が山を成し、此の死体の山はその後数ヶ月に亘り死臭を放ち、掘っても掘っても幾等でも出て来る白骨の山は、車内に流れ込んで来る死臭と共に事情を熟知している筈の乗客達も胸を傷め乍ら、窓や連結部の扉をあわてて締めたものでした。今でも毎年8月14日午前11時より京橋駅南口に於て合同慰霊祭が催されている事を諸氏はご存知だろうか?
 翌日終戦、昭和天皇の玉音放送とか、敗戦のショックとか、占領軍兵士の進駐とか、そんな不安なんて少しも感じなかったし不思議な感じがしました。一生懸命に作った大和海軍航空隊の零戦隊も迎撃の為舞い上がっても米戦闘機と交戦するとたちまちにして煙を吹き火焔に包まれて落ちて来る飛行機の全てが日の丸の翼だったのが印象的でした。あれ程忠誠を誓った天皇の事なんて何とも思わなかったし、恰好よく死ねる場所がなくなった軍国少年の夢は消え去ったが、英語の先生が街に一杯あふれる喜びと倖は裏切られる事はありませんでした。自動小銃を持ち戦闘服のままジープに乗った英語の先生達が街に溢れかけたのは約1ヶ月後位だったでしょうか。「I am 2nd class of junior high   school boy. Please teach me your nice American english」そう言う私に、彼等の中の一人は「Me too we are all 2nd classes of sinior high schoolboys as same as you」、「You are 2 years old than I」、何と彼等も高校2年生からの学徒兵だったのです。高田の町の中に只一ヶ所在った陸軍被服庁の倉庫の管理と後始末に毎日交代で通っていた彼等の元へ、毎週日曜日を愉しみ通ったものでした。思えば6歳の物心付き始めた時から15歳の少年になる迄の9年間の戦争からの開放は、両手を挙げて心の中で万歳を叫びたい気持ちでした。これで明るい電燈の下で本も読めるし、好きなレコードも聞ける、戦争からの開放は心底新しい時代への開幕のプロローグでも有りました。その後私の生活の中にアメリカが段々と入り込み、友人とジープを駆ってPX迄行ったり、黒髪山の米軍キャンプやファミリホームでのアルバイト等、英語の勉強を兼ねた私の戦後の新生活が始まったのです。ちなみに私が戦後最初の憶えて唱った歌は並木路子の「リンゴの歌」ではなく、ドリス、デイやビングクロスビーの歌うYou are my sun shine」や「Lover come back to me」、「Some sundeymorning」等でした。大和海軍航空隊の話がとんでもない方向に走りましたが、天理市の歴史の中のまぎれもない事実ですので、敢て書かせて戴きました。
 鹿屋の海軍特攻基地へ向う途中で立ち寄った大和海軍航空隊で、翼と体を休めて特攻に散った学徒兵の海軍航空隊の戦士達、同窓会の九州旅行で当時奈良空で動員学徒として働いていた男女約30人が、知覧の記念館で音大出身の学徒兵が死ぬ前にもう一度モーツアルトを弾きたいと言って弾いたグランドピアノを見て、何故か知ら胸に迫るものがあり思わず「同期の桜」を弾いてしまっていたのです。勿論男女併せて30人昭和20年1月3日より6月25日迄の沖縄戰終了の動員解除になる迄の正しく「同期の桜」だったのです。事情を知った他の観光客の中にも共に唱和してくれた人も居ました。懐かしい想い出となりました。

 後記 大和海軍航空隊同期の桜は当時県下の公立旧制中学、商工業学校、旧制高等女学校等の学徒全員が非常召集され、海軍の将兵達と飛行場の建設作業を行ったのです。航空隊完成と同時に終戦。その後昭和23年9月1日教育制度の改革により男女共学となりクラスメートとなった当時の動員学徒等の同窓会の行事の中にも、こうした50年前の生命をかけて行動を共にした深い結びの運命の共感が今も生きているのです。

終わりに

        特攻の学徒の弾きし此のピアノ

          我も弾きたし同期の桜

          学友と来て懐旧新 奈

          動員学徒よ同期の桜

2000年2月17日 知覧特攻記念館にて