ベンタムにおける徳と幸福1

京都大学 児玉聡


BENTHAM ON VIRTUE AND HAPPINESS

Satoshi KODAMA

ABSTRACT

Bentham's Deontology contains his views on virtue, which he didn't discuss in his Introduction to the Principles of Morals and Legislation. But since the publication of the new edition of Deontology little attempt has been made to examine his views on virtue, partly because his exposition of virtue in this book is quite unsystematic and repetitious. In this paper, I start from giving a brief description of his views on virtue - his views on its nature, the division of particular virtues, and several virtues including prudence, beneficence and probity - and then examine his understanding of the relationship between virtue and happiness.

  1. Disposition in the Introduction
    1. disposition and hexis
    2. disposition as a fictitious entity
    3. good disposition and bad disposition
  2. About Deontology
  3. The nature of virtue in general
    1. virtue as a fictitious entity
    2. the happiness of the community as the essence of virtue
    3. the need for effort and self-sacrifice
    4. virtue and habit
  4. The division of particular virtues
    1. primary virtues -- prudence, benevolence (and probity)
    2. prudence, purely self-regarding and extra-regarding
    3. beneficence -- 1. beneficence/benevolence, 2. beneficence/probity, 3. positive beneficence/negative beneficence
  5. Between virtue and happiness
    1. Why be prudent?
    2. Why be beneficent?
    3. prudent to be beneficent

はじめに

ベンタムの『道徳と立法の諸原理序説』(1789年刊。以下『序説』)には個々の 徳に関する体系的な取り扱いがない、とE・アレビーが批判したのに対して、D・ バウムガルトは、アレビーの批判は「ベンタムの学説の考え抜かれた基礎を無 視した、単なる外在的な批判にすぎない」と論じた2。 バウムガルトによれば、たしかにベンタムは『序説』において徳の議論をしな かったが、しかし彼がそうしたのには理由があり、彼は徳の定義の一覧を与え る代わりに、徳と悪徳の構成要素となるさまざまな快苦の長い一覧を与えたの である (同上)。ベンタムの考えでは、『序説』において分析された快苦、動 機、傾向性dispositionなどの、道徳にとって基礎的な語を用いれば、「感情 emotion、情念passion、欲求appetite、徳と悪徳、それに特定の徳や悪徳の名 前を含むその他の語」を説明するのは、「ほとんど機械的な作業」で済むので あった3

しかし、実際のところ『序説』を読んだだけでは、徳が快苦ないし幸福によっ て説明されるであろうという以外、ベンタムが徳についてどのような見解を持っ ているのかははっきりしない。また、バウムガルトも上のように述べるだけで、 ベンタムの徳に関する見解——たとえば、徳はどのように分類されるのか、有 徳な人は幸福になれるのか、というような問いに対する見解——をまったく論 じていない。実際、これまでのところ、ベンタムの徳についての教義を詳しく 検討している文献はないに等しい。

徳に関するベンタム自身の見解は、よく知られているように、彼の『義務論』 Deontologyという著作で詳しく論じられている。この書において彼は、『序説』 では取り上げなかった徳について、さまざまな角度から議論を行なっている。 しかし、『義務論』における彼の論述にはまとまりがなく繰り返しが多いため、 徳に関する彼の見解の全体像をつかむことは難しい。

そこで、本発表では、『義務論』を主なテキストとして用い、まず(1)ベンタ ムの徳についての見解を簡潔に説明し、次に(2)とりわけ、倫理学では古くか ら問題になる徳と幸福の関係について——あるいは、なぜ有徳であることは望 ましいのかという問いについて——彼がどのような見解を抱いていたかを検討 する。


1. 『序説』に見られる、徳に関係する記述

すでにみたように、『序説』に徳に関する説明がないことはベンタム自身がそ の序文で述べているわけだが(IPML 3)、しかしながら『序説』の第11章では、 徳と密接に結びついた概念である「傾向性disposition」が説明されているの で、『義務論』での徳の説明を見るまえにこの箇所を簡単に検討しておくこと が望ましいと思われる。

ところで、dispositionを「傾向性」と訳してしまうと、この語と徳とのつな がりが見えにくくなってしまうが、英語のdispositionはギリシア語のhexis (状態ないし性向、ラテン語ではhabitus)にあたり、アリストテレスによれば、 徳や悪徳は行為者の個々の行為や情念に対して言われるのではなく、行為者が そうした行為や情念を選択するさいの「選択の基礎をなす(魂の)状態」に関し て言われるのである4。つまり、徳と悪徳の評価におい ては、傾向性の善し悪しが問題になるのである。

徳とそのような関係をもつ傾向性について、ベンタムは、それは「議論に便利 なように作られた一種の虚構物」であると述べ、「ある人の心持frame of mindにおいて一定不変だと考えられるものを表わすために」作られたという (IPML 125)。ここで傾向性を「虚構物fictitious entity」だと言うのは、た とえば「気前のよさ」という傾向性を考えた場合、実際に存在するのは個々の 気前のよい行為だけであり、そうした個々の行為から推察される「気前のよさ」 という傾向性そのものは実在しないと考えられるからである5

ある人のもつ傾向性は、ベンタムによると、それが生み出す結果が共同体の幸 福を増やすか減らすかによって「善い」、「悪い」と呼ばれる (あるいは、 「有徳な」「悪徳な」とも呼びうる、とベンタムはIPML 125aで述べている)。 また、より詳しくは、ある人の傾向性は自他の幸福にどう影響するかによって 評価され、自分の幸福を増やす傾向性と減らす傾向性はそれぞれ「意志の堅い firm」、「意志の弱いinfirm」と呼ばれ、他人の幸福を増やす傾向性と減らす 傾向性はそれぞれ「有益なbeneficent」、「有害なpernicious」と呼ばれる (IPML 125)。

以上のように分類される傾向性のうち、法で主に問題になるのは有害な傾向性 であると述べた後、ベンタムは次のように説明する。

ある人が有害な傾向性を持つと言われるのは、その人が、どのような動機の影 響からにせよ、有益な傾向tendencyを持つと思われる行為よりも、有害な傾向 を持つと当人に思われる行為を行ないがちである、あるいは行なう意図を形成 しがちであると想定される場合である。有益な傾向性を持つと言われるのは、 反対の場合である。(IPML 126)

このように、ある人の傾向性は、その人の特定の行為が自他の幸福に対して持 つ傾向から、その人の行為が一般に自他の幸福に対してもつ傾向を想定するこ とによって判断される。ただし、そのさいの判断材料となるのは、自他の幸福 に対して実際に生じた結果ではなく、意図された結果の方である。もちろん両 者が一致する場合もしばしばあるわけだが、両者が一致しない場合、たとえば 善い結果を生むと考えてなされた行為が、実際には悪い結果を生みだした場合、 当人の傾向性をよりよく表わすのは、実際に生じた結果ではなく、意図された 結果である (IPML 126)。それゆえ、ある人の傾向性は「いわば、その人の意 図の合計」であるとも言われる (IPML 134)。そして、刑罰を受けるさい、有 害な傾向性を持つと考えられる人は、犯罪によって引き起こされる恐怖をより 高め、将来においてさらなる害悪を生み出す可能性があるため、より重い刑を 受けることになる (IPML 141)。

以上をまとめると、傾向性とは特定の行為への一定の傾きを表わすための虚構 物であり、それは自他の幸福を増減させる傾向によって評価される。この傾向 性の議論からわかるように、ベンタムの功利主義においても、個々の行為だけ でなく、行為から推察される行為者の性格もまた道徳的評価の対象になる。そ れでは、より具体的には、どのような傾向性が有徳なものとされるのであろう か。以下では、『義務論』を見ることにより、徳についてのベンタムの考えを より詳しく検討する。


2. 『義務論』について

新しいベンタム全集に収録されている『義務論』の編集者A・ゴールドワース によれば、『義務論』の元になる原稿は1814年から1831年の間に断続的に書か れたもので、ベンタムの死(1832年)後、バウリングの手によって編纂され、 1834年に出版された (D xxi-xxii)。しかし、このバウリング版の『義務論』 は編者の手によって改ざんされていることが早くから知られており、そのため どの程度ベンタムの真意を反映しているかが疑問視されてきた。そこで以下で は、ベンタムの草稿をより忠実に反映している新全集版の『義務論』を用いて 議論することにする6

ベンタムによれば、この本の目的は、「個人の生活のすべての領域における利 益と義務とを、可能なかぎり明快で満足のいく見晴しのよい場所に置くこと」 とされ、この目的を果たすためには、利益と義務の関係、およびこの二つと徳、 悪徳との関係などを説明する必要があるとされる (D 121)7


3. 徳一般の性質

まず、個々の徳についてのベンタムの見解に立ち入る前に、徳一般に関する見 解についての彼の立場を検討する。徳一般についての彼の説明は、『義務論』 の随所で述べられており、必ずしも体系的な説明を与えられていないが、その 主要な教説は次の通りである。(1) 徳、悪徳は虚構物であり、またそれ自体で は定義できないものである。(2) 徳の本質は、共同体の幸福を増進するという ことにある。ただし、(3) ある行為が有徳であるためには、幸福を増進するだ けでなく、努力や自己犠牲が必要とされる。しかし、(4) 習慣により徳が身に つけば、そのような努力や自己犠牲は不要になる。これらの点を以下で簡単に 見ていこう。


(1) 虚構物としての徳と悪徳、定義の不可能性

ベンタムによると、傾向性と同様、徳も虚構物、あるいは虚構物を指す名称で ある (D 126a, 208)。これは、徳が言葉の上でだけ存在し、徳という言葉に対 応する対象が実在しないと考えられるためである。また、徳は虚構の人間とし ても表され、ラテン語における徳の性が女性であるため、しばしば女性として 語られる (D 208)。ただし、徳が虚構物であることはそれが不要なものである ことを含意せず、むしろこのような虚構物は議論のために不可欠なものである とされる (D 126a)。

さらに、徳はそれ自体では定義できないとされる (D 208)。これは、徳が単純 観念だからというのではなく、虚構物においてしばしばあるように (D 78)、 徳の類概念が存在しないため、いわゆる類と種差による定義8ができないということである。しかし、この点に関しては 断定的に述べられているだけで、たとえばアリストテレスがしたように9、状態ないし傾向性を類概念とすることはなぜいけないの か、などについては言及されていない。


(2) 徳の本質

(1)で見たように、徳はそれ自体では定義できないが、有徳な行為、習慣、傾 向性などのフレーズを説明することで、間接的な説明を与えることができると ベンタムは言う (D 208)。彼によれば、ある人が、ある行為、習慣、傾向性な どを有徳だと言うとき、もし彼が他人の意見の報告ではなく自分の意見を述べ ようとしているならば、彼はその行為、習慣、傾向性を重要だと考え、是認の 感情を抱いている。つまり、「ある行為を有徳だ」と言うのは、「その行為は すばらしい」と言うことである。だが、この是認の感情の根拠は社会によって、 そしてさらには個人によって異なり、単一の根拠を挙げることはできない。そ こでベンタムは、ある行為や習慣などを有徳と呼び是認するさいの望ましい根 拠として、〈共同体の幸福の総量を増加させる傾向〉を挙げる (D 209)。これ がベンタムの徳概念の中核であり、「徳の本質は、それが一般に何らかの仕方 で幸福(善き生well-being10)に役立つ、ということにあ る。すなわち、自分自身あるいは誰か別の人に役立つ、ということにある」と 言われる (D 160)。


(3) 努力、自己犠牲の必要性

すると、共同体の幸福——共同体を構成する成員の幸福の総量——を促進する 行為や傾向性はすべて「有徳」であると言ってよいのであろうか。ベンタムは そうでないと言う。彼によれば、共同体に有益な行為が有徳であると言われる には、知性や意志におけるある程度の努力が行為に伴うことが必要とされる (D 178-9)。たとえば、わたしがパン屋でパンを買う行為は、わたしに有益で あり、パン屋にとっても有益であると言える。しかし、このような行為を有徳 であるとは言わない。けれども、パンを買った帰りにお腹をすかせて死にそう な人を見て、わたしが自分の夕食のために買ったパンをその人にあげることは 一般に努力ないし我慢が必要と考えられるため、有益であるばかりでなく、有 徳な行為ともみなされる11

このように、有益な行為が有徳でもあるためには、ある程度の努力または自己 犠牲が必要とされるが、自己犠牲があまりに大きく、共同体の幸福を減じる程 度にまでいたる場合、そのような有徳な行為とは言われず、むしろ愚行である と言われる (D 188)。つまり、共同体に有益でない行為が有徳であることはな いのである。


(4) 徳の習慣化

しかし、アリストテレスならば、有徳な行為をするために努力をしなければな らないようでは、まだまだ徳が身についているとは言えない、と論じるだろう。 先ほどのお腹をすかせた人にパンをあげる例でいくと、アリストテレスの考え る有徳な人ならば、いかなる欲求の衝突も感じることなくごく当たり前のよう に行為をするのであり、そうでなければ有徳であるとは言えない。アリストテ レスのこの論点は、抑制 (意志の強さ)と徳の違いとしてよく知られており12、ベンタムもアリストテレス(学派)のこの区別を「不完 全な徳」と「完全な徳」として、やや軽蔑の念を表わしつつ紹介している (D 156-9)。ベンタムがこの区別を認めるのか認めないのかはこの個所を読む限り でははっきりしないが、彼も徳が身につくにつれしだいに上で述べたような努 力や自己犠牲が必要でなくなると論じている。

たとえば、ある人が若いころにワイン一般、あるいは特定の種類の食べ物を好 んでいたとする。しかし、それが体に良くないことがわかり、しだいに欲求の 満足に伴う不快さがひんぱんに経験されるようになり、つねに頭の中から離れ なくなる。その結果、未来の、しかし近い未来で確実な苦痛の観念が、現在の 快の印象——あるいは、同じことになるが、快に伴う苦痛の観念がなければ快 が得られたであろう時点に先立つ時点における快の観念——を上回るほど強烈 になる。つまり、時間的により遠いものの、結果として生じるより大きい苦痛 の観念が、時間的により近いものの、より小さな快の観念を打ち消すはたらき をするのである。(D 155-6)

このような連想の力を通じて、欲求の対象が嫌悪の対象になれば、もはや欲求 を抑制することなくして有徳な行為をなすことができるようになる。したがっ て、徳には努力が必要だと言っても、有徳な行為をなす度ごとに努力が必要で あるというのではなく、その行為がほとんどの人にとっては努力を要するもの であればよいのである (D 179)。以上で、ベンタムの徳一般についての説明の 検討を終え、次に個々の徳の分類についての彼の見解を見ることにする。


4. 徳の分類

ベンタムと同時代の神学的功利主義者ウィリアム・ペイリーによれば、徳の分 類で代表的なものは、徳を(1)善意benevolence、思慮prudence、勇気、節制の 四つに分けるもの、(2)自愛の思慮prudence、善意の二つに分けるもの、(3)思 慮、勇気、節制、正義の四つに分けるもの、そして(4)神に対する義務、他人 に対する義務、自分に対する義務の三つに分けるものがある13。ペイリーが(4)の立場を採用するのに対して、べンタム は(2)の分類に沿って自説を展開している。以下では、ベンタムによる徳の分 類および個々の徳についての説明を順に見ていく。

すでに見たように、ベンタムによれば、すべての徳は共同体の幸福を促進する という傾向を持つのだが、彼はまずこの共同体の幸福を、ある行為者の視点か ら(1)行為者自身の幸福と(2)行為者以外の人々の幸福とに分ける。そして、こ のように分けられた共同体の幸福のうち、行為者の有徳な行為によって(1)行 為者自身の幸福が促進される場合は、この徳を「自愛の思慮」と呼び、(2)行 為者以外の人々の幸福が促進される場合は、「善行beneficence」と呼ぶ (D 178)。この二つがもっとも包括的な徳と言われるが (D 122)、ときに(2)行為 者以外の人々の幸福を促進する徳を善行と誠実probityに分けることもある (D 190, 210. この区別については以下で説明する)。これらの二つないし三つの 徳が主要な徳primary virtuesと呼ばれ、それ以外の勇気や節制や正義などの 徳はすべて、これらの主要な徳に還元される二次的な徳secondary virtuesと して扱われる。ただし、二次的なものがいくつあるのかについては述べられて いない。

このように、ベンタムによれば、徳には大きく分けて2種類しかなく、自分の 幸福を促進する行為が自愛の思慮に適った行為であり、他人の幸福を促進する 行為が善行と呼ばれる行為である (ただし、先に見たように、有徳な行為であ るためにはそれが一般に努力が要求されるものであるという条件が付く)。一 見すると話は簡単に思えるが、『義務論』を詳しく読むと、この区別に関する ベンタムの議論はかなり入り組んでいる。それを下手に説明すると、かえって 話の筋を見えにくくすることにもなりかねないが、この議論は次節の徳と幸福 の関係についての議論とも密接に関係しているので、主要な徳である自愛の思 慮と善行(誠実を含む)についてもう少し詳しく見てみよう。


(1) 自愛の思慮

自愛の思慮の徳は、将来の幸福を得るために、現在の幸福を犠牲にすることに おいて発揮される (D 187)。もちろんこの場合、それによって得られると考え られる将来の幸福は現在の幸福よりも大きな価値を持ったものでなくてはなら ない。将来においてより大きな幸福を得られる見こみがないのに、現在の幸福 を手放すのは徳ではなく愚行である (D 188)。また、自愛の思慮には、意志や 感情ではなく主に知性の面における努力が必要であると言われる (D 179)。ベ ンタムの考えでは、すべての人は常に自分の幸福を促進させようという意志や 感情を十分に持っており、自分の幸福をよりよく促進させられるかどうかは、 もっぱら知性のよしあしに依存しているからである。

この徳は、問題の行為が他人の幸福に影響を及ぼすか及ぼさないかによって、 さらに「純粋に自分だけに関わる自愛の思慮」と「他人に関わる自愛の思慮」 とに区分される (D 123)。自分の行為が他人の幸福にも影響を及ぼす場合は、 他人に与えた影響が再びはねかえって自分の幸福になんらかの仕方で影響を与 えるとことが多いと考えられる。そこで、自分の行為がどのように他人の幸福 に影響を与えるかを考慮することが、自愛の思慮のために必要になるのである (D 123-4)。例を用いて説明すると、一部の人々はタバコを吸うことによって (少なくとも短期的には)幸福になる。もし誰もいない自分の部屋で喫煙するの であれば、それは純粋に自分だけに関わる自愛の思慮の問題である。しかし、 他の人と同席している場で喫煙する場合には、他人に関わる自愛の思慮の問題 になる。この場合、同席している人が自分のタバコの煙にかっとなって殴りか かってこないだろうかとか、おまえの吸ったタバコの煙のせいでガンになった などと言って後で訴訟を起こされはしないだろうかなど、自分の行為が他人の 幸福に与える影響を自分の幸福のために考える必要がある。


(2) 善行

自愛の思慮と比べると、善行の説明はより複雑で、「善行」と「善意」、「善 行」と「誠実」、「積極的善行」と「消極的善行」という区別がなされる。善 行はすでに見たように他人の幸福に役立つ行為をすることであるが、善意は、 善行をしようという欲求、あるいは善行をする傾向性であり、善意のない善行 は徳ではないと言われる (D 184, 212)。すなわち、自分の行為が期せずして 他人の幸福の促進に役立ったりする場合、それは善行の徳とは言われない。ま た、自分の幸福を促進するために他人の幸福を考慮するのであれば、それはす でに述べた「他人に関わる自愛の思慮」であり、善行の徳とは言われない (D 185, 212)。

誠実は、善行に数え入れられる行為のうちでも、自然的、宗教的、道徳的、法 的サンクションのいずれかのサンクションの力によって義務的だと見なされる ものであり (D 154, 211)、正義と同一視されている (D 127, 220)。また、積 極的善行は他人に善をなすことであり、消極的善行は他人に悪をなさないこと であるが、後者はより正確には、誠実の徳に反するとは言えないが他人を不快 にするような行為をなさないこととして説明される (D 183, 185-6, 212)。


5. 徳と幸福の関係

徳一般と個々の徳についてのベンタムの見解の概略は以上で説明し終えたので、 最後に、徳と幸福の関係についての彼の見解を考察する。

すでに見たように、徳は共同体の幸福を促進する傾向にある行為や傾向性につ いて言われる。しかし、ここで問題にしたい幸福は、共同体の幸福ではなく、 行為者自身の幸福である。したがって、以下で吟味したい問いは、徳と当人の 幸福との関係についての問い、すなわち、なぜ有徳であることが当人にとって 望ましいのか、という問いである。今、この問いをベンタムの主要な徳の分類 にしたがって二つに分けると、(1)なぜ自愛の思慮の徳は望ましいのかという 問いと、(2)なぜ善行の徳は望ましいのかという問いに分かれる。ベンタムが (1)の問いに答えるのは簡単だと思われる。人はみな自分の幸福(快と、苦の軽 減)を——より大きな幸福を——求めて行為する、というベンタムの人間本性 観を認めるならば、自分の幸福をよりよく得ることにおいて発揮される徳が当 人にとって望ましいのは当然である。

では、ベンタムは(2)の問いにはどのように答えるだろうか。善行の徳を身に つけるということは、善意の欲求ないし動機から他人の幸福を配慮するという 傾向性を身につけるということである。しかし、自愛の思慮(他人に関わる自 愛の思慮)を十分に備えた人も、動機は違うにせよ、やはり他人の幸福を配慮 して行為するであろう。すると、自愛の思慮を十分に備えた人でも、さらに善 行の徳をも身につけた方が望ましいと言えるのだろうか。

ここで、先ほどのタバコの例を修正してもう一度考えてみよう。自愛の思慮の 徳を備えた(しかし善行の徳は持たない)人がわたしと同席している場合、彼 (女)はわたしから何らかの形で仕返しされることを恐れて喫煙を控えるかもし れない。だが、もし、たとえわたしがタバコの煙によって苦痛を感じたとして もわたしの気が弱いために仕返しされる恐れがないと知っているならば、自愛 の思慮の徳を備えた人は自分の幸福の促進のためにかまわず喫煙するかもしれ ない。他方、善行の徳を身につけた人ならば、わたしからの仕返しのあるなし にかかわらず、まさにわたしが苦痛を感じる、ということへの配慮から、喫煙 を差し控えるであろう。また、以上の例において、自愛の思慮の徳を備えた人 がわたしにかまわず喫煙する場合よりも、善行の徳を備えた人が喫煙を差し控 えた場合の方が、共同体あるいは利害関係者全員の幸福の総量が増えるものと しよう。

このような事例が考えられるならば、自愛の思慮の徳を持つ人と善行の徳を持 つ人の行為は異なりうることになり、共同体の幸福の促進という視点から見る かぎり、人は自愛の思慮だけでなく善行の徳をも身につけた方が望ましいこと になろう。しかし、自愛の思慮を備えているが善行の徳は身につけていない人 は、これだけではまだ納得しないかもしれない。彼(女)は、善行の徳が共同体 の幸福だけでなく、自分の幸福を促進することを保証されないかぎり、善行の 徳を身につける必要性を認めないかもしれない。

このような人に対してベンタムはどのような説得を行なうであろうか。彼なら、 善行の徳を備えた人のする行為と自愛の思慮の徳を備えた人のする行為がかな りの程度一致することを説くであろう (D 182, 193, 196-7)。先のタバコの例 に戻ると、やはりわたしによる仕返しや周囲の人からの非難などといったサン クションを考えると、自愛の思慮の観点からしても喫煙を控えた方が賢明と言 えるかもしれない。さらに、善意から生じる快(共感のサンクションとも言わ れる)も、ないがしろにできない大きな快である (D 183)。他人の快の増大、 あるいは苦の軽減によって自分にもたらされる快を享受する感受性を育てるこ とが自分により大きな幸福をもたらすならば、この感受性を育て、善意から行 為できるようにすることは自愛の思慮に適っている。

以上のようなベンタムの説明は、彼の人間本性観からすると妥当な説明だと思 われるが、しかし、このように説明するのなら、むしろ善行の徳は勇気や節制 などと同様に自愛の思慮の徳に従属するものだと考えた方が適切ではないだろ うか。というのは、ベンタムは善意から行為することに特別な道徳的価値を認 め、善行の徳と自愛の思慮の徳という二本立てで徳を説明しようとするが、し かしこの二つの徳についての彼の議論を見るかぎり、基本となるのは自愛の思 慮の徳であり、善行の徳を成立させるものとしての善意は自愛の思慮によって その価値を説明されるものであるように思われるからである。自愛の思慮の徳 を備えている人は、善意から他人の幸福を配慮することを学ぶことが望ましい が、それはそうすることが自分の幸福の促進に役立つからである。(了)

(こだま さとし 博士後期課程一回生 日本学術振興会特別研究員)


  1. これは第二回日本公益(功利)主義学会で発表したときの最終原稿です。 これをもとにした論文が『実践哲学研究』(第22号)に掲載される予定です。
  2. David Baumgardt, Bentham and the Ethics of Today, Princeton UP, 1952, p. 236.
  3. Jeremy Bentham, An Introduction to the Principles of Morals and Legislation (hereafter IPML), Oxford, 1996, p. 3.
  4. アリストテレス、『ニコマコス倫理学』、第二巻第六章。 ただし、W. D. Rossの訳ではhexisは主にstateと訳され、 ときおりdispositionと言い換えられている。
  5. 同様に、習慣も、行為の繰り返しによって形成されると想定される、 虚構物である (IPML 78i, 119z)。 なお、習慣と傾向性との関係については、 「習慣は多数の行為の結果である。傾向性は習慣の結果である」 (Jeremy Bentham, Deontology together with A Table of the Springs of Action and Article on Utilitarianism (hereafter D), Amnon Goldworth ed., Clarendon Press, 1983, p. 349)と述べられている。 すなわち、これまでに同じ行為を繰り返してきたという実績が習慣と呼ばれ、 その実績に基づいて今後も同じような行為をするものと想定される 心の傾きが傾向性と呼ばれるのである。
  6. 徳に関するベンタムの記述は、 Bhikhu Parekh ed., Bentham's Political Thought, Croom Helm London, 1973.にも収録されている。 新全集版の『義務論』とほとんど重複する内容だが、 コンパクトにまとめられているので参考になる。
  7. Deontologyはベンタムの造語であり、 ギリシア語のdeon (あるべきもの、ふさわしいもの)と logosから作られたものである。
  8. この定義によれば、たとえば、人間は、 動物という類概念と、理性的という種差によって、 理性的動物として定義される。詳しくはD 74以下を参照せよ。
  9. 『ニコマコス倫理学』、第二巻第五章
  10. ベンタムは、happinessとwell-beingの違いを『義務論』 中のあるところ(D 130)で述べているが、 必ずしも常に厳密な区別をしているわけではない。 本論でも特に区別する必要はないと思われるので、 以下では両者ともに「幸福」と訳すことにする。
  11. D 179にある例を簡単にまとめた。
  12. 『ニコマコス倫理学』、第7巻(特に第9章)参照。 また、アリストテレスの倫理学説については、 J・O・アームソンの『アリストテレス倫理学入門』 (雨宮健訳、岩波書店、1998年)も参考にした。
  13. William Paley, The Principles of Moral and Political Philosophy, London, 1811, p. 43-4. なお、prudenceは、 目的を達成する手段を選ぶことにおける卓越性を指す場合と、 自分の利益や幸福の配慮に優れていることを指す場合 (これに対し、他人の利益や幸福の配慮に優れているのは善意benevolence ないし善行beneficenceと呼ばれる)とがある。 ここでは前者の意味にとれるものを「思慮」、 後者の意味に取れるものを「自愛の思慮」と訳した。 以下で見るように、 ベンタムはprudenceをもっぱら自愛の思慮という意味で用いる (cf. D 127a)。

KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Mar 24 14:42:24 JST 2000