阪神・淡路大震災の入院患者の実態調査から、救急医療について考えてみた。
調査対象は、被災地およびその周辺の95病院の訪問調査を行い、震災当日から1月31日までの15日間に入院加療された6,107症例のカルテを閲覧した。その結果、患者像はクラッシュ症候群372症例、その他の外因患者2,345症例、疾病3,390症例が把握できた。患者の入院日から、傷病構造の経日的な変化を見ると、クラッシュ症候群やその他の外因症例は震災当日から3日間で大半が入院し、1月20日以降はほとんど増えていないのに対し、疾病による入院症例は日を追って増加していた。
次に、搬送手段を見ると不明な症例が2,000例近くに達した。初診患者の搬送手段を割合で見ると、比較的重傷の入院患者でさえも、初療時は救急車が3分の1に過ぎず、他は自力来院せざるを得ない状況であった。転送患者の搬送手段を割合で見ると、救急車は40%止まりであり、病院車等を加えてようやく過半数の搬送手段が確保されていた。入院患者の約10倍には達すると推測される外来患者も、ほとんど自力で来院せざるを得なかったと思われる。
入院症例の傷病構造と予後を検討してみると、クラッシュ症候群は合計372例、死亡率50例(死亡率13.4%)であった。クラッシュ症候群以外では、頭部、胸部、腹部の臓器損傷は、症例数は少ないが死亡率は高く、逆に骨盤骨折や脊椎骨折、四肢骨折等は、発生数は多いが死亡数はほとんどなかった。死亡例の傷病構造を経日的に見ると、当日の死亡例の大半は傷病名が詳細不明の全身打撲となっているもので、トリアージ・タッグに近い内容のものであった。クラッシュ症候群ついては、震災当日以降、数日たってからも死亡例が存在していた。疾病患者の経日的死亡者数は、震災後徐々に増え、その後長く続いている。
クラッシュ症候群の受傷機転は家屋、家具の下敷きである。年齢分布を見ると、クラッシュ症候群以外の外傷患者は高齢者が圧倒的に多いが、クラッシュ症候群のみは、小児を除くと全年齢層に渡って発生していた。また、クラッシュ症候群と判定した症例はほとんど2日以内に救出されているが、クラッシュ症候群においては救出までの時間と予後の間にはあまり関係がないようであった。部位別発生頻度と予後を見ると、下肢が280例と多いが、内臓損傷を伴うもので予後が悪い。検査結果についてみると、CPKにはかなり大きな差があり、代謝性アシドーシスや血液濃縮(hemoconcentration)の方が、重傷度をよく表すようであった。クラッシュ症候群において、2月1日以降に後方病院での死亡者数が被災地内病院の死亡者数を上回っているが、これらの症例はいずれも救命チャンスがあったと考えられる。
震災時の疾病構造についてであるが、3,389症例が入院加療を受けていた。その内、619例の肺炎に代表される呼吸器疾患が目立っていた。既存の患者調査では、入院患者の1.1%を占めるに過ぎない肺炎が震災後には18.3%に達し、死亡例に占める割合も極めて高くなっている。喘息などでも同様の傾向があるが、悪性腫瘍の占める割合だけが既存の調査よりも低くなっている。震災後の疾病患者には高齢者が多いが、胃・十二指腸患者の年齢分布では、比較的青・壮年層においても発生している。また、市町村別の被害状況と胃・十二指腸潰瘍患者の発生は、特に強い相関関係があった。
最後に患者の転送率であるが、クラッシュ症候群の転送率は47%であった。治療内容の検討から重傷例と判定した症例でもその転送率は35%にとどまっていた。また、転送の立ち上がりが遅く、震災以降転送日がかなり長期間に及んでいることが分かった。
これらの調査結果から、今後の救急医療に求められているのは、搬送手段の確保と情報網の確保である。外傷患者で24時間以内に死亡している患者を第4順位とするのか、第1順位として治療するのかという問題がある。災害の規模にもよるが、広域に被害が及ぶ場合、搬送手段としてヘリコプターを使うことができれば、今回治療されなかった群を最優先で搬送できたはずである。また、自力で来院せざるを得なかった人がほとんどだったことから、大災害時に備えて民間団体をあらかじめ搬送担当として組織化しておく必要があると思われる。クラッシュ症候群の死亡率についてであるが、救急医療に携わっている人には珍しいものではないが、見たことがなければなかなか診断できないので、多くの医師が日ごろから救急医療に少しでも携わることで、災害医療の場で効率よく医療ができるであろう。災害が起こって一番困ったことはトイレに行けないことだときいた。下水が機能しなくなり、衛生状態の改善がとても重要だったと思われる。災害に備えた衛生管理と精神的なケアにより、その後の疾病を減らす事もできる。災害医療においては救急医療のシステムの向上と、その後の長期的な対策が必要だと考える。
私達日本人は、戦後50年平和を享受してきましたので、化学兵器に関してはまったく無知でした。そんな中、平成7年3月20日、東京地下鉄サリン事件が発生しました。まず事件の概要を説明しようと思います。
当日、午前8時6分頃、築地駅に入ってきた地下鉄の車内から出てきた人たちが、どんどん倒れたということで、東京消防庁には、8時9分に最初の連絡がありました。その直後、東京の主な医療機関に、東京消防庁の災害救急情報センターから第一報が入り「ガス爆発らしい。多数の死傷者が発生した。」という連絡でした。9時8分には、東京消防庁の化学機動中隊がアセトニトリルを検出し、午前11時に警視庁が原因物質はサリンである可能性が高いと発表しています。そして、地下鉄の駅から最後の患者搬送依頼があったのは、その夜23時11分でした。
結局、約5500人が被災し、約280の医療施設で治療を受け、約1050人が入院しました。死亡したのは12人で、すべて現場でCPA(心肺停止)状態でした。生命徴候があって来院したが死亡したという人は1人もいません。
最初、医療機関への情報はガス爆発らしいというだけで、その他の情報はまったくありませんでした。来院した患者を診ると、重症の患者は意識がなかったり、痙攣があったり、筋の攣縮があったりして、口腔内には泡沫状の分泌物がたくさんあり、瞳孔は縮瞳し、皮膚が発赤しており、そして外傷がないという状態でした。後でわかったことですが戦場医学の常識では、もし大量の死傷者が出て、そして外傷がなかった場合には、まず空気中に撒かれた有害物質を疑うべきで、地下鉄サリン事件についてもあてはまり、原因は有毒ガス以外ないという結論になるわけです。
ここでサリンについて述べようと思います。サリンは1900年代半ばにドイツで出来た有毒ガスで、結局これはアセチルコリンのインヒビターで、サリンが不可逆的にアセチルコリンエステラーゼと複合体を作ります。そのため神経終末にアセチルコリンがたまり、ムスカリン様作用による症状とニコチン様作用による症状がみられ、脳血管関門は自由に通ると言われています。松本サリン事件の報告によると症状としては、視力障害、頭痛、鼻汁等があり、血清中のコリンエステラーゼのレベルはこれらの症状を訴えなかった人に比べて有意に低く、また赤血球の真性のコリンエステラーゼの値は、30日たってようやく正常に戻ったということでした。さらに縮瞳の程度は、血清中のコリンエステラーゼレベルの低下の程度と相関したということもわかっています。
今回の事件に関して入院患者の臨床データをみてみると、症状・徴候では圧倒的に多いのは縮瞳と頭痛で、後は縮瞳に伴ういろいろな視力障害の問題、消化器症状、鼻汁などが多く見られました。また入院の適応ですが、これも施設によってバラバラでしたが、多かったのは縮瞳で、次いで頭痛あるいは視力障害などでした。入院期間はほとんどが1日か2日、長くても3日まででした。有機リン中毒におけるのと同様にサリン中毒においても、血清中のコリンエステラーゼの低下が54%の入院患者に見られ、50%以下に低下した人が17%もいました。
治療法としては今のところ、どんなオキシムでもよいだろうということになっていますが、単独ではあまり効かないだろうということが言われています。今回の事件の治療法について調べてみると、硫酸アトロピンだけで治療されたのが82%で、パムは34%投与されています。パムだけで治療した症例は、だいたい1日以内に血清コリンエステラーゼは正常化しており、一方、硫酸アトロピンはアセチルコリンのトランスミッションを正常化させるだけで、血清コリンエステラーゼを正常に戻すものではないのです。ここで、コリンエステラーゼ値相対的回復率のグラフが示すように、パムとアトロピンを使った群では戻りがよく、検査データの上から見ると、アトロピンとパムを併用した方がよかったということになります。
診断については、他の症状に比べて縮瞳は軽症の患者を含めてほとんどの例でみられたので、これがまずきっかけになるだろうと思われます。
東京地下鉄サリン事件の問題点として、まず1つは原因物質の探知・同定の体制がまったくなかったことで、原因物質に関する情報は、まったく未公表のままでした。どこでだれが同定したかもわかっていません。そもそも、災害医療ネットワークがこういう時にどういう役割をするかということは定かではなく、医療機関には「サリンです」ということは一言も伝えられておらず、このことは非常に問題でした。そして二次災害として、地下鉄の職員が一人亡くなっています。治療法についての情報も伝達されず、バラバラで、ある所ではパムを使い、ある所では硫酸アトロピンだけ、ある所では両方、ある所では何も使わなかったというように、特殊療法の開始が遅れました。また重症患者に対して、医師による現場蘇生は行われていませんでした。つまり、ほとんどが救急隊員だけによって行われ、東京の災害システムには救急医はほとんど関与していないという現状があり、これは大きな問題です。
最後に今後の課題として、病院内の災害対策が欠如していたために、多数の患者が来院した場合に十分対応できなかったという反省をもとに、防災対策をきちんと持たなければなりません。どうしたらいいかという考え方の一つとして、インシデント・コマンド・システム・ストラクチャーというものがあります。これは警察、消防、軍、行政等、複数の機関が入ったときに、どう対応するかというシステムです。役割という面からコマンド、オペレーター、プランニング、ロジスティックス、ファイナンスに分けると非常にいいのではないかという意見があります。
これから二度と起こらないかもしれませんが、世界の状況から見ると私たちは、核、化学有害物質などとまったく無縁というわけではないのです。こうした核や化学兵器、生物兵器に関してもどこかで考えておく必要があるのではないかと思います。
アフリカにあふれる難民キャンプのうち今回、コンゴ難民の赴いたルグフという土地にある難民キャンプとスーダン郊外にあるいくつかの難民キャンプを具体的に見ていくことでこれらの難民キャンプに起こっているたくさんの問題点の中からいくつか主だったものを取り上げ、それらの原因と解決策について検討した。
1997年、中央ヨーロッパに大洪水が発生した。洪水が定期的に発生する国々では、国や地方レベルである程度の対応をすることができたが、災害に対する対応が十分ではなかったポーランド、チェコ共和国は、大打撃を受けた。この論文の内容は、この災害の状況と、なぜ両国がここまで大きな被害を受けることになったのか、また、さらに新しい災害対策システムを作るにはどうしたら良いか,というものだった。
被害状況は、チェコ共和国では、道路、線路、通信網が寸断され、重要な工業地帯や穀物地帯が浸水し、3万の企業や住宅が浸水した。ポーランドでは1360の町や村が被災し、45000の建物が浸水し、3000キロを越える道路、2000キロ近くの鉄道が被害を受け、チェコ共和国よりさらに大きな被害を受けた。
両国はこの災害の後に他の国から、災害対応の遅れ、援助活動の遅れ、政府の過失をかなり非難されることになった。さらに政府にいいかげんな対応によって、国民からの信用も失うこととなった。
この災害は、両国の自然災害への対応経験の無さ、ポーランド、チェコ共和国のかつての共産主義体制から民主主義体制への移行がいかに不完全であったかをさらけ出している。この共産主義体制が、災害対策の遅れ、国民の社会生活の再建に必要な財政不足などを招いた最も大きな原因といえる。つまりかつての共産主義政府の下では、洪水に対する防衛システム、救助活動の調整、被害者への補償、災害後の社会基盤の再建は政府の仕事であった。かつてポーランド、チェコ共和国では保険が国営化されており、洪水による損害も全面的に補償されていた。保険料はすべて国庫に戻され、支払いは国家予算から行われ、不足があれば国家が管理する資源の分配によって補填されていた。しかし現在では、かつての国家権力は弱体化している。両国の体制の移行は不完全で、中央集権化された体制を残しているにもかかわらずも、かつての政治力、経済力は失われていた。
そんな中、この災害が起こった。両国とも復興と再建を行わなければならない。住居を失った人々に避難場所を与えなければならない。子供たちのための学校を探さなければならない。社会経済の立て直しを行わなければならない。しかし、両国には資金がない。かつての共産主義体制では、保険は政府の仕事であったため、個別保険に加入している人も少ない。(実際、洪水損害に対して適切に保険を掛けていた家庭や企業は10%に満たなかった。)また、国としての保険プログラムもない。両国とも、国家支出を減らし、財政赤字削減に向けたキャンペーン中だったため緊急時の予備資金もなかった。また海外からの支援もあったが、賄える金額というのは一部のみだった。
ポーランドは資金不足に対して、他の予算項目の変更と建設プロジェクトの凍結から、早急に必要とされた清掃作業を行った。それから中央銀行、海外から資金を借り、緊急援助機関を設立したり、将来EUに加盟する諸国としてもらっていたEUからの補助金の一部を使うなど何億ドルもの資金の捻出を行った。
チェコ共和国としては、資金不足に対して、国内債券の発行、国家資産の売却を行った。しかし、債券の売れ行きはやはり低調だった。政府は債券の支払いができるのかという不信感から、不足額を埋める資金を出そうというチェコ市民はほとんどいなかった。
これらの状況を見ていると、ポーランド、チェコ共和国に新たな災害保険制度や災害対策システムが必要であるということは、明らかである。論文には、両国の保険制度の改革と、地方自治体レベルの改革方針が述べられていた。
まず保険制度についてだが、一つに、リスクの共同負担が必要で、保険契約者、保険会社、政府が予防的にリスクの一部を負担するべきであると書かれている。二つ目として、政府が支援する巨大災害再保険プログラムの開設、三つ目として、地域単位の保険制度の実施などを挙げている。特に重要のものは三つ目である。地域単位のプログラムとして、洪水多発地域に対しての保険と財政支援を実施をする。財政支援を受ける地域は、洪水多発地帯の検索やこれから災害が起こるだろう地域の予測、災害の起こる前に経済や建物の保護を行うようになる。さらには、政府の援助がなくても地方の自発的な動きが起こることを目的としている。
次に地方自治体レベルの改革についてだが、かつての体制では、、地方議会は中央からの指令がないと様々な決定を下すことができず、逆に中央政府は、災害などに対して迅速に徹底的に対応するメカニズムを持っていなかった。災害時、中央政府の意思決定を待っていることは非効率的である。地方当局には緊急時、適切に行動するための権限が欠けており、それに対応するだけの資金もなかった。このことから、両政府は、地方自治体にもっと権限を与えるべきであり、政府の財源をもっと地方レベルに割り当てるような構造改革を行う必要があると述べられていた。
この論文を読んで、現在の異常気象、阪神大震災、雲仙普賢岳の噴火などが思い出された。突然の自然災害に対して万全に対応することは不可能であると思うが、今までの災害からの教訓を生かして、これからの災害に備えるということ、また、その災害に時の起こった問題点を改善して行くためにも現状の状況をよく知ることがとても大切なことだと思った。
東京地下鉄サリン事件
前川和彦:日本救急医学会災害医療検討委員会・編 大規模災害と医療, 東京, 1996, pp 59-68第9章 キャンプの中は難民の町
国際赤十字・赤新月社連盟.世界災害報告 1998年版、103-141、病気の問題について
2、配給の問題について
3、社会構造の問題について
このように先述したこれらの問題点の多くは、援助団体の協力があってこそ成立するものがほとんどである。これで援助により生活の基盤ができ、定住先の規模や密度が増加してくるにつれ、次にキャンプに必要とされてくるものは、水、食料、医療ケアなどのサービスに対する需要から、政治的構造にまで及ぶ都市的な側面の理解を深めるということである。人々が自由に働いたり、農業したり、資金を借りて、商業したりできる方法を探すことが、生活を改善させ、難民都市を単なる維持活動でなくすためにもっとも重要なことである。都市的性格の認識を持つことは、政治的管理、環境対策、治安、情報、難民への貸し付けと地域社会の動員にいたるまで、多くの分野で改善の可能性を提供しているようだ。11章 変革への圧力となったヨーロッパの洪水
国際赤十字・赤新月社連盟.世界災害報告 1998年版、122-31