■ 山形の昔話 ■      長谷川寿紀

 

 昔々あるところに山形という所がありました。そこに医学部が出来たのでお父さんは受験に行き ました。試験場は火葬場の隣にあった高校でした。そこでテストを受けました。算数のテストでは, インデアンが川を渡るのに船で何回往復しなければならないかというパズルのような問題が出ました。理科では滑車の問題が沢山出ました。試験を受けてからなんとなく元気がないので東京に 出て予備校の入学試験を受けたら,そちらのほうが難しくて、やりガイがあってよろこびました。 でも山形から来てもよいという手紙をもらったので、そっちに行くことにしました。

  山形は大きな扇状地の上にありました。扇状地というのは山から流れる川が運んできた土砂が 堆積して扇形になったものです。お父さんはその扇の要のところ、つまり一番高いところに下宿 を見つけました。ところが,学校や銭湯やスーパーは低いところにありました。それで行くときは 自転車に乗って一回もペダルをこがずに目的のところに滑るように行くことができましたが、帰っ てくるときは大変でした。特に銭湯にゆく時は、せっかく行ったのに、また下宿に戻ると汗だくに なり,一体全体何のために行ったのか、さっぱりわかりませんでした。  

  山形に着いてはじめ一番困ったことは,土地の人の言葉がわからないということでした。山形に は標準語をしゃべれないという人が沢山いて、買い物に行っても何を言っているのか理解するこ とができませんでした。ワンマンカーのバスのアナウンスは運転手がじきじきに山形弁でぼそぼ そと言うので,いったいバスがどこを走っているのかさっぱりわかりませんでした。車掌のいるバ スがまだ走っていて停留所につくと、「おちる人がしんでからお乗りぐだぜー」というので、これは 大変な所に来たと思いました。「ゴジラ川」というので,ゴジラが川から上がってきたのかと思っ たら、「小白川町」の事でした。この時の言葉が理解できない経験があったので、あとでお父さ んがアメリカに渡ったときもなんとか頑張って乗り越えることができました。  

 

   山形の大学に集まってきた人は,全国各地いろいろなところの人で、東北弁もあれば関西弁も聞くことが出来ました。山形の人は実はその中では極少数派だったのです。ですから、みんな 山形弁しかしゃべれない先生のクラスの時間には苦労しました。ある若い数学の先生は、山形弁で微分の話しをして、よくわからないだけでなく、「根の識別式」を一生懸命「こんのスケベつすき」と説明するのでみんな笑うのをこらえるのに大変でした。しかし当の本人はいったいどうして学生たちが笑い死にしそうになるのに耐えていたのか、ぜーんぜんわかりませんでした。

山大に入学してしばらくして、教養部の一教室に集まって次の授業の開始を待っていたお父さんのクラス(4期生)に、突然ドアを蹴破るようにして入ってきた女子学生がありました。この人は新入生を歓迎することばを述べるために来ましたといいました。彼女は山形のさらに奥の鶴岡だか酒田だかの出身で、こういいました。「山大医学部に入学されだみなさん、おめでどーぐぜえまず。まんずまんずえがっだべす。わだすはよ、はずめで山形さ来た時は,駅を降りたら、地下道があってそれが駅前の道を横断してデパートにつながっででよ、うわあ、さすが山形は大都会、すんばらすーとこだがはと感動すただべす。ほだからみなさんもこんな大都会の学校に来れて,期待に胸さはんずませてでねがは〜」。それを聞いたクラスのみんなはお互い顔を見合わせてしんみりしました。でも「うるせえ、引っ込め、帰れ、ダーホ」とやけくそな野次をとばした人もいたんです。(匿名希望所澤)

 

       山形大学こじらかわキャンパス

 山形に来て、なんとまあ品のわるいデザインだことまあと思ったのは、山形交通のバスでした。真っ赤に塗った上にクリームレッドで仕上げていました。こんな色彩感覚はどういうセンスなんだろうと思っていましたが,今になってふりかえってみると、あれはベニバナをあしらったもので色彩がどぎついなりに雪の降りしきる日でも遠くからくるのがよく見えてそれなりに安全な色だったと思います。そればかりか、今はかえってそういうデザインだったのが懐かしく思えます。

 宮崎はやおのアニメの「思い出ぽろぽろ」に日野自動車製造のものとみられる山交バスが出てきますが、あれだけでおとーさんは感動しました。

 

 

    昔の山形駅前と山交バス

 山形は、昔話と怪談の宝庫です。町の中にはあちこちに古びたお寺やお墓がぞろぞろとありま した。幽霊が出ても文句が言えないような古屋敷や山道がごまんとあります。山形の町並みは狭く、一方通行だらけでした。なんでも、戦争中アメリカ軍のB29が山形を爆撃しようとして曇りの日に爆弾を満載して来ましたが、途中にある蔵王の山の高さを測り間違えて低空で侵入したため、全機(といっても2機だけ)蔵王の山腹に激突して果てたのだそうです。あの時山形に爆弾が落ちていたら、山形の町の道はもう少し広いものになっていたはずです。この話は戦後進駐した空軍将校からの由来で、いまでも時々アメリカの退役軍人病院で太平洋戦争の話題が出たときにはお父さんが謹んで使わせてもらって際どく笑わせているエピソードです。

 お父さんは、勉強に疲れて、頭が痛くなった時は、ボロ車で、仙台と山形の間の笹谷峠というところにときどきドライブに行きました。そこは昔の寂れた街道で、狭い曲がりくねった絶壁の上の道でした。ときどき行くと、道端に生花とかおまんじゅうが置いてあったり、真新しいガードレールの所に線香の煙がゆわゆわと立ちのぼっていて昼間でもとってもキモい所でした。ああ、こんな崖から落っこちた人もいたのかと感慨無量でした。

ある日ものすごくフラストレーションがたまったので、夜中に笹谷峠にドライブに行きました。幽霊が出てもわからない程真っ暗でした。そこで静かに瞑想をしていると、向こうから窓を開けてジャンジャカジャンと大音響を出しながら暴走族のにいちゃんの車がやってきました。せっかく静かにしている時に迷惑な奴だなあと思ったお父さんは笹のかげに隠れ、車が近くに通り掛かったときに、「ギャーッ」と一声叫んでやったところこの暴走族のにいちゃん達は、車の中でパニックになり、「うわー、でたー」と言って、急アクセルを踏んでビビって逃げて行きました。とんぴんと。

 

 

 

 

 

笹谷峠

お父さんは、頼まれて近所の教会の青年会で青年会長をしていました。ある日、教会に若い女の子が集まってきていました。みんな山形弁なので、話しに割り込むのが大変でした。ある日、一人の女の子がマタニテイドレスを着てやってきました。

それでお父さんは軽いお世辞のつもりで、「やあ、可愛いマタニテイドレスだね」と言って上げた所、彼女達は顔を見合わせて、「股に手だとよ。やんだ?」と言われました。純情なお父さんは一時間ほど立ち直れなくなりました(←信じない娘)。自分の着ている服の名前位英語で知らなかったとは。ほえ〜

  お父さんは、山形にいたときは、律儀にも自炊をしていました。しかし、だんだん勉強が忙しくなると、毎日炊事などするわけがなく、3日に一回とか、一週間に一回というパターンになりました。ある日新鮮な山形の地物の野菜を買い込んで一週間分のお惣菜を作り置きしましたが、その時はたまたま何を考えたかいままでやった事が無いはっぽう菜をつくろうと思い立ちました。

  中華鍋で野菜を油で炒めるかたわらで、片栗粉を水に解いていましたがいくらやっても粘りが出てきません。とうとう片栗粉のパッケージの半分を水にたたき込んで混ぜましたがそれでもサラサラのままでした。

一体どうしたことか、これは不良品の片栗粉ではないのかなどと考えながら、いまいち解せない風にして、とりあえずパッケージ半分の量の片栗粉を溶かした水溶液を中華鍋に入れました。その途端、今までかき回していた木のへらにズズーンという衝撃が走り、そのまま動かなくなりました。どうした、何が起こったんだ?と訳もわからず、木のへらを引き抜こうとしましたが、野菜の中から抜けません。あんかけになるはずのあんがゴムのように堅くなっていました。無理やり引っ張った所、木のへらと一緒に中華鍋の形に固まった野菜が巨大なプデイングの傘のようになって取れました。「そうだ、でんぷん分子の重合速度は温度を上げると指数関数的に早くなるんだ」と有機化学の基礎に気がついたときには後の祭。透明な合成樹脂のように固まって、中の野菜は見えるのに全然食べられなくなってしまったのです。よって、その週は野菜抜きでした。

佐藤屋ののし梅もそうやって作っているのではないかと思いました。(「さとーやで、どうぞー ♪」)

お父さんがいた昔の山形の放送局の定時ニュースのオープニングテーマ音楽は、ホルストの交響曲である「惑星」の第四楽章「木星の章」でした。お父さんは今でもそれを聞くと急にそわそわして、また夕食の準備を始めなければならないような衝動にかられます(哀)。聞いた事のない人にはもよりのミュージックストアでCDをお買い求め下さいと勧めて上げましょう。その晩のごはんから美味しくなるかもしれないよ。

自炊と言えば、ある日近所のおばさんがサクラモダシというキノコを持ってきました。「サクラモダシはまんずまんず美味しいキノコだよ」というので、「どうやって料理したらいいんですか」と聞くと、「簡単す、あく抜きして、油炒めでも、煮つけても何にしてもいいんだべした」というのでした。それで、次の週家でやって食べた所猛烈に苦くて、口の中が紫色になりました。「うみゅ〜、これはなんじゃらホエ〜?」

翌週、今度はこれもええぞと言ってまた奇妙な野菜を持ってきましたが、今度はお父さんも慎重になり、これは冷蔵庫に入れたまま遠巻きにして眺めているうちにとうとうカビを生やせて捨ててしまいました。なんでもアケビとかいうものだったのだそうですが。

(お父さんが娘に聞かせるカリフォルニアの物語も刊行予定です うそばっか)


蛇足的追加

高木信博先生(酒田市高木整形外科クリニック院長)が医学生をしていたとき、通っていたバイクにCVGTと書いてあり大門先生、中村先生、山田先生は、「それはシビガッチャキ病の略に違いない」と指摘され、以後、バイクは「シビガッチャキ号」と呼ばれる事になりました。

あないみじ。

シビガッチャキ病 = ビタミンB2欠乏症。口角の亀裂と共に唇の上が赤くなって剥離する。また舌では舌炎が起こる。我が国では脚気とともに起こることが多い。東北地方に多い。