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科学哲学演習レポートその2

September 16, 1997 (Chapter 1, §8.)


・実はまだ(9月15日21時30分現在)、全然できてない。やばい。全訳はした んだが。なかなか要約できない。要約できないということは、十分には理解し ていない、ということである。それは百も承知である。しかし、今回の部分は まとめるにはかなり難しいところなのである。いや、まじで。

・とりあえず、誰もここを読まないかもしれないが、動機づけのために先 にHTML化してしまった。とにかく今夜中にやらなければ。

・テキストはHans Reichenbach, The Philosophy of Space and Time, Dover, 1958である。

(評価)


(最初は適当に気楽にまとめてみよう。某教授に読まれるのを意識して緊張 するから書けなくなるのだ)

この節でライヘンバッハは、要するに「幾何学は相対的だ」と言いたい んです。すなわち、ユークリッド幾何学が真の幾何学だと か、認識論的にアプリオリだとか、視覚的にアプリオリだとか言うのは大間違 いで、実際には、どの幾何学で現実の世界を測量しようが、構わないんです。

というのも、ユークリッド幾何学で測量した結果(測量値)は、簡単に別 の非ユークリッド幾何学での測量結果に変換しうるからで、それはたとえば、 メートル法で計った値がフィートに容易に変換できるのと同じなわけです。

しかし、当時は「ユークリッド幾何学は他の幾何学よりも偉いんだ。ユー クリッド幾何学のみが現実の物理的空間にあてはまる絶対的な幾何学なんだ」 という考えが根強かったようで、ライヘンバッハはそういった反論をやっつけ るためにこの章を書いているのです。

幾何学の相対性に対してここに出てくる反論は、

(1)ユークリッド幾何学は認識論的にアプリオリ、すなわちユークリッド幾 何学は知識の不可欠の前提である、という反論。

(2)ユークリッド幾何学は視覚的にアプリオリ、すなわち、ユークリッド幾 何学は「見て」正しいことがわかる、という反論。たとえば、「二点を結ぶ最 短の線は直線である」というのは見るだけでわかるでしょ、といわれる。

(3)ユークリッド幾何学は最も単純な幾何学であるから、ユークリッド幾何 学はより真である、という反論。

そして、ライヘンバッハは、これらの反論をバッタバッタと薙ぎ倒して いくわけです。

といっても、幾何学の相対性の議論は、一朝一夕にしてできたわけでは ありません。空間概念の数学的定式化によって幾何学を物理的現実に適用する ための道を準備したリーマンとか、哲学的基礎を築いたヘルムホルツだとか、 幾何学の相対性の理論を実際に物理学に適用したアインシュタインだとかの功 績によって確立された考え方なのです。

この幾何学の相対性の議論は、「規約主義conventionalism」 と呼ばれたりもするのですが、この名前は「物理的空間で成立する幾何学につ いては客観的な言明はできず、ただただ主観的な恣意性のみが問題になるだけ である」というような誤解を招きやすいことが指摘されます。すなわち、恣意 的な定義に基づく幾何学は、その測量結果も恣意的になる、と考えられやすい、 ということです。

それに対して、ライヘンバッハは、「確かに幾何学の言明は何らかの恣意 的な定義に基づくが、だからと言って言明そのものは恣意的にならない」と応 酬します。

すなわち、たとえば温度を計るときに摂氏か華氏のいずれかを選ぶこと は恣意的な選択ですが、かといってその測量結果までが恣意的になるというこ とはないのです。

結局、「物理的な言明の客観的性格は、それが関係の言明である」とい うことに求められるのです。沸騰するお湯についての言明は、絶対的な言明で はなく、沸騰するお湯と水銀柱との関係についての言明なのであり、現実の空 間の幾何学についての客観的な言明とは、宇宙と剛体のものさしとの関係につ いての言明なのです。

(う〜む、これで約1300字か。2000字にするには反論(1)〜(3)に対するライ ヘンバッハの回答を書けば良いだろう。大体メドがついたか?)

(geometryは「幾何学」と訳されるが、この文章では「土地の測定」という 原語(ギリシア語)の意を汲んで、「測地法」とか「測量法」とか訳した方がわ かりやすい気がする。そもそも「幾何学」って言葉は何なんだ?一体誰がこん なわけのわからない言葉をあみだしたのか。許せん)


(ではなんとか書き上げてしまおう)

(geometryは、少なくともこの文章においては、「幾何学」よりも「測地法」 の方が意味が通じると考えるので、「測地法」と訳すことにする)

この節までに示されたのは、「どの測地法が物理的空間に対して成り立つ か」は経験的に、すなわち測地結果によって決定されなくてはならず、さらに、 この決定は長さの比較の恣意的な対応づけ定義という前提に依存している、と いうことである。

この考え方に対して、「ユークリッド測地法だけが物理的空間に対して成 り立ち、それゆえそれは他のすべての測地法に対して優位にある」あるいは 「ユークリッド測地法が真の測地法である」ことを示そう とする(主としてカントの空間のアプリオリ理論の)立場から反論がなされた。 この節ではその主な三つの反論に対して回答がなされ、測地法の相対性の考え が述べられる。

一つ目の反論は、「対応づけ定義の選択は恣意的なものではない。ユーク リッド測地法の妥当性を前提した測地器具を用いて得た測地結果から非ユーク リッド測地法を導出するのは矛盾である」というものである。この反論には、 「ユークリッド測地法は認識論的にアプリオリ、すなわち それは知識の不可欠の前提である」という考え方が関連している。

この反論に対しては、「測地結果を一つの測地法から別の測地法へと変換 することは可能であり何の問題も含まれない。それゆえ、測地をユークリッド 測地法の前提から始めて、後でその結果を非ユークリッド測地法の測地結果へ と変換することにはなんの矛盾もない」と回答される。

二つ目の反論は、「ユークリッド測地法は視覚的にアプ リオリである。すなわち、ユークリッド測地法の妥当性は視覚的に自明である」 というものである。

この反論に対しては、「たしかに、ユークリッド測地法は容易に視覚化さ れ得るという点で特別なものであるということは認められるかも知れない。け れども、視覚的なアプリオリ性の理論は、測地法の相対性の理論(定理θ『測 地器具が従っている測地法G'が与えられているとき、われわれは、現実の測地 法が恣意的な測地法Gであるような仕方で器具に影響する普遍的力Fが存在し、 観察におけるGからのずれは測地器具の普遍的な変形のせいである、というこ とを想像できる』)を反証しないし、また長さの比較の対応づけ定義に対する 必要性は依然として無くならない。視覚化の可能性はある特定の対応づけ定義 が主観的に選好される根拠となるにすぎない」と回答される。

三つ目の反論は、「ユークリッド測地法は最も単純な測 地法であるから、ユークリッド測地法は他の測地法よりも真である」というも のである。

この反論に対しては、「ある測地法が、別の測地法よりも単純な測地関係 を生み出すという事実は、その測地法がより真であるとい う証明にはならない。現実界の特性は、測地結果とその前提となる対応づけ定 義との組合せによってのみ発見されるのであり、そのような二組の組合せは、 一方が他方へと変換できる事実から理解されるように、(記述における単純性 に関わらず)等しく真である」と回答される。

以上の考察から、測地法の相対性という考えが明らかに なる。すなわち、「ある測地法が空間に対して成立する」という言明は、前提 となる対応づけ定義が加えられることによってのみ意味を持ち、別の対応づけ 定義が用いられるならば、この言明も変わる、ということである。

この測地法の問題は、空間概念の数学的定式化によって測地法を物理的現 実に適用するための道を準備したリーマン、哲学的基礎を築いたヘルムホルツ、 幾何学の相対性の理論を実際に物理学に適用し、普遍的力Fを0とするとき、測 地法Gは非ユークリッド測地法になることを示したアインシュタイン、等々の 功績によって確立されたもので、「規約主義conventionalism」の名 で知られている。

しかし、この名前は「物理的空間の測地法については客観的な言明はでき ず、ただ主観的な恣意性のみが問題になるだけで、現実空間の測地法という考 えは無意味である」ことを意味している、という誤解を招きやすく、測地法の 問題の認識論的な側面を十分明晰には提示して来なかった。

たしかに測地法についての言明は何らかの恣意的な定義に基づく。けれど も、かといって言明そのものは恣意的になるわけではなく、一度定義が定式化 されれば、どれが現実の測地法かは客観的な現実のみによって決定されるので ある。逆に、対応づけ定義なしには、物理的な測地結果に客観的な意味を与え ることはできない。要するに、われわれが物理学において客観的な測地結果を 得ることができるのは、恣意的な点を発見して、その点を恣意的であると認め、 その点を定義として分類することによってのみである。

結局、物理的な言明の客観的性格は、関係の言明に求められるのであり、 現実空間の測地法についての客観的な言明は、宇宙と剛体のものさしとの関係 についての言明なのである。この意味において、われわれは物理的測 地法について語ることが許される。(以上1988字)


先生の評価

あらら、やっぱり「測地法」はバツされてました。ライ ヘンバッハは数学的幾何学と経験幾何学を区別して、後者の話をしているから、 この訳では不適切なんだそうです。しかも、「方法」の話ではないから、これ も不適切。(「測地学」と書いたつもりだったけど違ってた)

あと、metrical instrumentsも「測地器具」と訳してたら(「測地法」に合 わせた)、これも「必ずしも測地とは限らないので、測量、測定にすべき」と いう内容のことが書かれていた。これも確かにその通り。

レポートの最後に毎回書かれる厳しい御言葉(だんだん慣れて来た、という か、喜びを感じるようになってきたが…)によると、他人の議論を要約するの に我流の言葉を使うのは問題外だ、ということである。70点


(反省)ううむ。やはりだめだったか。反省反省。上の2点を除いて、他のと ころは何も書かれていなかったので、あとは問題がなかったのかも知れない、 というのがせめてもの救い。

次は穏健にがんばろう。

(しかし、「測地学」って好きなんだけどなあ…)


Satoshi Kodama
kodama@socio.kyoto-u.ac.jp
Last modified on 10/01/97
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