天理よろづ相談所病院臨床病理部 小松 方
2004年4月に大阪大学大学院医学系研究科博士後期課程を修了し「保健学博士」の学位を取得しました。本研究科には社会人入学制度があり、仕事を続けながら大学院に入学することができます。私が所属しました教室は生体情報科学講座予防診断学研究室(岩谷良則教授)でした。これからの臨床検査には、高い診断感度と特異度、無侵襲、微量測定、迅速、低コスト、確実な予知等を可能にする「ヒトにやさしい臨床検査」の開発が期待されています。本教室は、疾患の病因・病態を解明することにより、疾患の確定診断や病態把握に有用な検査診断法を開発し、また、予防医学を実践する上で前提となる確実な発症予知診断法や予後診断法を開発することを目指す教室であります。
さて、本コラムで学位を取得した苦労話を・‥という依頼を受けましたので早速本題に入りたいと思います。私は1992年3月に天理医学技術学校を卒業し臨床検査技師の免許を取得しました。以降、天理よろづ相談所病院臨床病理部に就職し感染症検査室に配属され、研鑽をつんでまいりました。私の元直属の上司でありました相原雅典氏(現 千葉県高根病院検査部長)から臨床微生物学や感染症学の技術を学びましたが、それだけではなく、検査技師としての基本的な質について多くの指導を受けました。その中のあるエピソードなのですが、相原氏に「30歳までに今自分が有している能力を適切に評価し、何ができるかを考えよ」、と述べられたことがありました。当時は非常に曖昧な表現でありましたので、何を言わんとするのかがよくわかりませんでしたが、私の心の中に深く刻み込まれた言葉でありました。これも大学院を受験する一つのきっかけになったと思います。
大学院には2001年4月に入学しましたが、入学試験はその前年の10月に実施されました。入学資格はまずは意欲。次に入学試験を受ける条件があります。「修士と同等の学力を有する」という条件で、まず英文原著を最低1本公表していることが必要でありました。これは既に執筆していましたので、これもクリア。後は、試験本番を待つのみでした。試験前1ケ月前から平均睡眠3時間で勉強しました。あの時のことはよく覚えていますが、ボクサーの減量をしているようでした。決して食事をとっていなかったわけではないのですが、当時の写真をみるとまさに減量した様相でした。勉強と言っても、いわゆる受験勉強のようなものではありません。今後臨床検査がどういう方向を向かって進むべきか、検査法の開発評価、医学における臨床検査のあり方。等々について、自分の頭の中で構図をきっちり描くことができるようなる、という勉強でありました。これらは小論文形式で出題されましたが、それとは別に大学院に入学してからどのような研究をしたいかについて7分でアピールする試験があります。私は3年ほど前から天理病院で研究しておりました「拡張型βラクタマーゼ産生菌を含む臨床上問題となる抗菌薬耐性菌感染症の疫学調査と検出法の評価および開発」というテーマでプレゼンテーションを行いました。
この社会人制度が正式に開講されたのは、私が入学する1年前のことでありまして、私は2期生の卒業生となります。同期の方や、前年度の諸先輩方は全員大阪大学医学部附属病院検査部に所属されておられる方で、プレゼンテーション技法に長けた世間でも名の売れた方々ばかりでありました。その情報は岩谷教授より試験前の面接の段階ですでに告知されておりました。つまりどういうことかというと、試験を受けても「だめもとで受験」ということです。ただ、運がよく、たまたまプレゼンテーションに高い評価を受けまして合格することができました。入学後は文面に表すことができないぐらい悲壮な日々でした。卒業条件が在籍中に原著論文を最低3報が受理されていること。うち、英文論文が最低1報含まれることでありました。この条件を満たした場合に初めて大学へ学位論文を提出することができ、卒業判定会でプレゼンテーションを行う資格を得ることができます。学位論文は原稿用紙300ページ程度執筆し、レイアウトを組んで製本した状態で提出しました。これを完成させるために、業務が終了してから、一旦帰宅し夕食を食べ風呂につかりリフレッシュして、23時頃から再び出勤して朝まで実験、正月も返上という日々が続きました。学位論文が完成したのは卒業2ヶ月前の正月明け。これほどの充実感はありませんでした。
さて、昨今の臨床検査技師の教育は4年制化へ移行しつつあるのは周知のことでありますが、教育が大学・大学院と移行することで、臨床検査技師に研究する場が与えられることになります。これはどういうことかというと、臨床検査を単に行うだけではなく、検査評価や開発を行う「科学」の場に身を置くscientistになれるということであります。今後は教育体制がさらに変化し臨床検査技師免許を有した有能な人材がさらに増加するものと思われます。私自身も学位を取得したことを今までの技師生活の振り出しとし、自らの研鑽を怠ることなく、さらには後進指導にも力をいれていきたいと考えています。