教授の雑文のページ

研究室を主宰するようになって早くも11年、「教授はいろいろと大変な職だ」ということがわかってきました(当たり前)。山のような雑事と書類を処理しながらも、研究を行っていくことの大変さを痛感し、先輩の教授の先生方がいかにすごい存在であるか、ということがわかってきました。一方で、育った環境が違うためか、それとも私の行いが悪いせいか、「自分が理解されていないな」と感じることもあります。

このページでは、研究の裏話やエッセイ風の書き物を通じて、「横溝岳彦」という人となりを少しでもわかってもらえれば、と考えています。おだやかに見えるようですが、これで結構激しい性格だと、(自分では)思っております。若気の至りで書いた過去の文章もありますが、あえて内容は書き換えておりません。なお、写真と文章の内容には全く関連はありません。

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日経メディカル


2011年2月13日発行-朝日新聞広告特集

朝日新聞広告特集 ※ 医学部志望者を対象にした広告特集記事です。記事をクリックするとpdfファイルが大きく表示されます。


2010年4月 書き下ろし

2006年4月に九州大学に赴任してすぐに、隣の教室(第二生化学)の竹重教授が、大きな額縁を持ってきて下さいました。「虚心観万象 木然」と書かれた書であった。聞けば、この書は、九大医学部生化学の第二代教授である児玉桂三先生が東大から赴任された際に、当時の東大医学部長 柿内三郎教授(号:木然)から送られた書であるとの事でした。九大医学部の学部長室に長らく掲げられていたこの書を、竹重先生は再度装丁され新任の私へ贈って下さったのです。

「曇りのない心で万象を観察すべし」と諭すこの言葉は、私の長年の指導教官である東大の清水孝雄教授が常々口にされていた「凡人は働くこと、働くとは天然を親しむこと、こうして天然が見えてくる。」という言葉に相通じるものがあります。東京と福岡という遠く離れた地でありながら、東大と九大の生化学教室に全く同じ研究者の魂が脈々と流れていることに深い感動を覚えました。

論文が通る、通らない、に一喜一憂しがちな今日この頃ですが、この「虚心観万象」という言葉は、研究者はかくあるべきとの本質を見事に表現した言葉だと思います。

この書は現在、医化学教授室のセミナー室の壁に掲げられており、私を始め教室員は折に触れてこの書を見ては研究への決意を新たにしています。

虚心観万象


東大医学部同窓会誌 鉄門だより 2008年3月号

私は福岡の片田舎にある、集落の大半が同姓という農村で生まれた。戦時中にまともな教育を受けることができなかった両親が、子供にはきちんとした教育だけは受けさせたいと思ってくれたことが幸いし、東大医学部で学ぶ機会に恵まれた。学者や医者とは無縁の貧乏村生まれの私だが「背伸びをする」ことで世界を広げてくることができたと思っている。

医学生時代はもっぱら山登りに精を出した。最初はテントを背負って山歩きをする程度であったが、次第にエスカレートしていき、卒業までにヒマラヤ登山を2回経験した。M3ではインドの7350m峰に登頂し、M4では世界第二の高峰であるK2に挑戦したが、8000mで退却を余儀なくされた。目標を定めて必死で努力すれば夢が叶うことを、山を通して学んだ6年間だった。M1からM2の終わりまでは、登山の合間に生化学教室で実験のまねごとをしていたが、まさか自分が生化学者になるとは夢にも思っていなかった。卒業後は産婦人科医として3年間のトレーニングを受けたが、大学院生として派遣された生化学教室で実験の面白さに魅せられて、基礎医学の道を歩むことになった。「研究をするのなら、一流の研究をしたい」という思いが強かったこともある。現医学部長の清水孝雄教授(昭48卒)の元で大学院生から助教授までの15年間を過ごし、沢山の鉄門の学生と触れあってきた。縁あって2年前から故郷の九州大学で教室を主宰しているが、こちらの学生と接して感じることは「背伸びをしない学生が多い」ことである。総じて素直で、言われたことをそつなくこなす能力は極めて高い。しかし、自ら研究室に飛び込んだり、クラブ活動や社会活動に燃えたりする破天荒な学生が少ない。大学、あるいは教官が設定した「最低限のゴール」をクリアすることが精一杯の学生が目につく。翻って東大の学生をよく思い出す。総じてそつなく無難な学生が増えてきた感はあるものの、PhD・MDコースに飛び込む東大の学生は例外なく優秀で、早い段階から世界的な研究成果をあげつつある。大学院で研究するのなら、学位のレベルをクリアできるレベルではなく、世界に注目される研究を目指して「背伸びをする」ことである。

岩登りでザイルのトップを努めることは、墜落と背中合わせでいつも恐ろしい。困難な岩場で行き詰まったことも一度や二度ではない。何度も躊躇しながらも、墜落を止めてくれるだろうパートナーを信頼し、勇気を持ってもう一つだけ足を上げて背伸びをすれば、必ずそこにがっちりとした手がかりを見つけることができた。リスクを避けるだけでは高みに達することはできない。鉄門の学生さんは東大医学部に入ったことに満足することなく「背伸びして」さらなる高みを目指して欲しい。それが日本の医療や研究をよりよいものにする牽引力となることを確信している。この文を書きながら、私もまた「背伸びをしよう」と決意を新たにしている。

注:「鉄門だより」は、東大医学部の学生さんが読者の同窓会誌です。


細胞工学 2008年2月号 一枚の写真館

Chemotaxis(写真解説)
CHO細胞にコントロールベクター(左)と、LTB4受容体BLT1発現ベクター(右)を遺伝子導入し、ボイデンチャンバー法を用いてLTB4に対する走化性を検討した。BLT1発現細胞のみがLTB4に向かって走化性を示している。Yokomizo T, et al: Nature (1997) 387: 620-624より転載。

念願であったロイコトリエンB4(LTB4)受容体BLT1遺伝子をクローニングした1996年秋、私はこの受容体を用いて細胞の走化性を再構成したいと考え、数ヶ月間実験を繰り返した。実験に用いるメンブレンに細胞外マトリックスとして知られるフィブロネクチンをコーティングすることを思いつき、1996年11月2日にBLT1発現CHO(Chinese Hamster Ovary)細胞をLTB4に対して走らせることに成功した。走化性因子受容体を発現させることで、白血球とは全く由来の異なるCHO細胞があたかも白血球の様に動く様を見て、背筋が凍るほどの感動を覚えた土曜日の朝であった。この手法は現在多数の走化性因子受容体の拮抗薬スクリーニングに用いられている他、リゾリン脂質産生酵素オートタキシンの発見につながる実験手法ともなった。そして医師から研究者へと私の人生を大きく転換させた一枚の写真でもある。


日本薬理学会誌 2007年1月号より抜粋

以下の文章は、某K大学の某K教授にそそのかされて書いたある総説の後のコメント(Q & A)です。言いたい放題書いています。問題があれば取り下げますので、横溝までご一報下さい。

1.どのような着想でこの研究を始めましたか?(研究の背景や個人的な取り組みのきっかけをお書きください)
もともと産婦人科の医者だったので、薬として使っていたプロスタグランジン(PG)の受容体の研究をしたいと思って大学院に入りました。入学とほぼ同時に、PG受容体の同定が京都大学の市川先生・成宮先生のグループから報告されたことと、「生化学の基礎は酵素学である」という清水教授の助言もあって、酵素学を勉強することになりました。結局、博士課程の4年間とポスドクの最初の1年間をかけて、LTB4の新しい代謝経路とその代謝産物、責任酵素の精製とクローニングを行いました。生化学のトレーニングとしてはとても良い研究テーマでしたが、研究そのものは地味で、学会で発表しても質問もほとんど無く、正直言うと寂しかった。(同様の研究をしているグループは、自分たちを含めて世界で3つ・・多分。)これではいかん、もっと大きいことをしなければならぬ、と決心し、ポスドクの身でありながら単身渡米して「アメリカ大陸横断押しかけセミナーツアー」(二週間で7つくらいセミナーをやった)を敢行し、あるラボでポスドクのポストをゲットしました。ただし、給料は一年後からしか払えないと言われ、それまでの一年間をどう過ごすか、を考えなければならないことになりました。同じ研究室で長年トライしていたLTB4受容体のクローニングに、興味のあったcDNAサブトラクション法が使えるのではないかとかねてから思っていたので、教授に直訴し「ダメでもともと」でやらせてもらうことにしました。私も教授も、本当にクローニングできるとは思っていなかったと思います。

2.それまでの研究はどのようなものをやっておられましたか?
LTB4を12-keto-LTB4に代謝する酵素の精製・cDNAクローニング、ならびに代謝物(脂質)の精製・構造決定。「地図を作る仕事」として、東大清水研では大学院生の黄金テーマ(だったと思いたい)。5年間でJ. Biol. Chem.筆頭二報と、そう結果は悪くはなかったが、世界的には大して注目されない仕事でした。

3.方向転換された場合はその理由:
LTB4の代謝をやっていたのだが、LTB4受容体を捕まえなければ、生体内でのLTB4の役割は分からないだろうと思ったことが最大の理由。学会でもう少し活発な討論が出来るような重要な(流行の?)テーマを研究したいという気持ちもあった。もともとコンピュータ(デジタルなこと)が好きで、遺伝子にもデジタルな感覚(=すなわち引き算ができるはずだ!)を持ち込みたかったことが、テクニカルな理由。

4.研究をはじめてからご苦労された点を5つほど。
最初に考えていた引き算のストラテジーでは、遺伝子の濃縮がかからないことが判明し、すぐに行き詰まってしまいました。次に試したキットで最終的には成功したのですが、上記の通り留学の予定があったため、条件検討をする時間があまりなく、いきなり本番の実験に突入することを余儀なくされました。4塩基認識の制限酵素(RsaI)でcDNAを切断し、PCRでサブトラクションを行うプロトコールだったため、取れてくる遺伝子断片が平均200 bp位と短く、単離したcDNAフラグメントがコードするタンパク質の全貌がつかみにくかった。(クローニングした1996年には、まだゲノムプロジェクトも始まったばかりで、ESTのデータベースも充実していなかった。)cDNA断片の配列を読んでも読んでも非翻訳領域ばかりで「こりゃ駄目だ〜」と思いながらも、「自分から言い出した実験なので、100クローンは読みます!」と宣言してしまいました。実はそれまでは放射性同位元素32Pを使ったRIシーケンスしかやったことが無く(若い人にはわからないだろうな〜)、新しく研究室に導入された蛍光シーケンサーを立ち上げ、これが「4色で綺麗」だったのが幸いし、シーケンスが楽しかったことも理由の1つです。98個目にようやく7回膜貫通型受容体のC末端の配列が出てきたので、「とりあえずこのクローンの全長をクローニングすることでお茶を濁そう」としたのが大当たりになりました。既に作成していたファージライブラリーを広げ、わずか二週間弱で30万クローンから全長のcDNAを二クローン釣り上げることができたときは「自分も腕を上げたな〜」と感動しました。

5.発見されたときの感想は?
全長cDNAを取るだけでは「発見」ではないので、どのステップを「発見」というのか、よく分かりません。取ったcDNAがLTB4受容体をコードしている実験結果がいくつか出てきて、その1つ一つが「発見」のステップになりました。まず、全長のクローンから発現ベクターを作成して、生まれて初めて哺乳動物細胞に遺伝子導入し、生まれて初めてリガンド結合実験を行いました。最初の実験で、受容体発現細胞に特異的なLTB4結合が観察されたときも、「ほんまかいな?」という感じで、「ノンスペかもね」と思っていました。何回か実験を行ううちに、特異的結合が上がってきて(=実験の腕が上がってきて)、スキャッチャード解析でKd値が1 nMを切った時に初めて、「これはひょっとして本物かもしれない!」と思うようになりました。当時、清水教授がドイツに出張中だったので、結合実験のデータを全部日本語で書いて滞在先のホテルにFAXしました。(誰かに読まれては困るので、LTB4を「えるてぃーびーふぉー」と日本語で書いたのが、今思うと笑えます。)返事は、「冷静に。安定発現細胞を作り、カルシウム上昇を見なさい」というもので、清水教授の冷静さにいたく感心したのを覚えています。
初めて「やった!」と思ったのは、CHO安定発現細胞にリガンドをかけてカルシウムが上がった時。実験を教えてくれたA先生と抱き合って万歳したのを覚えている(土曜日のジンクスその1) 。その瞬間「Natureに通そう」と固く決心し、そのためにどのデータがあればよいか、真剣に(30分ほどですが)考えました。「LTB4は好中球の走化性因子だから、クローニングした遺伝子を使って細胞を動かしてやれば、Natureは取ってくれるに違いない」と考え、CHO細胞を動かす実験を始めました。これも生まれて初めての実験なので苦労したのですが、走化性を観察するメンブレンを、インテグリンの基質であるフィブロネクチンでコーティングすることを思いつき、ある土曜日の朝に受容体発現細胞を動かすことに成功しました(土曜日のジンクスその2)。このときは自分の実験結果に鳥肌が立ちました。cDNAサブトラクションを始めてからわずか半年あまりでNatureに投稿し、結果的には大した追加実験もなしにアクセプトされたときに、「自分でも気づかないうちに実験が上手くなっていた」ことを感じました。自分のアイデア全てが良い方向に応用出来た点で、神懸かり的な半年だったと思います。

6.ライバルの動向は?
世界中の製薬企業が孤児受容体を使ったスクリーニングを行っていたそうですが、私はそういったことをあまり詳しく知りませんでした。また、「この受容体はLTB4に反応しない」という小さな論文が出ていたことも、Natureに投稿してレフリーに指摘されてはじめて知りました。多くのLTB4研究者はこの論文を知っていて、この受容体を候補から外していたようです。あまり詳しく文献検索しなかったのが良かったのかもしれません。

7.あせったときは?
LTB4受容体としてのデータが大体揃ったときに、同じ遺伝子にコードされる受容体がATP受容体として某雑誌に発表された時。LTB4受容体であることは確信できていたので、「ATPとLTB4の二つのリガンドに反応する初めてのデュアルレセプターだ!」と大いに盛り上がりましたが、私の手ではATPに対する反応は取れず、この実験に1ヶ月かかり、投稿が遅れました。結局ATP受容体の論文は間違っていたようです。

8.がっかりしたときは?
BLT1, BLT2をクローニングしていた頃は、がっかりすることはあまり無かったと思います。むしろ最近、受容体欠損マウスの実験で、アメリカのグループに先を越されることが多いのが辛いです。

9.発見後にあなたの人生はどう変わりました?
ほぼ確定していた留学をやめました。自分で見つけた受容体なので、遺伝子欠損マウスを作りたいと思ったからです。BLT1をクローニングする前から研究者として生きていこうとは思っていましたので、それほど生活に変化はありませんでした。例によって朝から晩まで実験に明け暮れていました。一番嬉しかったのは、学会で沢山の人に質問してもらえるようになったことでした。ほとんど相手にされなかった国際学会でシンポジウムに何回も呼ばれるようになり、英語が上手くなりました。その後、LTB4の第二受容体BLT2のクローニングにも成功し、研究室の助手にしてもらえることになりました。「研究のプロとして認めてもらえた」のが大層嬉しかったです。助手になっても研究室で1、2番の実験量をこなしていたと自負しています。助教授になってからは生活が一変し、実験に使える時間が激減し、実験指導以外にも、講義、雑用に翻弄されるようになりました。

10.この発見が無かったらあなたは今どうしておられますか?
実験が好きなのでもちろん研究者を続けていると思いますが、職を得られているかどうか、少し不安です。それでもこつこつと論文を書いたと思うので、何とか生きているでしょう。昼間は医者、夜と週末は研究、の生活になっていたかもしれません。

11.あなたの発見によって大金持ちになったらどうされますか?
BLT1, 2では大金持ちにはなれるとは思いませんが、もしそうなったら、という前提で。岩登りが好きなので、自宅にクライミング練習用の人工壁を作ります。学生時代に頂上直下まで迫りながら登れなかった世界第二の高峰K2(8611m)にもう一度挑戦します。(エベレストは老後の楽しみに取っておきます。)児島先生に比べると夢が小さいかも?

12.(ベテランは)若い人へのメッセージ。(若い人は)ベテランへの苦言など。
若い方には言いたいことが沢山あります。
プロ意識と積極性が足りない。自分の実験を本当に自分の仕事だと思ってるのかな?と感じます。これだけ簡単に情報が手に入る時代なのに、自分から実験を考えて工夫をしたり、論文を読んで感動したりする姿勢が足りないと思います。実験量もとても少ないと思います。また、あまりにも周囲から与えられる生活に慣れ過ぎているように感じます。「○○の結果が出たのですが、次に何をやりましょうか?」と良いにくるのは恥ずかしくないですか?せめて「○○の結果が出たので、次は××をやりたいと思います。」位は言って欲しいです。自分で調べて、自分で実験を考えて、自分で実験条件を工夫して、自分で実験をして、自分で論文を書いて、自分で学会発表をして、ようやく「研究者として就職する資格」ができるのです。「職が無い」と文句を言う前に、研究者として生きていくために自分に何が足りないのかを考えた方がいいと思います。「横溝先生、こんな事も知らないんですか?」と言ってくれる大学院生が1日も早く登場することを祈っています。

13.ベテラン(というより、研究費使用規定を作っておられる方々)へのお願い
もう少し研究者を信用して欲しいと思います。一部で流用が指摘されているからだと思いますが、単年度決済、年度末の使い切り、用途の限定、など研究活動を制約する方向の規制が多すぎると感じます。例えば高額機器の導入にあたっての(国際)入札制度などは、事実上形骸化しているにもかかわらず、大量の書類の準備が必要で時間の無駄です。私たち研究者は、限られた予算の中でいかに良い機械や試薬を選択するか、常に真剣に考えています。研究者が選んだ機器類の導入にあたっては、無意味な書類の作成の手間を少しでも省いて欲しいと思います。私たち研究者は研究そのものにできるだけ多くの時間を使いたいのです。また、最近顕著になってきた「応用重視の研究費配分」にも疑問を感じます。すぐには応用に結びつかないように見える研究が、結果的には大きな社会への利益をもたらしたことの方が多いように感じます。「応用」を前面に打ち出した研究の多くは表層的で基盤がしっかりしておらず、砂上の楼閣であるような印象を持っています。特許申請の推奨は結構ですが、研究者の特許申請のサポートをする体制をもっと作って欲しい。特許を取ることを奨励するのであれば、特許申請に要する費用を研究費以外から出せるようにすることと、特許申請の書類の作成を任せられるレベルの人材の配置をお願いしたいと思います。


蛋白質核酸酵素 2001年10月号 私の学位論文

蛋白質核酸酵素「横溝君、地図を作る仕事をしようよ。」この言葉が私の大学院時代を象徴している。医学部を卒業し産婦人科の医師を3年間勤めた後に臨床医学系の大学院に入学した私は「基礎研究」にはさほど興味がなかった。興味のある研究領域もなく「学位をとったら留学して、あとは臨床医」として生きるつもりであった。上から言われるままに生化学の研究室で実験を教えてもらうことになったのだが、そこで出会った清水孝雄教授の口癖が「地図を作る仕事」であった。ロイコトリエンB4(LTB4)はアラキドン酸から生合成される生理活性脂質であり、強力な好中球の活性化因子として知られていた。分解系の研究も行われており、好中球に存在するチトクロームP450のあるサブタイプによって不活性化されることが既に明らかになっていた。欧米の研究室からはこれ以外の代謝経路の存在が示唆されていたが、代謝物の構造式もわからないという段階で未知のLTB4代謝系を探すことになった。「なぜこの研究テーマを選んだか」の答えには、恥ずかしながら「そう教授に言われたから」としか答えようがない。

代謝産物がわからないので、もちろんアッセイ系はない、どの臓器に活性が存在するのかわからないという条件はかなり手強いものだった。モルモットの様々な臓器をすりつぶし、LTB4と反応させ、脂質抽出して液体高速クロマトグラフィー(HPLC)にかけることから実験を始めた。確かに基質のLTB4は減少しているので何らかの物質に変換されているらしい。しかし変換後の構造がわからないのでどうやって検出できるのかがわからない。全く実験が進まないまま半年が過ぎたころ、「どうやらLTB4よりも疎水性の高い物質に変換されるらしい。共役二重結合が二つになるので235 nmで検出できる」という論文が発表された。この系をモディファイし、腎臓の細胞質画分に補酵素NADPを加えてLTB4と反応させることで、235 nmに最大吸光をもつ代謝産物(Met-A)が観察できるようになった(図参照)。ここまでで一年。材料をモルモットからブタの腎臓に代えてタンパク精製に入る。品川の食肉処理工場に通ってはブタの腎臓を分けてもらい、すりつぶして超遠心、硫安沈殿を繰り返した。しかし精製を進めるうちに酵素活性が消失してしまう、いわゆる「はまった」状態になった。ここで清水教授の経験がものを言った。「中間産物があると思う。二つ以上のステップでMet-Aになっているはず。別の波長を探そう。」最新型のHPLCを買ってもらいスキャンすると確かに316 nm(共役二重結合が4つ)に最大吸収を持つMet-Bが見える。これでゴールが定まった。LTB4をMet-Bに変換する酵素を精製するのだ。精製は順調に進んだ。最終ステップになるかもしれないという予感のあったアフィニティカラムの精製を終えて30本のアッセイを行い、自動化したHPLCにかけて家に帰った。ところが興奮して眠れない。あきれ顔の家内を置いて朝の4時に家を出て大学に戻った。早速HPLCのチャートから活性を計算するとタンパク質の吸光と完全に一致する。はやる心を抑えながらSDS-PAGEを行う。待ちに待ったシングルバンド!朝9時半に教授にゲルを見てもらう。「ペプチドシーケンスに入るように」との許可を得る。精製できたら論文投稿の予定であったが、代謝産物の構造が決まっていなかったため、再度大量の腎臓を用いて今度は代謝産物の精製である。マススペクトロメトリーとNMR解析を行うためには1 mgの純品が必要と言われ、分液ロートで酢酸エチルを振った。苦労して精製した代謝産物の純度が低いので解析できないと言われ、共同研究者と口論になったりしたこともあった。今では若気の至りと反省しているが、本人は必死だった。ようやく構造も決まり、代謝産物の活性がLTB4の100分の一になっていることを含めて、最初の論文をJBCに投稿する。「部分アミノ酸配列を公開すればアクセプトする」という返事をもらう。嫌々ながら部分配列をのせた論文が受理された。

すぐさまクローニングに入る。データがそろったころ、ずっと気になっていたことを教授に相談する。「酵素の回転数が遅すぎる。LTB4以外によい基質があるのではないか?」様々な基質を試してみるが、やはりLTB4以外には見つからない(*)。クローニング後の組み替え酵素も同様である。もやもやした気持ちのまま二報目のクローニング論文をJBCに投稿し受理された。 (*最近アメリカのグループから、12-oxo-ProstaglandinがLTB4よりも良い基質であることが報告された。)

終わってみればそこそこ順調に見える大学院時代であったが、内心は悩みも多かった。既に分子生物学が中心の時代になりつつあり、周囲ではプロスタノイド受容体や血小板活性化因子受容体の解析が分子生物学手法を用いて恐ろしいほどのスピードで進んでいた。そんな中でタンパク精製を地味にやり続けることの苦しさ。不活性化酵素の研究は研究人口が少なく、学会での発表で質問してくれる人もまれである。クローニングの最中には、「そろそろ病院に戻るように」という指示に従うことができず、ポストドクとして現在の教室に残ることになった。「地図を作る仕事-代謝経路を決定し、代謝産物の構造を決定し、その代謝酵素を精製し、代謝マップに新しい構造式と矢印を引く一連の仕事」は、大発見にはほど遠いながらもずっしりした手応えを持って私の一生を変えることになった。

「地図」はビッグジャーナルにつながっていた!

二報目の論文が受理された段階でアメリカ留学を希望した。インタビューに全米を回り、いくつかの研究室に絞った。どこも一年後からという返事だったので、時間つぶしに新しいテーマで実験を始めた。「5年間も地味な仕事をしてきたので、今回は「ばくち」をうちたい。サブトラクション(遺伝子引き算法)でLTB4受容体をクローニングしたいと思います。」研究室で10年以上にわたってはまりにはまっていたLTB4受容体のクローニングに「ばくち」で取り組んだわけである。本人も周囲も全く期待していない実験であったが、結果は大当たりであった。ロイコトリエン受容体のクローニングの世界の一番手となり、一年たらずの研究がNature誌に掲載された(Nature 1997, 387, p620-624)。受容体の転写調節を調べているうちに、ゲノムのすぐ隣に類似した受容体遺伝子があることに気づき、これが第2のLTB4受容体であることも証明することができた(J. Exp. Med. 2000, 192, p412-432に連報)。こういった仕事が短時間の内に進んだのは、大学院時代のタンパク質精製で身につけた考え方や技術に負うところが大きいと考えている。

「地図を作る仕事」は確かに地味な仕事だったが、研究に必要な手技や考え方を身につける上での最良のレッスンだった。タンパク質、脂質の取り扱い、様々な機器を用いた構造決定などはもとより、「他人の論文からではなく、自分の実験結果からものを考え、行動する」という研究姿勢は「地図を作る仕事」を通じて身につけることができた自分の大きな財産である。気の進まない地味な研究でも、「自分の仕事」としてとらえて真剣に努力すれば、いつかは大きな恩返しをしてくれるのではないかと思う。大学院の学生さんには「やり遂げること」「論文にまとめること」の大切さを強調したい。長い目で見守り、時には厳しく、常に的確な実験上のアドバイスを下さった清水教授に感謝するとともに、自分もそのような研究指導者を目指して努力したいと考えている。

CBL2019@Tokyo

Bioactive Lipids in Cancer, Inflammation and Related Diseases

 リポクオリティ (lipo-quality)

生命応答を制御する脂質マシナリー

基礎研究医養成のための順天堂型教育改革

High affinity FLAG Ab 2H8

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