新潟市民病院の阪神大震災医療救護班;活動の実際と受診者の動向

新潟市民病院救命救急センター 広瀬保夫、三井田 努、本多 拓

(救急医学 20:233-236,1996)


 目 次


§はじめに

 平成7年1月17日に発生した阪神大震災は、本邦での戦後最大の自然災害となり、各地の医療機関や医師会による医療救護班の活動が多数行われた。われわれの新潟市民病院は発生4日後の1月21日より救護班を派遣し、38日間にわたって医療活動を行った。当院にとっては前例の無いことで、手探りでの救護活動であったが、極めて貴重な体験であった。当救護班の活動、受診者の実態について報告する。


§救護班派遣までとベースキャンプの設置

 阪神大震災が発生し、マスコミで悲惨な被害状況が報道されるにつれ、当院医師の間から「救護班を派遣すべきでは」との声がでてきた。震災発生2日後に、病院側から新潟市当局に救護班派遣の意志があることを上申し、翌日に新潟市としての救護班の派遣が決定した。神戸市と新潟市の協議の結果、灘区西灘小学校付近で医療活動を行うこととなり、西灘公園に株式会社福田組が新潟市に寄贈したエアドーム式のテントを設置(図1)した。このエアドームは本来は寒冷地の式典用に開発され、全幅10.0メートル、高さ5.0メートルで、90人収容可能の立派なものであった。発電機を備え冷暖房完備で、内部では通常の電気製品を使用することも可能であった。冬季であったにもかかわらずエアドーム内部は快適な環境であった。

 食料や水については現地では補給出来ないものと考え、原則的に自給自足が可能なように十分量持参した。ガスの復旧は当分は困難と考えられたため、カセットコンロを多数持参し、簡単な炊事はドーム内部で可能なように準備した。


§派遣人員

 第1班は医師3人(うち1名は1月21日に先発)、看護婦2人、事務職員1人、ドクターズカー運転手2人の計8人であった。派遣期間は、移動日を含め5泊6日を1サイクルとして、中4日間で医療活動を行うこととした。1月24日からは昭和大学救急医学教室の医師と現地で合流し、以降は共同で医療活動を行った。患者数の減少と昭和大チームの派遣人員等も考慮し、派遣人員を調節した。当院の事務系を含めた各部署に加え、新潟市役所、消防局等からも人員を派遣して頂き、まさに新潟市あげての医療班といえる体制であった。


§用意した物品、薬剤等

 当救護班は地震発生4日後から開始され、既に地震そのものによる外傷より、内科的疾患、あるいは小外傷、薬切れ等が多くなることが予想された1)。避難所でのインフルエンザの蔓延が報道されていたため、総合感冒剤、経口抗生剤等を多く用意した。小児向けの薬剤については、症候別に体重10kg単位で調剤しておき、体重20kgなら一回2包というふうに現場で簡単に処方出来るようにした。また小外科的処置も可能なように、縫合セットやシーネ等も相当量持参した。デイスポ製品を主体としたが、現地でも滅菌処置が可能なように、オートクレーブも持参した。また重症患者の診療・搬送にも対応するため、人工呼吸器、心電図モニター、除細動器、気管内挿管用具等を搭載する当院のドクターズカーを同行した。

 救護班開始後数日すると、近くの保健所から薬品が供給されるようになった。保健所には市販薬から注射薬、輸液製剤等に至るまで用意されていたため、可能な限りそちらから補充した。


§受診患者の実態

 診療録が残された患者について、受診者の実態について集計した。診療開始当初は極めて混乱しており、診療録が作成されていない受診者も多数存在する。特に開始初日は患者が殺到し、診療録上は47名となっているがその2〜3倍の受診はあったものと考えられる。また同一患者が複数回受診した場合は、受診毎に診療録を作成したため、数値はのべ人数となっている。即ち縫合を要し、包交のために再受診する場合も、のべ人数としてカウントしてある。

 神戸市灘区の西灘小学校内に仮設診療所を開設した。当初は狭い用務員室で診療していたが、学校側の配慮で数日後に保健室に移動し、点滴用のベッド等も確保することが出来た。神戸市によれば対象となった医療圏は、主に西灘小学校と原田小学校に避難していた被災者に加え、周辺住民を含めて約5000人と推定された。1月22日から2月28日の38日間で、のべ総受診者数は2131名(男性855名、女性1276名)であった。患者の年齢分布を図2に示すが、平均年齢は52.8歳で、最年長は91歳、最年少は1歳で60歳台にピークがあり、20歳台にも小さなピークを認めた。受診者数の推移(図3)については、開始初期は一日100人以上の受診があり、震災による外傷患者もみられた。受診者数は避難所生活者が減少するに従って漸減し、撤収前は20〜30人程度となった。

 受診者の疾患を診療科別に分類すると、66%を内科系が占めた(図4)。精神科的な患者は不安、不眠を訴える人がほとんどであったが、精神分裂病と考えられる例も5名いた。外科系受診者については、初期は震災による挫傷、開放創が多かったが、徐々に持病の腰痛、膝痛を訴える患者が増えた。震災による受傷は延べ149人であった。骨折と考えられる患者が延べ38人いたが重度外傷は少なかった。

 内科系疾患の内訳を図5に示す。上気道炎症状を訴える人が,内科系受診者の78%にのぼった。避難所生活で咳が他人への迷惑になることを気にする患者が非常に多く、鎮咳剤の需要が多かった。X線等の検査が不可能だったので確診は不可能であったが、肺雑音が聴取されるなど臨床的に肺炎と考えられた患者は7名であった。腹痛、高血圧の患者はそれぞれ約8%であった。高血圧患者のほとんどは、震災で薬を失ってしまったための受診であった。インシュリンや経口血糖降下剤をなくした糖尿病患者には、検査が出来ないこと、食生活が激変していることを考慮して処方はしなかった。いわゆる持病の悪化や薬を失ったことによる受診は、高血圧、虚血性心疾患、胃十二指腸潰瘍、気管支喘息等の内科疾患に加えて、腰痛・膝痛等の整形外科的疾患が目立ち、持病の悪化に伴う受診者は、全受診者の12.8%を占めた。入院加療が必要とされ、他の医療施設に転送した症例は、肺炎、脳梗塞、精神分裂病等で計16名であった。


§考案

 新潟市民病院は25診療科736床を有する新潟市立の総合病院である。昭和62年から救命救急センターが併設され、新潟県下越地区の3次救急を担当している。新潟県は昭和39年に新潟地震を経験し、各地からの救援を受けた。そんな背景もあり、神戸地区の惨状が報道されるに従って、医療救護班を派遣すべきとの声が病院内部から上がり、自治体に申し出て実現した。

 当救護班は幸運にも新潟市からの全面的なバックアップが得られ、さらに高度な機能を持ったエアドームをベースキャンプとすることが出来た。当初は避難所に泊まり込んでの診療を覚悟していたが、エアドームのおかげで、冬季にもかかわらず暖かく安全に過ごすこせた。暖かい食事も確保され、被災者の方々に申し訳なくなるくらい恵まれた状況であった。高橋ら1)は外国の医療救護チームは、難民救護でも自分たちの生活レベルを落とさないことを当然とし、救護に専念出来る体制をとり、「自らを救えずに、何で人が救えるか」という基本哲学をもっていることを紹介している。当院救護班が一ヶ月以上もの間無理なく活動出来たのは、しっかりとしたベースキャンプを確保出来たことによるところが大きい。阪神大震災のように極めて大規模な災害の場合、救援・災害医療の専門家以外を含めた多人数の救援医療への参加が不可欠となる。そのマンパワーの確保の為にも、安全なベースキャンプは絶対必要なものといえよう。

 自然災害後の救護は、急性期の外科的な治療が中心となり、数日後から内科的なニーズが高まるとされる2)。当院の救護班は地震発生4日後から開始され、急性期に発生する重症外傷に対応するものではなかった。興味深いことに、受診者の多くがいわゆる一次患者であったにもかかわらず、年齢分布は60歳代にピークがあり、20歳代に小さなピークを認め、本震災での死亡者の年齢分布4)と同様のパターンであった。丸川ら4)は、今回の地震の衝撃が大学生と老齢者の異なった集団に集中していることを指摘し、震災の被害が社会構造に依存している可能性を推定しているが、当救護班の受診者の年齢分布も同様の理由によるものである可能性もある。

 当救護班では内科系患者が66%を占めたが、他の救護班でも同様の傾向であったようである3)。上気道炎(いわゆる感冒)の患者が圧倒的に多く、冬季であったことと避難所の劣悪な環境が大きく影響している様に思われた。入院を要すると考えられた転送例は16例と少数で、全てが内科と精神科疾患で、重度外傷患者は認めなかった。地元の診療所は壊滅的な被害を受け、診療不能の状態になっているところがほとんどであった。我々の救護班は主に1次医療機関の機能の代替えを果たすこととなった。高血圧や腰痛を主体とする持病の悪化、内服の中断を主訴とする患者も多くみられた。また診療所に来ることそのものが楽しみとなっている高齢の被災者もいた。

 近隣の開業医が診療を再開したとの情報が入りだした時点で、受診者にはその情報を提供し、可能な限り地元の診療機関を紹介した。当救護班は無料で診療しており、また避難所に開設していたため便が良く、従来受診していた医療機関が再開しても当救護班でのフォローアップを望む患者も相当数いた。地元の医療機関と競合して、かえって復興の妨げになるのは本意ではなかった。撤収の時期は、地元の医療機関と連携を密にして決めるべきであろう。一日の受診者数が30人以下となった段階で、当救護班の役割はほぼ終了したものと考え、神戸市と協議の上、2月28日に撤収し救護班活動を終了した。


§結語

 当院が阪神大震災に派遣した救護班について、活動の実際と受診者の動向について述べた。また安全なベースキャンプの重要性についても言及した。阪神大震災では様々な救援活動が行われたが、その実際について十分に検討し、今後の災害医療に役立てるべきと考える。当救護班の診療対象は軽症患者主体であったが、それも本震災の重要な一断面を反映しているものと考え報告した。

 我々の救護班活動は新潟市民病院全診療科、各部署、及び新潟市役所の全面的な御協力があってはじめて成し得たものでした。また昭和大学チームには友好的に共に活動して頂きました。ここに深く感謝の意を表します。

 本災害で亡くなられた多数の方々の御冥福と、被災地の一日も早い復興を心より祈念致します。


§文献

  1. 高橋有二:災害処理の原則と防災計画.救急医学,15:1745-1752,1991

  2. 上原鳴夫:災害対策;「国際防災の10年」における保険医療の役割.救急医学,15:1737-1743,1991

  3. 大規模災害と医療(上)−阪神・淡路大震災の記録−.日本医事新報3712:108-117,1995

  4. 丸川征四郎:阪神淡路大震災に遭遇して;災害医学・医療の本格導入を願う.集中治療7(7):729-734,1995


§図、表

【図1】エアドーム

【図2】患者の年齢分布

【図3】受診者の推移

【図4】受診者の診療科別分類

【図5】内科系受診者の内訳


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