マッキー

(まっきー Mackie, John L.)

The ordinary user of moral language means to say something about whatever it is that he characterizes morally, for example a possible action, as it is in itself, or would be if it were realized, and not about, or even simply expressive of, his, or anyone else's, attitude or relation to it. But the something he wants to say is not purely descriptive, certainly not inert, but something that involves a call for action or for the refraining from action, and one that is absolute, not contingent upon any desire or preference or policy or choice, his own or anyone else's.

もし第二階の倫理[ie メタ倫理]が言語や概念の分析に終始するのなら、 少なくとも道徳的な価値は客観的であると結論しなければならないことになる。 すなわち、そのことは、 われわれの日常的な道徳的言明が意味していることの一部なのである。 西洋の哲学者たちに主流な伝統的道徳的概念だけでなく、 普通の人の伝統的な道徳的概念も、客観的価値の概念である。 しかし、まさにこの理由から、言語と概念の分析は不十分なのである。 客観性の主張は、いかにわれわれの言語や思考にしみこんでいるとしても、 それだけで正当化されるわけではない。 その主張に疑問を呈することはできるし、またそうすべきでもある。 しかし、客観的価値の否定は分析的なアプローチの結果として提示されるのではなく 次のような「錯誤理論error theory」として提示されなければならないだろう。 すなわち、 たいていの人が道徳的判断をするさいに暗に主張しているのは、 とりわけても、自分が何か客観的に指令的なものに言及しているということだが、 このような主張はまったく誤りである、という理論である。

---J.L. Mackie

John Mackie must have been alone in his room with the Scientific World View .... For it is the most familiar fact of human life that the world contains entities that can tell us what to do and make us to do it. They are people, and the other animals.

---Christine Korsgaard, `The Source of Normativity'


オーストラリア生まれの哲学者(1917-1981)。 著書に、 因果論について論じたThe Cement of the Universe (1974)、 ロック哲学について論じたProblems From Locke (1976)などがあるが、 倫理学的に重要なのはEthics: Inventing Right and Wrong (1977)である (翻訳はJ・L・マッキー『倫理学 道徳を創造する』加藤尚武監訳、晢書房、 1990年、絶版)。

マッキーによれば、プラトンを初め、 西洋哲学における多くの思想家が考えていたような客観的な価値は存在しない。 ここでいう客観的な価値とは、人がそれを認識することによって、 何が正しかを知るだけでなく、 正しいものを求めようとする動機づけをも与える (指令性を持つ)ような、 普通の事物とは異なる特異な存在物のことである。

彼はこの立場を(誤解の多い名称であると断わりながらも)道徳的懐疑主義 あるいは主観主義と呼び、 この立場を裏付ける根拠として、いくつかの議論を提示している。 たとえば、社会ごとに異なる価値が重要視されていることは、 人びとが客観的価値を異なる仕方で認識していると考えるよりは、 異なる価値は社会ごとの生活様式を反映していると見なした方がもっともらしいという議論(相対主義の議論)。 また、このような客観的価値は、 世界に存在する他の事物とまったく異なる奇妙なもので、 しかもこれを認識する特別な器官が必要とされると考えられるため、 そのような存在を仮定することはもっともらしくないという議論 (奇妙さqueernessの議論)。 さらに彼は、 本来は主観的である価値をどのような過程で人びとが客観化(objectify) していったかを説明している。たとえば、 われわれは「自分が欲するもの」を「善い」と呼んでいたのに、 いつのまにかその関係が転倒し、 「善い」ものが「善い」からわれわれは欲するのであり、 われわれが欲しようと欲しまいと「善い」ものは「善い」、 という風に善を客観化したとされる。

このようにマッキーによれば客観的価値は実在しないのだが、 現実には人びとはあたかも価値が客観的であるかのように語り、 行動している。それゆえ、マッキーは「価値は客観的だ」 という常識的な考えは誤りだと主張する(錯誤理論 error theory)。 言い換えると、 言葉や慣習の上では価値は客観的であるかのように扱われるが、 現実にはそのような価値は存在しない、というのが彼の主張である。

このマッキーの主張は、 ヘア流の言語分析だけではダメで、 倫理学は存在論にもコミットしなければならないという批判にもなっている。 彼の立場は反実在論であり、 その後の道徳実在論の口火を切ることになった。

06/Jan/2002


関連文献


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu Nov 20 13:52:31 JST 2003