(朝日新聞朝刊 8/27/96、論壇より著者の許可を得て転載)
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「防災の日」(9月1日)が近づいてきた。この日は関東大震災を記念して制定されたもので、毎年各地でこの日を中心に防災訓練・災害救護訓練が実施されている。阪神・淡路大震災から1年8ヶ月がたったいま、防災対策で何が変わったかを考えると、多くの提言がなされたもののいまだに実現されていない事柄が多いことにがく然とさせられる。
各地で催される防災訓練・災害救助訓練は、多数の関係職員や団体が参加して大規模に実施される。だがその多くが形骸(けいがい)化され、ショーのイベントと堕しているといっては言い過ぎだろうか。
災害の想定は地震や洪水、列車事故などさまざまだ。ところが、災害訓練場所の近くには消防車や救急車、パトカーなどが勢ぞろいし、消防職員も、動員される医師や看護婦もその場で待機し、現場応急救護所となるテントも設営ずみで、機材も万端準備されている。模擬患者は最終診断名(病名)を明記したプラカードを胸につけている。したがって、訓練開始が宣言されるとパトカーや消防車は即座に現場に到着し、救急隊員や医師・看護婦たちも、模擬患者の重症度と緊急性、治療優先順位の判断(トリアージ判断)に迷うこともなく、きわめてスムーズに訓練が進行する。現場応急救護所も菅に設営されているので、訓練参加者が、風向きや救急車の進入路などを考慮し、その場に応じて設営場所を探すというような余地はない。
一体、このような状況で本当の災害が生じたことが過去にあったとでもいうのだろうか。私は既に何回か「もっと実戦的な、現場に即した訓練をすべきだ」と消防関係者に提言したが、「本当の緊急出動でないときに救急車や消防車のサイレンを鳴らして市中を走らせることはできない」という理由で受け入れられなかった。しかし、実際の災害のときにはやじ馬も集まってくるし、周辺の道路では交通渋滞が生じて、救援に駆けつける医療チームも容易に現場に近づけないのが現実なのだ。
私は昨年と今年、イスラエルとマレーシアでの災害救護訓練を見学する機会を得た。また、カナダやアメリカの災害訓練の話を聞いたりビデオを見たことがある。これらは日本各地の訓練とは大分様相を異にするものであった。事前に消防車や救急車、救護要員が集結したりはしていない。災害発生宣言が発せられてはじめて現場から緊急通報が行われ、通報に応じてそれぞれ本来の職場から警察官などが緊急出動してくる。模擬患者のプラカードにも最終診断名ではなく現在の症状が記載されていて、なかにはリアルな創傷のメークアップをしたり、本当の負傷者のように大声で救助を求めている人もいる。救急隊員や医師たちはその場でトリアージ順位を考えなければならない。病院には現場から医療チーム派遣の要請が届き、急きょメンバーの選定と傷病者受け入れ準備が開始される。そして搬入された模擬患者には、病院の救急玄関で再びトリアージが行われ、必要な検査や手術など、模擬的治療行為がぎりぎりまで施される。
これらの訓練の進行状況を複数の災害訓練審判員が記録し、救急車の到着時間や救助隊員・救急隊員の行動、指揮官の態度、トリアージの適切さ、出動した医療チームの活動、病院での個々のスタッフの演じた役割などを、「人命救助が第一」という観点で評価する。火災発生現場の風下に現場応急救護所が設営されたりすれば、格好の批判材料となる。また、各組織間の協力がいかに円滑に行われたかも重要な訓練評価のポイントだ。訓練は主催責任者の講評訓話で締めくくるのではなく、審査員と訓練に参加した各部門の責任者とが集まって忌憚(きたん)のない意見の交換と反省をして終わる。
災害多発国である日本で、なぜこうした真摯(しんし)な災害救護訓練ができないのだろうか。従来から繰り返されてきたおざなりの訓練であれば、何回実施しても実効性がないということも阪神・淡路大震災の教訓の一つだった。一人ひとりの防災関係者や市民が、実際の災害に遭遇したときにどのように行動すべきかを体験しつつ学ぶのが、訓練の本来の目的ではないだろうか。