一章、はじめに

これを書くのにあたり、京都のある和尚様に以前、「あなたの、人生のフリカケは何ですか?」と言う何とも含蓄ある問い掛けをされた事を、きっかけとしていることを、このエッセイをお読みになられる皆さんには留意して頂きたく思う。なぜなら、これから私はこのエッセイを進め行く中で、本当のフリカケを求める旅に出ようと思っているからである。「もしかしたら“正露丸や唐辛子”のように辛いものだったらどうしよう!」と言う不安もあるが、「絶対“海苔玉やチリメンジャコ”のように“ご飯ならぬ人生もう一杯!”と言えるものだと信じて行こう!」と思うように頭を切り替えることとした。 ところで問い掛けをされた時の後、「俺の人生のフリカケはこれだ!」と言うものを見付けている。だがこのフリカケは時の経過とともに、生きて来た道程つまり“我が人生”の事を振り返っていなかったことに気付き、完璧なものとは思えなくなった。
ゆえこれから私は、繰り返しとはなるが、「これが“本当の『人生のフリカケ』”!」と言うものを見つける旅にでることにする。生き行く道、つまり私が思う当エッセイ内の重要なる言葉、出会い・生き甲斐・生きるを求めながら。
この旅は、どんなにやろうが無料である。お読みになられる皆さんも、もし宜しければお付き合い頂きたく願う。

二章、我が人生とは?

その1、田舎の少年

当エッセイのキーワード“出会い”・“生き甲斐”・“生きる”から、同じくキーワード“本当の『人生のフリカケ』”を求めるには、ここで私の人生を“舩後流の計算を用いて”振り返らなくてはならない。なぜなら、その後に“本当の『人生のフリカケ』”と言う結論があるからだ。では、その計算をご紹介しよう。それはこれだ。

(『過去辿って来た道程』+『出会い』)×『生き甲斐』×『生きる』=『人生のフリカケ』

である。この計算で、人生を振り返り且つ結論を導き出すのだ。勿論これは私流の計算式なので、計算に用いる言葉や算式は皆さんの自由である。などと言いながら、実は私は数学は言うに及ばず算数さえも苦手だ!もしかしたら“本当の『人生のフリカケ』”ならぬ、何か他のとんでもない結論を導き出すかもしれない、皆さんご用心を…!

小学校二年の頃の私は、岐阜の単線にディーゼル列車がのどかに走る田舎に住んでいた。実は、転校生だった私は、ありがちだが人間の友達は無く、遊び相手と言えばもっぱら近所を駆回る野良犬と私を追い駆けて来る豚や蝶だった。でも、私は寂しくなどなく、むしろ楽しくさえあった。それは、それらの愛する動物たちが、私の傍や通学路にいてくれたからだ。
‐そんな田舎の少年が、突如として目黒と言うアートコーヒーの香り漂う都会に越した。その時期私は、はじめて自分の裏の一面を知ったのである。それは、転校した小学校のクラスの苛めとも言える歓迎を受けた時の事だった。それを指揮した担任の教師に逆上した私は、思いっきリその教師の足を“田舎の餓鬼を舐めんなよ”とばかりに、二回・三回と蹴り上げた。クラス中が、サーファー泣かせの凪ぎの海のように静まり返ったばかりではなく、その教師も黙り込んだ。それが原因で放校になったかは母も忘れているのか言わないので、私は未だに知らない。だがその後暫くして松戸に移り住んだところをみると、もしかしたらそうなのかも知れない。

その2、心の裏〜安住の地でやりたい放題

私たち家族は演歌矢切の渡しでも有名な、江戸川の冷やかな風にさらされる松戸の矢切町から、その後四十年以上に渡り住む私にとっては安住の地と言える、暖かくのどかな稲毛海岸へと移り住んだ。そして私と姉は、稲毛第二小学校と言う所謂新設校の四年と六年に転校した。その学校は皆が皆、転校生と言う事もあり、誰か一人だけがつまはじきにされるようなことはなかった。
余談だが、その時出来た友人二人とは、長いブランクはあったが、皆が五十ニ歳になった今もアコースティック・ロックのライブを、エンヤコラとやっている。二人とも腕前は鮨屋の板さん並にプロ級なので、いつまでたってもヘボ詩人のままの私は少々臆している。 話を進める。元々独りで動く事が好きな私は、転校したその時も読書クラブと言う独りになれる必須のクラブに所属した。一方裏では、クラスメートに喧嘩を売り徹底的に痛めつけた。今にして思えば、何であんな残酷な事をしたのだろうと、反省とともに悔んでいる。今もし彼に会えれば、心から謝りたい。

そして姉同様そのニ年後、私も稲毛中学と言う地元の中学に入学した。若い頃の姉は、その美貌と人に嫌われない穏かな性格がうけたのか、不思議なほど教師にも学生にももてた。と同時に私はある教師に姉と比較され、性格は無論姉に軍配が上がるのだが、成績だけは同じ位だったにもかかわらず、劣等生と言うレッテルを貼られてしまった。そんなレッテルを貼った教師を内心、つまり心の裏では恨み逆上していた。だが、ある日「舩後は腕相撲がかなり強いらしい…?」との噂を聞きつけたその教師が、腕相撲を挑んで来た。スボーツマンだったその教師に勝てるかなとの不安が頭をもたげたが、とにかく私は精一杯の力を込め勝負に臨んだ。すると結果は、、、私が力を半分も出さないうちに勝ってしまった。言い換えれば、私が圧勝してしまったのだ。私は心の裏では「ザマ〜ミロ」と舌を出していたのだが、表面上は大人しい学生を装っていた。その教師は「こんな大人しい奴に俺は負けたのか。悔しい!」と、思ったかはわからないが、それ以来私と姉を比較しなくなった。

思えば、その頃から私は、裏と表を使い分ける汚い奴になり下がってしまったのだ。

その3、路地裏の少年(by浜田省吾)

からくも滑り込んだ千葉県立千葉南高校の二年後輩には、あのDSの作者である東北大学未来科学技術共同研究センター教授の川島氏がいた。彼が卒業生の優等生代表格とするなら、両親には本当に申し訳ないのだが、私が劣等生代表格であろう。その頃の私の様子を、お恥ずかしいのだが、我が人生を振り返るのに必要なので語るとする。千葉南高校時代の私はと言うと、エゴの塊の如く周りの迷惑を省みず、エレキギターを毎日朝方まで弾きまくっていた。当然ながら学校はほぼ毎日遅刻、成績も授業で先生のお話しを子守唄にし、夜から朝方にかけてのギター特訓に備え寝ていたのでいつも成績クラスビリの、所謂落ちこぼれであった。言うまでも無いが、母は担任に呼び出され懇々と何かを言われた。母はそれでも私には何も言わずに微笑んでいたので、担任から何を言われたかは今も知らない。ただその度に、夕食(ユウゲ)の支度をしながら流しのシンクに、頬を伝って落ち行く滴を溜めていた。もっとも、切った玉葱をわざと目にしみさせ涙を出し、私に反省を促がす母の作戦だったのかもしれないが…?

ところで当時の私は、“俺はギタリストだ!”といきがり、まるで鳥の巣のようなロングヘアーに七センチものヒールシューズに加え、姉のフリフリ付きシャツを着、ギターを肩に、くわえタバコと言ういでたちで街を闊歩した。そして、土曜日の午後ともなると呑んだくれて、側溝に突っ伏して嘔吐しまくっていた。当然ながら私は、住まい半径三百メートルで“不良”と言われていた。そんな私を見咎めた地元の政治家に間接的にだがお叱りを受けた時や、タバコで“こんなやからは天罰を受けよ”とばかりに補導された時に加え、淡い恋心をいだいていた目がクリクリの同級生にジッと見つめられ、私の姿からそう思ったのか「ねぇ、マリファナって美味しいの?」とマジマジと訊かれた時には、流石に目の前が漆黒の闇と化し、貧血気味の痩身がゆえその場でガクリと倒れそうになった。タバコやいでたちの事は言い逃れ出来ないが、私はマリファナなどそのやり方も知らないし、ましてやったことも無い。当時の私は、裏表はあったが(※お恥ずかしい)ワルでは決して無かった。まあ、当世風に言えば“チョイワル”と言ったところか?いやいや、それほどでもない“エゴイストでギター好きの「路地裏の少年」”だった。
実は始めて語るが、私はクラスの極一部の女生徒から“ドンファン”と呼ばれ軽蔑されていた。これは、当時お付き合いしていたクラスのある女性にふられたと思い込み、相手の気持も聞かぬまま軽率に別れを告げてしまったからだ。すると優秀だった女性の成績が、かなり下がったと聞いた。エゴイストの私も流石に心配になったが、その女性には己の軽率さから近かずき難く、とうとう話掛ける事が出来なかった。全身麻痺になった今はただ、女性の幸せを祈るのみである。本当は、会って詫びたいのだが…。

このように私は、逆上し易く裏表がある性格に加えて軽率さもプラスされ、中学時代より更に下らなく汚い人間になり下がってしまったのである。幸い私のような人間でも、恩情からか卒業させて貰えたのだが、そんな輩に未来が微笑む事などあろう筈もなかった。言い換えれば、あのロック歌手“浜田省吾”のこの項のタイトルと、同名の曲の歌詞にあるように、「行き止まりの路地裏」に迷い込んでしまったのである。これを「性格だから仕方が無い」と、諦めてしまえば気楽だ。でも、それでは私と言う人間はいつまでたっても「路地裏の少年」のままである。。
まして大学時代には、ますますその“人の迷惑を省みず、我が道を行く”つまりエゴイストの性格が色濃くなり、バイト先の荒くれ者に「殺してやる!」と喧嘩を売られた事も何回かあった。そしてとうとう二十二歳の時には、仕事仲間に気づかぬうちに背中を刺されそうになってしまった。その時は、元ボクサーの屈強な人に助けられ、大事には至らなかったのだが、流石に我が性格に悩んだ。
ところがそんな悩みがあった事など忘れてしまったその十六年後、狙いはあったのだが突如として十四年間に渡りお世話になった会社を辞め、印度・欧州に二ヶ月間のブラリ旅に出てしまったのである。エゴイストらしく、妻子を日本に置き去りにして。だが!そんな我侭な旅をしてからの四年後、「行き止まりの路地裏」から脱せられる思わぬ出会いが私を待っていた。

さてここまでで、私の人生を振り返り結論を導き出せる計算つまり、“(『過去辿って来た道程』+『出会い』)×『生き甲斐』×『生きる』=『人生のフリカケ』”の内の、『過去辿って来た道程』の半分までの検算が終ったとお考え頂きたい。

三章、出会いの場からの生の創造

その1、ALSとの出会い

二〇〇〇年五月某日、その日私は病院のベットの上にキチンと正座をし、最近日常はもとより仕事にも支障をきたすようになった・腕の麻痺と痛み・転びやすさ・舌のもつれなどの検査結果を、入院時担当医から聞いていた。
その内容はと言うと、「あなたの冒された疾患は、神経性の難病の『筋萎縮性側索硬化症』、通称ALSです。この病気は、発病後、平均三年から四年で呼吸が出来なくなり、その時点で患者さんは人工呼吸器で延命するか、そのまま人生をまっとうするかのどちらかを選択します。また、症状の一つとして筋肉の麻痺があります。これはやがて全身から、人によりますが眼球にまで及び、逃れる手立てはありません。つまり、人工呼吸器で延命したとしても、全身麻痺で寝たきりになります。加えて、一度装着した人工呼吸器は、どんな理由があっても、あなたが亡くなるまで外せません」と言うものであった。
入院時担当医もALSだとは言いづらかったのか、ゆっくりとした口調による告知であった。また言い忘れたのか、「将来舌の麻痺により口から食べることが出来なくなるので、手術で腹に孔をあけくだを通し、そこから栄養剤を流し入れるようにします」との大切な告知は、その時はされなかった。。
ところで、告知を聞いている途中から私は精神的ショックからか、またそれによる体調の異変からか、視界がまるで筒でも覗いてるが如く狭まった。また、耳も遠くなりだしたように感じたのだが、なぜか入院時担当医の死刑宣告だけははっきりと聞こえていてやがて、「麻痺」「寝たきり」「死ぬ」などの言葉の数々が竜巻となり、ワンワンと私の頭の中を駆け巡ったのである。そんな状態の中、何気なく見た窓越しの景色は現実味がなく、堪え切れずにじみ出した涙のためか、まるで輪郭の曖昧な出来損ないの絵のようであった。表面上は平静を装いながらも、「いやだ!そんなことなどあるはずがない」と私は、心の中で狂わんばかりの絶叫を発っしていた。その体調と精神状態を無理矢理押さえつけ私は、一つだけ質問をした。「呼吸が停止し死ぬ時は、苦しむのですか?」と。すると入院時担当医は、「意識が朦朧となり、静かに息をひきとります」とだけ答えた。それを聞き私は安堵を覚えた。

その頃の私は、不況の影響で金額こそ半減されたものの、予算1億円の中で、宣伝とPRを担う者として日中は、ラジオ局・テレビ局・雑誌社をより良いと言うか、よりお得な宣伝媒体を求めて駆けまわっていた。
また同時に会長の温情で、復職させて頂けていた会社の社長のアシスタント、並びに広報担当者として海外とのやり取りもしていたので、夜はほぼ毎日A4サイズの紙一杯に誠にへぼな英文をパソコンでタイプし通信をしていた。加えて、二月(ふたつき)ないし三月(みつき)に一度はスイス・イタリア・香港などに出張をすると言う、言うなればビジネスマンとしての頂点が見え来た頃であったのだ。
それだけに、告知により知り得た我が人生の見えない落下点が、多くの英霊が没している南方の海のように深い悲しみと絶望を生み、私はその場で延命拒否を決めたのであった。ところでその意志決定には、“呼吸が停止し死ぬ時は、意識が朦朧となり静かに息をひきとれる”と言う、告知による安堵感が手伝った”ことを、申し添えさせて頂く。だが、実際のところはどうなんだろうか?

その2、ある医師との出会い“絶望と怒りそして優しさに感激”

そんな、私にとっては死刑宣告とも言える告知が終った後の夕刻、検査担当であった研修医が私を気遣いそっと様子を見に来てくれた。そしてこう話した。“千葉東病院(※現:独立行政法人国立病院機構千葉東病院)”の今井先生のもとへいらしてみて下さい。 色んな生き様を知って頂けます。どうか“延命を拒否する”などと結論を急がないで下さい。実は、私の亡くなった父もALSで、千葉東病院の今井先生が主治医でした。その父が入院した時、今井先生の“生きかたの指導”の素晴らしさを知り感動しました」との事だった。
話の内容はこれだけだったのだが、私はふと見た彼の顔を見て驚いた。真っ直ぐと私を見据えた目に、涙を浮かべていたのである。その時の彼の思いは判りようも無いが、その真剣さは痛いほど伝わってきた。と同時に、「ただ検査をしただけの患者に、これほどまでに親身になってくれるとは…本当にありがたい」と、妻子を置き去りにして旅をしたエゴイストの私としては始めてと思えるほどの、深い感謝を心中でではあるが彼に捧げていたのである。そんな彼の説得もあり、二〇〇〇年六月私は千葉東病院へ行ってみる事にしたのであった。

大学病院へ検査入院をした翌六月、私はいつもの如く妻の運転する車で、その時初めて診療を受ける千葉東病院へと向かった。カーナビの指示に従い行ったその病院は、なんと私がからくも卒業した千葉南高校の近所にあったのだ。その土地との縁に少し驚きながら受付を済ませ、呼び出されるのを待った。1時間ほど待ちそして出会ったのが、その二年後私の生き方を方向づけた、今井神経内科医長だった。
実は、私にとって今井医師の診療は、信じ難いほど厳しいものでまず医師は、根拠は無いが私が一抹の望みを持っていた治癒への希望を、これでもかと言うほど打ち砕いた。つまり、不治と言うことを徹底的に私に自覚をさせたのであった。その時の私と言うと、油汗が噴き出し顔面は蒼白、その場で息絶えても不思議ではないと言うほどのショックを受けていた。と、後に妻が教えてくれた。ゆえ、その時医師が具体的に何を言われたかあまり記憶が無い。ただ話の結論の、“ALSは不治である”と言う部分だけが、“ALSは不治”“ALSは不治”“ALSは不治”と言う、声にならない御念仏のような呟きから、最後には無声の叫びとなり私の頭の中をパンパンに埋め尽くしたのである。今思えば延命しないと決めていたのに、あさましくもあり情けない。

そんな醜態をさらした翌七月、私は再び今井医師のもとを訪れた。
その時医師は、それまでの私の人生を全面的に否定した。思わず逆上し、瞬間湯沸し器と化した私は、小学校時代さながら今井医師の足を思いっ切り蹴り上げた。だが、悲しいかなそこはALS患者、医師を蹴り上げたと思った足は、力無くピョコンとしただけだった。でも私は、力の続く限りピョコンピョコンと蹴上げていた。
そんな怒りを二年も燻ぶらせていた時、私は見た!今井医師の真の姿を。あれは、千葉東病院内で行なわれた、日本ALS協会千葉県支部総会に参加した時の事だった。その時、広島からお招きしたご夫妻の内、奥様がALSの方の頑張られる姿を旦那様から聞いた折り、人目もはばからず、オイオイ泣いたのだ!
私はそれを見、医師の優しさに感動した。勿論、人を一面だけから見るのは良くない。それは、私ごときでも判る。だがこれは、医師対患者の構図である。だから、患者である私が、こんな思いを抱いてもかまわないのではないか。ゆえ今井医師は、多くの患者と同様私にもその優しさを向けていたのだと確信している。思い返せば医師が、その1年11ヶ月前に私のそれまでの人生を全面的に否定したのは、「いつまでも過去にこだわっていると、あなたは未来を掴めませんよ」と言う事を私に言ったのだ。ただ残念ながら、その時の私は人工呼吸器を装着せず、自然に息をひきとるつもりにあった。したがって、私にとっては過去が全てであったのだ。

その3、“出会い”そして“生き甲斐”を見つけ“生きる”を決め

二〇〇二年五月私は、この三章の1で触れた胃瘻の手術を受けるために千葉東病院に入院した。その時今井医師から、「新しくALSの告知を受けた人に向け、何かアドバイスになる事を書き、それを聞かせる所謂ピアサポートをしてみたらどうか?」との提案を頂いた。
その時は“患者が患者を支える”と言う意味を持つ、“ピアサポート”という言葉さえ知らなかったのだが、それを実践する事が他のALS患者さんに役立つことであるならとやってみる事にした。話はそれるが、その頃の私は延命拒否者であったので、いささか気乗りがしなかったことも事実である。
話を戻す。そして、多くのALS患者さんに会う事により判ったことがある。それは、例外なく告知を受けた直後のALS患者さんは、以前の私のような絶望の感情に囚われている事に加え、現実逃避の感情に支配されていると言う事である。
確かにこの病気と正面から対峙する事、それは“全身麻痺になる事や延命せねば死ぬ”と言う事を自覚せねばならないことなので、並大抵のことではない。絶望の淵にある事、それは当たり前なのである。かく言う私も、お恥ずかしいのだが、対峙していたとはとても言えない。もし対峙していたのなら、告知を受けてからの二年間で知り得られた筈の、ALSの諸先輩方の多岐に渡る活動から、多くを学び感動し“延命する”との意志変更をとっくに医師に伝えていた事であろう。ただ、残念ながらその時の私は、病気の事は言うに及ばず方々の活動からも目をそらしていた。
だが、ピアサポートも回を重ねる内にそれをする事が楽しくなったと同時にあらためて申し上げるが、ピアサポートと言う“生き甲斐”を見つけられ“生きる”気力が湧いて来たのだ。そこで思った事がある。それはこれだ。「自分自身が延命して、人に尽くすと言う“生き甲斐”の元、幸せにならなければ、俺がしているピアサポートなど単なる患者による、ALSになってからの苦労話に過ぎず、愚痴ほどではないが無意味だ!」と言う事だ。 そして、ピアサポートの事に端を発した“生きる”との思いは、瞬く間に私の心の中で、大袈裟なる言い様で恐縮だが心を突き破る気球船サイズまでに膨らんでいったのである。 そこで、あらためてその意志をつまり“生きる”との思いを固めるために、二〇〇二年六月末頃今井医師に延命する事を伝えたのだ。その時今井医師は、良かったとばかりに微笑んでいた。
その後、私の“生き甲斐”も講演・ライブ・短歌と増え、ますます“生きる”意欲が湧いて来たのである。今井医師と出会えて、心より心より良かったと思っている。ここでお断わりするが、今井医師は“生き方の指導”をその診療の主体にしているだけで、私に延命を勧めた事はない。医師とは、人生をまっとうする人も延命を決めた人をも尊重する、思えば、本当に公平で優しい先生なのだ。裏と表がある私ごときでば、とうてい真似など出来ない。

ところで、まだ三章の4更には四章とあるのだが、ここで二章特に三章で私が申し上げたかった事をまとめてみることにした。
するとこうなったのだがこれは、このエッセイのキーワードの一つの『生きる』の結論にあたるので、是非!お読み頂きたい。

「人は、偶然にせよ必然にせよ出会った人が、“生き甲斐”をもたらせくれる事が多々ある。そして、その掴んだ“生き甲斐”を継続してやる事によって、更なる“生き甲斐”を手に入れたき事となるのだ。これにより、難病の人なら“生きる”との気持が、大河が溢れるが如く湧き出て来るのである。また健常者なら、その“生きる”との気持が意識せぬところで、その健常者の“生き甲斐”を追求させる事になる。そして、それが確実なものとなったら更なる“生き甲斐”を加えるための原動力になるのである。
そこで、このまとめの締で申し上げたい事それは、“出会い”こそ大切にしなければならないと言う事だ。
これは、これまで語り来た私のエゴイストぶり、つまり高校時代には勝って気侭三昧に生きたあげく、補導されたり軽蔑されたりまた、大学時代には「殺してやる」と喧嘩を売られたりさらに、社会人になりたての頃には仕事仲間に刺されそうになった事などから、お分かり頂けた事であろう。
とにかく“出会い”を大切にしなければ、とうてい“生きる”など掴めないのだ。」。

これにて、二章及び三章のまとめを終わりとする。

その4、抜け殻くん

ここで、私が心底感動したショートエッセイをご紹介しよう。これは、私の友人で某県で介護士をしている女性が書いたものである。彼女は、私舩後の難解過ぎる短歌の心を、いともあっさりと紐解いてしまう。例えば、これは解からないだろうと、挑戦的に作歌したものでも解かってしまう。私はそんな彼女の能力に、いつも舌を巻いている。では、早速お読み頂こう。

エッセイ/『抜け殻くん』

『生』を持ってこの世に産まれてきた者には、絶対に『生きたい』という願いがあるように思えてならないのです。例えどんな形になろうとも、それが本質なのではないかと。

夏休みに入る前、職場から駅までの歩く道で出会った出来事をお話しします。一日の仕事を終え、職場から駅まで歩いている時のこと。夕方になっても暑い日でした。神社の脇を通りがかったところ、電信柱の下に蝉の抜け殻が落ちていました。この時期は珍しいことではありません。通り過ぎようとした瞬間、逆さまになっている体に付いた足が動いたような気がしました。一瞬、驚きましたが「まさか抜け殻が動くなんてことあり得ないよねぇ」と思い、一度は通り過ぎました。しかし、どうしても気になり引き返してよくよく見ようと体を屈めてみると…。抜け殻から確かに『生きている目』がこちらを見て、起き上がろうと足を動かしているではないですか!!成虫になろうと殻を脱出する時に風で飛ばされてしまったのでしょうか。
「これは大変だ!」と、近くに落ちていた桜の葉を使って(虫が得意ではないんです(>_<))ひっくり返してあげると真珠色に輝く新羽根が飴色の鎧の中にうっすらと見えています。そして黒くつややかに輝く生気を持った目が言っているのです。『生きたい』と、私にはそう聞こえました。「何とかして助けなければ!」半ば使命感に駆られて、その抜け殻くんを拾い上げ、蝉の抜け殻がよく何かに掴まる形で置き去りにされていることを思い出し、神社を囲うツツジの枝に掴まらせようとしました。しかし、なんと左手の先端が潰れていてうまく掴めず、右手だけでは体が回転してひっくり返ってしまうのです。それでも抜け殻くんは必死にツツジの枝を掴もうともがいています。やはり『生きたい!!』そう言っているのです。強い思いをどうにかしてあげたくて、カラスに狙われないようツツジの影に抜け殻くんを隠し、何とか枝に掴まれるよう体が倒れそうになる右側に木の枝を置いて固定しました。私に生きるお手伝いが出来るのはそこまでです。あとは抜け殻くんの生命力に賭けるしかないと思い、その場を後にしました。
どうしたかなぁ、抜け殻くん…。翌朝、その神社に近づくと蝉の声がたくさん!!「この中に抜け殻くんがいるといいなぁ」と思いながら、出勤したのでした。あんな小さな虫からも生きようとする強い意志を感じ取った暑い熱い夏の一時でした。【海】
「『生』を持ってこの世に産まれてきた者には、絶対に『生きたい』という願いがあるように思えてならないのです。例えどんな形になろうとも、それが本質なのではないかと。」

私は、このショートエッセイの冒頭の一節に深く感銘している。なぜなら、この前のその3で私が繰り返し申し上げた、“生きる”の、彼女が言うようにまさに本質だと思うからである。
また、このショートエッセイ全体に渡り感銘する所が多々ある。例えばこれもその3で、私が大切にしなければならない事と申し上げた、“出会い”の象徴とも言える“抜け殻もどきの蝉くん”との出会いの場面だ。これを彼女は、「(蝉の)『生きている目』がこちらを見て、〜後略」と、書き表している。私は思う。生き物つまり人・魚・獣・鳥・虫は、本能的に“出会い”と“生きる”を欲していると。ゆえ、彼女が書いた「(蝉の)『生きている目』がこちらを見て〜中略〜『生きたい」と私にはそう聞こえました。」と言う表現は、まさに的中していると思う。その他にも、感銘している所は沢山あるのだが、この辺でやめにしておこう。
ではここその4で、私が申し上げたかった事をしつこくなく述べよう。ご安心を!早速だがこれだ。「エッセイ“抜け殻くん”のように、蝉でさえ人との“出会い”があれば、“生きる”助けて!と目で訴えかけて来る。それがまして人間なら、誰かとの“出会い”があれば、大声で“生きる”助けて!と言うべきであろう。それが生き物の本能であり、悩み苦しみがあれば無理矢理心の奥底にしまい込む必要などない。でないと、二〇〇〇年五月から二〇〇二年五月の私のように、ALSから来る絶望感によって“死にたい”と願い、二年もの間延命拒否をし続けてしまうものなのである。」と言う事である。

ところで、しつこくなるがここまでで、“(『過去辿って来た道程』+『出会い』)×『生き甲斐』×『生きる』=『人生のフリカケ』”の、計算の答えである『人生のフリカケ』から更に導き出す“本当の『人生のフリカケ』”とは何か?を残すのみである。

四章、人生のフリカケ

その1、ヒラ目

これは、魚の平目と言う意味ではなく、またミステリアスな作家、ロブサン・ランパが書いた、チベットのラマ僧が持つ「第三の眼」と言う意味でもない。ただ、我が人生を振り返らず見つけた、完璧ではない『人生のフリカケ』を、即座に心から呼び出す事が出来る標語と捉えて頂きたくお願いする。
実は、それはテレビで見た「船乗りシンドバットの冒険」に登場した、第三の眼を手の平に持つ魔女さんから思いついたものである。天才的頭脳をお持ちになられている方から見れば、本当に下らなく感ずる事であろう。しかしながら、私ごとき人間にとっては、実に愉快で心の底から『人生のフリカケ』を呼び出し易いのだ。
ではまず、その『人生のフリカケ』をご紹介する。それは完璧ではないと書いたが、今現在の人生をより良く生きるためには、まんざら捨てたものでもない。是非!次をお読み頂たく平伏す。

「どんどん土足で上がり込んでくる傍若無人な輩にも、相手の気持と立場を笑みを持って思い遣れば、怒りも湧かなくなる事であろう。」

と言う、至極単純なものである。だが、私はこれにより最近、三十五年に渡り悩んでいる薄毛の事以外では、怒りが湧いてこない。また、ある人には性格が丸くなったと言われた。これは、エゴイストから脱せられた事を意味し、私にとっては実に嬉しき事である。後は、髪を濃くするのみだ!ヒヒ、バンザーイ!おっと、失礼話がそれた。お許しを。

その2、本当の人生のフリカケを求め

さて、後はこの2を残すのみである。言わば、私の遺書だ。これを読まずば損をする!などと言うのは、実は皆さんに当エッセイの最後までを是非!お読み頂きたいだけなのだ。お許しと共に、暫しのご辛抱をお願いしたい。

話を進める事にしよう。さてここまでで、七歳から四十三歳末までの約三十七年間にも渡る旅をしてきたと言うわけだ。この長き旅をした末、ようやく“本当の『人生のフリカケ』”と言えるものを見つけた。実は当初私は、『人生のフリカケ』とは今現在の人生をより良く“生きる”ための、エッセンスやスパイスのようなものと捉えていた。私はそれも絶対間違ってはいないと思う。だがそれだけを強調してしまうと、あたかも“ヒラ目”のように今現在の人生をより良く“生きる”ためのものだけが、正しいと思われてしまう。そうすると、ようやく見つけた“本当の『人生のフリカケ』”を語らぬままに、私の過去には『人生のフリカケ』はなく幸せではなかったのか、と言う疑問が当エッセイをお読みの皆さんに持たれてしまう。
ならと、二章で申し上げた事をあらためて簡潔にお伝えしよう。では始める。学生時代には、世間からは、不良とか落ちこぼれとか陰口を叩かれ両親は泣かせたかも知れない。だが、私自身は小学校・中学校時代に“出会った”仲間たちと、バンドと言う“生き甲斐”を追及し“生きる”事をエンジョイしていた。会社員時代もしかり。ALSを患ってからは今井医師と“出会い”、ピアサポートを皮切りに講演・バンドライブ・短歌と次々に“生き甲斐”を手に入れ、今は“ヒラ目”で相手を理解しながら“生きる”事を自分なりに満喫している。
これで、お解かり頂けたであろうか?つまり、その都度私には“生きる”をエンジョイする事が出来る、“出会い”がもたらせくれた“生き甲斐”があったのだ。だが、その都度の『人生のフリカケ』を詳細に語る必要などない。なぜなら、その『人生のフリカケ』の後には、その時代事に同じ“本当の『人生のフリカケ』”が綿々と流れていたからである。 それでは、“本当の『人生のフリカケ』”と言えるものをお伝えしよう。それは、“(『過去辿って来た道程』+『出会い』)×『生き甲斐』×『生きる』=『人生のフリカケ』”の内の、『“出会い”・“生き甲斐”・“生きる”の繰り返し』である。 これを、過去から未来へと、ダイスの如くその都度転がすのだ。
正直に申し上げると、実はこの算式は私がここは笑い所と書いただけで、当エッセイの結論である“本当の『人生のフリカケ』”を考え付いたのは、三章の3を書いていた時である。もっともこの事は、一章で予定していた通りのことなので、なんら問題がない。 では、最後にもう一度“本当の『人生のフリカケ』”をご紹介しよう。

“本当の『人生のフリカケ』”それは、 『“出会い”・“生き甲斐”・“生きる”の繰り返し』である。

その3、元気が湧き上がるおまけ

この3を載せるべきか否か、かなり迷ったのだが。私の健康状態も知って頂く事も必要と考え記すとした。私は今、毎分二百三十回にも及ぶ頻脈と胆石の激痛を薬で抑えている事に加えて、不整脈と繰り返し起こる下痢にも耐えている。まして、人工呼吸器が外れたら約2分で死んでしまう。
そんな私だが、周りの皆さんの、「私は死んでも行く!」との強固なる意志に応えてくれて、今のところこうして外出出来ている。それは私ごときたが、人工呼吸器装着前のALS患者さんに私の姿をお見せして、「“出会い”“生き甲斐”“生きる”気持があれば、例え、全身麻痺になっても人工呼吸器を着けても元気でやれますよ!」と言う事をお伝えしたきことと共に、ある目標を達成したい為である。ゆえ私は、繰り返し自分に当エッセイの結論である、“出会い”・“生き甲斐”・“生きる”及び“ヒラ目”を、言い聞かせ気力を湧き上がらせているのである。

それでは、また何処かでお会いしよう。お付き合い本当にありがとうございました。