• 千葉大学看護学部長に見藤隆子、就任

    -1983 昭和58年-

     昭和58年4月2日、女性としては初めての国立大学学部長に千葉大学看護学部教授の見藤隆子が学部長として選出され、就任した。

  • 婦人慈善会によって建てられた
    有志共立東京病院看護婦教育所の建物

    -1886 明治19年-

     有志共立東京病院は、海軍軍医監高木兼寛らによって設立されたが、婦人慈善会の大山捨松に看護婦の必要を指摘され、看護婦の教育を開始したといわれる。(慈恵看護専門学校蔵)

  • 桜井女学校のツルー夫人、看護婦学校を開設

    -1886 明治19年-

     ツルー夫人はアメリカの女性伝道協会等の資金援助を受け、女学校の中に看護師学校を開設した。

  • 京都看病婦学校での看護教育開始

    -1886 明治19年-

     新島襄は同志社の中に医学校を設立する計画をもっていたが、同志社病院のベリー医師の意見をいれ、有志の寄付金によって京都看病婦学校を設立した。教師にはアメリカからリンダ・リチャーズらが招かれた。(『京都看病婦学校50年史』より)

  • 桜井女学校の看護婦生徒と
    アグネス・ヴェッチ

    -1888 明治21年-

     桜井女学校(現女子学院)の看護教育は、アメリカから女医ライトとイギリス人のアグネス・ヴェッチを看護教師として招いて行われた。写真は、10月26日の卒業記念のものと思われる。

  • 濃尾大地震の救護活動

    -1891 明治24年-

     明治24年10月28日に発生した大地震は愛知県、岐阜県で6千人以上の死者を出すなどの被害を与えた。この災害の救護に日赤はじめ各地の病院から医師、看護婦が駆けつけた。

  • 鈴木雅、慈善看護婦会を設立

    -1891 明治24年-

     帝国大学医院の婦長を辞職した鈴木雅は、外国の例にならい派出看護婦会を設立し、在宅の病人の看護をはじめた。彼女は貧乏な病人には無料で看護サービスをするなどした。

  • 京華看病婦学校(仏教系)の開設

    -1893 明治26年-

     京都看病婦学校の慈善活動に啓発され、真宗大谷派の法話会が中心となって看護学校を設立した。(『婦人雑誌』より)

  • 日清戦争によって看護婦の存在が
    全国的に知られる

    -1894 明治27年-

     日清戦争がはじまるや、日赤は救護活動に看護婦を起用することを提案した。女性による救護活動に対する偏見があり、当初、政府側は難色を示したが、石黒忠悳の説得により看護婦による負傷兵救護が開始された。(小林清親画「皇后宮野戦病院行啓之図」日本赤十字看護大学所蔵)

  • 大日本看護婦人矯風会の設立

    -1899 明治32年-

     派出看護婦会の増加により、急速な看護婦の増加と質の低下が生じた。この事態を憂えた看護婦大関和らは内務省に規則制定を働きかける一方、看護婦人矯風会を設立して業界の浄化に立ち上がった。

  • 聖路加病院の荒木イヨ、アメリカへ留学する

    -1900 明治33年-

     看護婦の留学第1号は、明治20年7月の有志共立東京病院の拝志よしね、那須セイのイギリス留学である。(聖路加国際大学編纂資料室所蔵)

  • 北清事変の救護活動で、
    看護婦、女性初の船上勤務を行う

    -1900 明治33年-

     日赤の救護活動では初めての患者輸送船(のちの病院船)が登場した。すでに乗船訓練を受けていた看護婦たちはこのとき初めて海上での救護活動を行った。

  • 看護婦の質の低下が起こる

    -1906 明治39年-

     日露戦争後の不況と戦死者や負傷者の家庭の女性たちの増加は職業婦人の増加を招いた。(『当世医者気質』より)

  • 第2回ICN大会に日本から日赤看護婦参加

    -1909 明治42年-

     ロンドンで明治42年7月19日から5日間の日程で開催された第2回ICN(国際看護婦協会)大会に、当時ヨーロッパに派遣されていた日赤看護婦荻原タケが日本人看護婦として初めて参加した。

  • 第1次世界大戦の救護活動

    -1915 大正4年-

     第1次世界大戦が起こると、日赤は各支部から選出した看護婦を救護班としてヨーロッパへ派遣した。

  • 華頂看護婦養成所の設立

    -1918 大正7年-

     知恩院では、すでに明治39年に尼僧たちを通夜看護隊として組織したり、看護婦学校を作った。大正7年になり、知恩院の華頂婦人会が同会の事業として看護学校を設立することになり、教育は府立医専等に委託された。(山門の横の建物が、かつての華頂看護婦学校の宿舎だった。)

  • フローレンス・ナイチンゲール記章制定
    日赤から、看護婦3名が受賞

    -1920 大正9年-

     ナイチンゲールの死去後、1912年に赤十字国際委員会はその年に最も功績があった看護婦に対し、フローレンス・ナイチンゲール記章を贈ることを決定し、基金を募った。大正9年5月、第1回目の受賞者は日赤の荻原タケ、山本ヤヲ、湯浅うめ3氏。

  • 看護婦、公衆衛生活動に加わる

    -1921 大正10年-

     第1次世界大戦後、世界的な公衆衛生活動の幕開け時代を迎えた。赤十字連盟は1920年から公衆衛生看護講習会を開催、日赤の田淵マサ代がロンドンの第2回講習会に派遣され、公衆衛生教育を導入する準備に当たった。アメリカで教育を受けた平野みどりらが聖路加国際病院でミス・ヌノらとともに公衆衛生部門の開設に当たった。(写真は京橋保健館 聖路加国際大学編纂資料室所蔵)

  • 聖路加女子専門学校
    看護系として初の女専に昇格

    -1927 昭和2年-

     大正9年から女学校卒業者を対象としてアメリカ並みの看護教育を開始していた聖路加高等看護婦学校は、アメリカ聖公会、ロックフェラー財団の援助などを受け、昭和2年に女子専門学校に昇格した。(聖路加国際大学編纂資料室所蔵)

  • 日本看護婦協会の設立

    -1928 昭和3年-

     ICN大会参加以降、日本の看護婦の職能団体の結成が課題となっていたため日赤同方会が中心となり、在京の看護婦達に呼びかけて昭和3年に日本看護婦協会を設立した。(写真は、設立準備のための会合)

  • 保良せき、公衆衛生看護婦協会を設立

    -1930 昭和5年-

     アメリカで公衆衛生を学んだ保良せきは、大阪朝日新聞社会事業部の援助を受け公衆衛生看護婦協会を設立。訪問看護事業を展開して市民の衛生状態の改善に努める一方、昭和5年からは機関誌『看護婦』を発行し、看護界の啓発に取り組んだ。

  • 日中戦争のため、日赤看護婦相次いで応召

    -1937 昭和12年-

     昭和5年頃より日赤看護婦は日中戦争の救護活動に召集され始めていたが、昭和11年からは戦争拡大による救護活動が活発化した。

  • 島根県立高等女学校、保健科を開設

    -1941 昭和16年-

     戦時下では健民健兵が求められ、保健婦の重要性が認識されるに至った。島根県では農村部での結核が蔓延、このため松江と浜田の女学校で昭和16年に保健科が開設され、卒業生たちは保健活動に参加した。

  • GHQによる戦後の日本の看護改革

    -1945 昭和20年-

     GHQ(連合軍最高司令部)の公衆衛生福祉部に看護課が設置され、アメリカの看護婦オルト少佐が配属された。彼女を中心として日本の看護制度の大幅な刷新が目指された。

    (米国陸軍センター歴史課提供)

  • 東京看護教育模範学院の開設

    -1946 昭和21年-

     GHQの指導のもと、聖路加女子専門学校と日赤中央病院看護婦養成所を合流し、模範的な看護教育が実施された。

  • 日本産婆看護婦保健婦協会の結成

    -1946 昭和21年-

     戦前の日本看護婦協会にかわり、新たにGHQの援助を得て看護職である看護婦、産婆、保健婦を統合した職能団体が結成され、看護職の手による地位の向上や改革が取り組まれることになった。日本看護協会出版会『日本看護協会史Ⅰ』より

  • 看護婦の代表、国会へ送られる

    -1947 昭和22年-

     昭和22年4月20日、戦後初めての参議院議員選挙が実施された。婦人参政権の獲得ということもあり、政治に対する女性の関心は高く、多くの女性議員が誕生した。

  • 厚生省医務局に看護課設置

    -1948 昭和23年-

     昭和23年7月15日、厚生省医務局に看護課が設置されると、保良せきが課長に就任し、看護制度問題などの行政の場での解決を目指した。

  • 天使女子、聖母女子の姉妹校
    相次いで短大に昇格

    -1950 昭和25年-

     昭和25年短期大学設置基準が打ち出されると、天使女子、聖母女子が相次いで看護系初の短大として昇格した。なお、公立の看護系短大としては昭和29年開設の、京都市立看護短期大学が最初。(写真は京都市立看護短大)

  • 県立高知女子大学に看護系として
    初の4年制教育課程が誕生

    -1952 昭和27年-

     昭和27年4月、高知女子大学家政学部看護学科が発足し、看護系として初の4年制教育を開始した。国立大学としては昭和28年4月に東京大学医学部衛生看護学科が誕生している。(昭和40年より保健学科と改称)

  • 看護制度改悪反対決起全国大会開かれる

    -1956 昭和31年-

     GHQ解散後、昭和26年には乙種看護婦の廃止、看護婦1本化がされるや、新たに准看護婦制度が誕生した。写真は、日本医師会が低賃金でしかも容易に養成できる看護婦を作ることを骨子とした看護制度改革案を阻止するための決起集会。

  • 看護婦、全国的な病院ストに参加

    -1960 昭和35年-

     戦後の極端な看護婦不足と、白衣の天使といわれる看護婦の聖職視も手伝い、看護婦は劣悪な労働条件に甘んじてきたが、全日赤のストを皮切りに、看護婦が待遇改善を求めて各地でストに参加した。(写真は、2年前の前哨戦のもの)

  • 湯槇ます、東京大学教授に就任

    -1965 昭和40年-

     東京大学初の女性教授としては、東洋文化研究所の中根千枝が知られているが、それよりも早く衛生看護学科(現保健学科)の湯槇ますが退官直前に、教授に昇格している。

  • ニッパチ闘争

    -1968 昭和43年-

     昭和43年3月、新潟県立病院の看護婦たちは夜間の複数以上勤務、夜勤日数の削減などを求め、ストライキを起こした。この「ニッパチ」(2人以上、月8回以内夜勤)闘争は、またたく間に全国の看護師に波及していった。

  • ICN東京大会の開催

    -1977 昭和52年-

     日本看護婦協会は戦時下にあって、ICNを脱会していたが、昭和24年のストックホルム大会の場で、再加盟が承認された。昭和52年5月30日~6月3日、日本で初めてICN東京大会が開催され、72か国から約1万人の看護婦が参加した。

  • 従軍看護婦に対し、恩給の支給が決定される

    -1978 昭和53年-

     日赤の従軍看護婦(正式には救護看護婦)1300名に対し、昭和54年度から慰労給付金を支給することが決定、さらに昭和55年度からは旧陸海軍看護婦に対しても恩給を支給することが決定された。

  • 千葉大学に大学院設置される

    -1979 昭和54年-

     文部省によってようやく看護学修士課程が認められた。昭和54年4月千葉大学が大学院設置校となり、看護学修士への道を開いた。

  • 千葉大学看護学部長に見藤隆子、就任

    -1983 昭和58年-

     昭和58年4月2日、女性としては初めての国立大学学部長に千葉大学看護学部教授の見藤隆子が学部長として選出され、就任した。

  • 婦人慈善会によって建てられた
    有志共立東京病院看護婦教育所の建物

    -1886 明治19年-

     有志共立東京病院は、海軍軍医監高木兼寛らによって設立されたが、婦人慈善会の大山捨松に看護婦の必要を指摘され、看護婦の教育を開始したといわれる。(慈恵看護専門学校蔵)

  • 日本看護歴史学会は

広く看護の歴史を探究すること、そのための人的、知的交流を図ることを目的として、1987年8月に設立されました。 本学会では、年1回の大会および総会の開催、機関誌『日本看護歴史学会誌』の発行、理事・会員による地域の看護の歴史研究活動の推進などを行っています。

 

 

  • 新着情報(最終更新日 令和7年1月15日)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

令和4年12月22日

●第37回日本看護歴史学会学術集会のご案内(右記参照)

 

令和4年11月15日

 

 

令和4年6月27日

●会費振込の際のお願い 会員の皆様には、会費納入いただきありがとうございます。
  1. 住所変更や、退会通知は、振込用紙への記入ではなく変更届用紙にてご提出ください。
  2. 重複のお支払いなど余剰金がある場合は、翌年度会費への充当とさせていただきます。

 

 

  • 第39回日本看護歴史学会学術集会

会期:2025年8月9日(土)・10日(日)
大会長:春日広美
事務局:〒261-0014
    千葉県千葉市美浜区若葉2丁目10番1号
    千葉県立保健医療大学
    健康科学部看護学科内

※画像のクリックでポスター(PDF)を表示します

学術集会ホームページ
https://www.jsnh39.com/


開催内容の詳細につきましては本サイトに随時掲載します。

 

 

  • 学会誌の投稿締め切り日について

 「日本看護歴史学会投稿規程」の一部改正(2019年5月1日)によって、2020年より投稿論文の締め切りは6月末日となっております。

 締め切り日に関するお問い合わせは編集委員会まで
(kawahara@redcross.ac.jp TEL03-3409-0185、もしくは下記まで郵送)お願いいたします。

 〒150-0012 東京都渋谷区広尾4-1-3 日本赤十字看護大学内

 日本看護歴史学会編集委員会 川原由佳里