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フランツ・ブレンターノ
『道徳的認識の源泉について』覚書(その4)


善いものはたくさんある--どれがより善いか(28-30)

「えええ。ブレンターノ先生、そうすると善いものは一つではなくって、 いろいろあるんですか」

「うむ。犬に誓って」

「そすると、ええと、善いもの同士を比べた場合に、どっちがより善いと か、どれが一番善いとかっていうのはあるんですか?」

「うむ。当然ある。最終目的としてわれわれの行ないの基準となる最高善 というのがあるのじゃ」

「では、『より善いもの』ってなんなんですか?」

「む。わしが訊いてやろう。君ならわかるじゃろ。こだま君よ、『より善 いもの』ってなんなんじゃろ」

「ええと、『より大きな快を生み出すもの』…じゃなかった、今までの議 論からすれば『より大きな愛を生み出すもの』ですか?」

「うむ、その通りじゃ。真偽判断においては『あの真なるものよりもこち ら真なるものの方がより真である』などということはできんが、善悪判断にお いては、『あの善よりもこっちの善の方がより善い』とは言えるからのう。し かし、正確には、『より善いものとは、より多く愛されて然るべき(mit Recht)もの、より多く気に入られて然るべきもの』と答えるべきじゃろうな」

より善いものを知る方法(31-34)

「では、ブレンターノ先生、われわれは実際、どのようにしてより善いも のを知るのでしょう?」

「うむ。それにはいくつかのやり方があるのじゃ。聞きたいか?」

「ええ、そりゃもう」

「ではよく聞くがよい。

  1. 善いものは悪いものに比べてより善い。

  2. 善いものの存在は、それが存在しない場合に比べて、より善い。
    1. 純粋に善いものは、悪いものの混じった、同じくらい善いものに 比べて、より善い。
    2. 善いもの全体は、その一部分に比べて、より善い。

  3. ある善いものに別の善いものを足したものは、もとの善いものに比べ て、より善い。また、強度の強い善いものは、他のあらゆる点でまったく等し いが、強度の点でそれよりも弱い善いものに比べて、より善い。
というわけじゃ。当り前と思うかも知れんが、これが基礎なんじゃよ」

「なんだかベンタム先生の快楽計算に似てますね」

「しかしわしが彼と違う点はじゃな、まず、

  1. わしは快=善とは考えんし、また、
  2. わしは彼のように善には質がない、ということは認めんし、さらに、
  3. (3)わしは善には質があるから、正確な計算は不可能だと考えているが、彼は 善には質の違いがないから、正確な計算が少なくとも理論的には可能だ、

と考えておるんじゃよ」

「はあ。え?じゃあ、結局、善であるような高級な愛と、善であるような知 識はどっちが善いのですか?」

「だからじゃな、それには答えは出んのじゃよ。両者を計る基準がないか らの。ただし、仮に一単位の高級な愛が一単位の知識よりも劣っていたとして も、高級な愛をどんどん加算していけば、いつかは一単位の知識よりも勝る、 ということは十分に考えられることじゃ。知識を何より重んじたアリストテレ スやプラトンはそうは考えてないがな」

最高善とは(35-38)

「ええと、ブレンターノ先生、そうすると、最高善というのは、結局どう いうことになるわけですか」

「こだま君よ、君にはもうわかっているはずじゃ。自分で答えてみなさい」

「ええと、より善いものっていうのは、一つの知識より一つの高級な愛が 必ず善いとは限らないわけで、善の量が多ければ多いほどより善くなっていく んだから、ええと、すると、最高善というのは可能な限り最大量の善 ですか?」

「うむ。その通りじゃ。単に自己自身の善だけではなく、家族、 都市、国家、現在の地上の全人類、否、遠い将来の時代まで、あたうかぎりの 善を最大化すること、これが人生のあらゆる行為が基づくべき正・不正の基準 なのじゃっ

「えええ。それって、善を快に入れ換えたら、ベンタムの功利原理(関係者 全体の善=快を最大化する傾向にある行為が正しい)とほとんど同じじゃないで すか」

「君もくどいな。さっき言ったように、わしのは彼のとは違うんじゃ。彼 の快楽説とは違ってじゃな、わしの場合は通約不可能ないろいろな種類の善が あって、それらをまんべんなく追求すべきなんじゃ」

「はあ。ええと、それではその正・不正の基準が法と道徳に自然の承認を 与えるわけですね。すなわち、最高善=可能な限りの最大善を追求す る行為が正しく、その行為を指示する法や道徳は普遍的な正当性を持つ 、ということですね?」

「その通りじゃよ、こだま君。そしてわれわれはついに結論にたどり着い たのじゃ」


まとめ

・このあと、ブレンターノ先生はアリストテレス大先生やベンタム先生と 同様に、倫理にある種の文化的な相対性を認めますが、そのことは決して最大 善を追求する行為が正しいという基準を損なうものではない、と言って再びイェー リング先生を批判したりしています。また、いかに自分の理論が常識的道徳や 古代からの哲学やキリスト教と一致するかを説いています。しかし、重要な結 論はすでに出ました。

・もう一度ブレンターノ先生の主張をまとめると、こうなります。

「む、また呼び出したな。まあよい。もう一度簡単に説明してやろう。

「問題は、道徳や法に対する自然な承認が存在するか、存在するとすれば それはどういうものか、ということじゃったな。

「まず、善いものとは、われわれが単に愛したり気に入ったりするもので はなく、正しく愛したり気に入ったりするもののことじゃが、それは当然、皆 に普遍的に気に入られる。例えば知識や喜びや、高級な愛などがそうじゃ。こ れらは、わしにとって善いだけじゃなく、こだま君にも善いし、他のだれにとっ ても善いものじゃ。

「次に、われわれは各人、行為する時にはある目的を持っておるが、各人 は他の目的の手段でないような最終目的をそれぞれ持っておって、その中には 正しい目的と正しくない目的があるのじゃ。

「しかるに、われわれが最終目的として追求すべきものはなにかと言えば、 それは当然最高善であるわけじゃ。

「そして、わしらにとって、最高善とは、可能な限り最大量の善のことじゃ。

「であるからして、自分の善だけでなく他人の善をも含めた、最も広い範 囲にわたる最大量の善を追求する行為が正しい、という普遍的な基準が出て来 るわけじゃ。そしてこれが道徳や法に対する自然な承認となるわけじゃ。わかっ たかの?」


結論: ベンタムとの相違点

・ううむ。ブレンターノ先生が結論として出して来る正・不正の基準はベ ンタム先生の功利原理とそっくり。びっくり。ブレンターノ先生の善の計算の 部分もベンタム先生の快楽計算の話に似てるし。どうもブレンターノ先生はデュ モン編のベンタム先生の著作を結構読んでたみたいです。しかもブレンターノ 先生は功利主義に近付きつつも、現代の自然法、自然権の議論にもかなり近い ところにいると言えます。

・しかし、結論が一見似ているとはいえ、やはりベンタム先生とブレンター ノ先生とでは議論の組み立て方がずいぶん違うわけで、大きく違うのは、

  1. 各人の追求するものが直ちに善であるとは言えないとした点
  2. 知識や徳は快苦によっては説明できない内的価値を持っているとした点
  3. 善には質の違いがあるとした点
  4. 各人の最終目的は自己の善の最大化ではなく、可能な限り全員の善の最大 化だとした点

だと言えます。このうち、(3)はベンタムとは違いますが、子ミルとは似て いると言えるかも知れません。(1)と(2)は議論してもはじまらないので置いて おきます。(しかし(1)はある意味では以下の議論に大きく関わっています)

・(4)の説明が難しいのですが、ここからベンタム先生とブレンターノ先生 の議論の仕方に決定的な違いが生じます。

・自然法的発想のブレンターノ先生は、この説明によって、事実判断「各 人は各人の最終目的を追求する」から価値判断「各人は正しい最終目的を追求 すべし→正しい最終目的=最大多数の最大善→各人は最大多数の最大善を追求 すべし」へとするりするりと移行しています。

・しかし、当然次のような非難が出て来ます。

「えええ、ブレンターノ先生、たしかにぼくは意志して行為するとき、目 的を持っていて、きっとよく考えれば、自分なりの最終目的を持っていると言 えると思うんですが、しかし、なんでぼくが正しい最終目的(=最高善)なるも のを追求すべきだと言えるのですか?」

・ブレンターノ先生は非常にうまくごまかしている--あたかも人間本性の 事実から論理的に彼の正・不正の基準が導き出せると言おうとしている--けれ ども、やはりヒュームの言う「事実判断から価値判断を導き出す」誤りを犯し ていると言えるでしょう。

・一方、ベンタム先生にはこの同一の批判が(実は)当たらないのです。

・というのも、ベンタム先生も「各人は自分の快(善)の最大化を目指して いる」と考えますが、彼は決して「自分の快(善)を最大化すること=最大多数 の最大幸福の追求すること」とは言わないのです。

・したがって、あくまでベンタム先生の功利原理は彼の「各人は自分の快 (善)の最大化を目指している」という人間本性の原理からは切り離されたもの です。すなわちベンタム先生においては、善と正はある意味で切り離 されたものなのです

・以下、今ぼくが述べたことの意味をできるだけ説明してみましょう。

・「各人は自分の快(善)の最大化を目指している」--この原理の含意は、 「ぼく自身が感じる快は、ぼく以外の人が感じる快とは決定的に異な るということです。すなわち、ぼくは決して他人の快の最大化は目 指しておらず、他人の快はぼくにとっては手段でしかないのです。言い換えれ ば、ぼくから見た場合、彼らの善はぼくの善に貢献したり貢献しなかったりす る二次的な善に過ぎない」ということです。(しかし、ブレ ンターノ先生は上記(1)でこの違いを拒否します--やはりここが実に大きな違 いを生み出すのです)

・しかし、功利原理においては、この自分の(一次的な)善と他人の二次的 な善という区別が失われます。正・不正の判断においては、ぼくは公平無私に なって自分の善も他人も善も等しく考慮する必要があります。なぜそうしなけ ればいけないのか?それは、そうしないでぼくが常に自分の善を他人の善より 重要なものとして考慮しようとする限り、皆が合意に達しうる妥当な判断は生 まれないからです。

・とここまで書きましたが、最後の部分は修論のテーマとなるべきところ で、まだ明確な結論が出ていません。ブレンターノ先生の議論はベンタム先生 の議論を明確にする上で役に立つ論点を提出しているように思えますので、も う少し読み込む必要があるかと思います。

・以上、またまた分裂症気味のまとめをしてしまいましたが、ここらで終 わります。


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Satoshi Kodama
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Last modified on 12/08/97
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