平成6年3月20日から27日まで世界パラグライダー選手権のプレ大会が北九州市の皿倉山で開催された。
3月20日の大会初日、32才のスイスの選手が、離陸後、パラグライダーの右翼がうまく開かず、修復に気をとられているうちに風で流され、皿倉山の頂上にあるテレビ塔に接触し、7ー10mの高さから地上に墜落した。救助隊がかけつけた時はうずくまるような姿勢で、意識がなくあえぐような呼吸であったとのことである。事故の模様は、たまたまビデオ撮影していた人によって映像として残されている。
患者は現場にいた医師(北九州市立八幡病院放射線科勤務)の指示で、万一の事故に備えてスタンバイしていた市消防局のヘリコプターで北九州空港に搬送され、空港から救急車で北九州総合院に搬入された。事故から病院搬送までの所要時間は約40分程度であった。
搬入時、意識レベルはJCS(日本式昏睡尺度)で200、GCS(グラスゴー昏睡尺度)では4点で、あえぐような呼吸であった。救急外来で気管内挿管を行い、各種レントゲン撮影の後にICUに収容した。
頭部CTでは脳内に小出血が複数みられ、くも膜下出血を疑う所見も存在した。頭部については意識状態とCT所見からDAI、すなわちびまん性軸索損傷と診断した。硬膜下、硬膜外血腫は見られず、手術の適応はないと判断した。
胸部は、皮下気腫があり、当初より胸部外傷を疑っていたが、レントゲン写真から、右外傷性血気胸、多発肋骨骨折(右第3から10肋骨までの計8本)、肺挫傷と診断された。直ちに胸腔ドレーンを挿入したが、挿入直後には空気とともに200-300ml程度の血液が排出された。右側胸部の腫脹は経時的に増大し、皮下にも大量出血をきたしていることが判明した。
脊椎の脱臼や骨折について、可能な範囲でレントゲン検査を施行したが、明らかな脱臼や骨折はみられなかった。
腹部損傷は否定的で、四肢の骨折は見られなかった。
尚、診断や治療方針については、麻酔・集中治療科、脳外科、外科、整形外科の医師で検討した。病状説明はパラグライダー協会の役員とスイス人の同僚に対して、適時通訳を介して麻酔・集中治療科の井上が行なった。
自発呼吸はあるものの、自発呼吸だけだと努力性の頻呼吸となるため、人工呼吸器(SERVOー900C)を用いて、PRESSURE SUPPORT(圧補助)モードで補助呼吸を行なった。当初経口挿管で管理を行なっていたが、受傷後7日目の3月26日に経鼻挿管に切り換えた。
意識不明の状態は持続し、最も悪化した時期には、四肢は弛緩性の麻痺を呈し、痛み刺激にも殆ど反応しなかった。瞳孔は当初左右同大で2mm程度の縮瞳を呈していたが、日数経過とともに、次第に明らかな対光反射を認めるようになり、痛み刺激に対して四肢をわずかに動かすようになった。
ABR(聴性脳幹反応)は正常パターンを呈していた。脳波はやや除波傾向があるものの、α波を認めた。SEP(体性感覚誘発電位)は反応が非常に悪く、脳幹部の障害を示唆した。
胸腔ドレーンは、排液が殆どなくなったため3月26日に抜去した。胸腔内への血液喪失は約800mlで、皮下への出血をあわせると、最終的に総計2000ml程度の血液喪失があったものと思われる。尚、胸腔に液体の再貯留を認めたため、4月1日に胸腔ドレーンを再挿入して、血液を混じた滲出液を約700ml排液し、4月4日には抜去した。
スイスより母親と婚約者が訪れ、彼女らに対して、通訳を介して、あるいは直接に、麻酔・集中治療科の井上が病状説明を行なった。その要旨は次の通りである。
1. 頭部を強くうっており、高度の意識障害があり、重篤な状態である。意識が回復するかどうかについ ては何とも言えないが、可能性はあると思う。仮に良くなるとしても、こういったタイプの頭部外傷 では回復までに時間がかかり、それは1ヶ月とか2ヶ月単位である。最悪の場合は脳死に陥り、救命で きないこともあるが、10日以上経過して脳死にならなければ、脳死に陥る可能性は極めて低くなる。 あくまで印象としてだが、脳死になる可能性は低いと思う。
2. 胸部にも重篤な外傷があるが、これについては我々の医療水準からすれば致命的になることはない であろう。ただし、こういった重篤な意識障害と呼吸障害のある患者では肺炎などの感染が致命的に なることはある。
家族から、この病院での医療に感謝し、信頼しているが、本国から遠く離れており、自分達としても長く滞在できないので、REGA(スイス航空救助隊)という組織に依頼してなんとか本国に連れて帰りたいという要望が出された。これに対して、気持ちは理解しているが、現在はとても移送できる状況ではないと説明し、移送が可能な段階となればできるだけの協力をすることを約束した。
この時点ではREGAに関する知識がなかったため、REGAを取材したことのある旧知の中京テレビ杉本育隆ディレクターに連絡をとり、杉本氏からREGAに関する情報をファックスで得た。これにより、REGAが医療用の特別小型ジェット機を有し、非常に洗練したシステムで国内外で活動している組織であることを知った。
その後、井上が時間をかけて家族と直接に話しあったが、母親は移送への強い希望を繰り返し表明した。婚約者の話ではトーマス氏は日頃から万一外国で事故に遭遇した時はREGAに依頼してできるだけ早く本国に移送して欲しいとの語っていたということであった。
母親と婚約者に、こういった患者の移送がリスク無しに行えるということはあり得ないということを理解してもらった上で、家族の状況、REGAの機動力、その時点での患者の病態、などを総合して搬送を決意し、具体的な計画を立てることにした。
井上の元同僚で英語に堪能な広島大学医学部麻酔・蘇生科の金子高太郎医師の協力を得て、英文の病状経過説明書を作成し、3月30日に大阪のスイス領事館を通じてREGAにファックスで送った。その後は井上がREGAの専属医師(Dr.Philip)と直接に電話で打ち合せを行った。Dr.Philipは「あまりリスクをおかすわけにはいかない、あなたはやれると思うか?」と聞いてきたので、「やれる」と答える。結局、搬送は行うとして、実施時期についてはもう少し経過をみた上で最終決定を行なうということで合意した。
Dr.Philipからは、飛行機内は気圧が低くなるため低酸素状態となる可能性があり輸血を行なって貧血を改善しておいて欲しいということ、意識・呼吸状態から判断して必要と思われるなら気管切開を搬送前に行なっておいて欲しいということ、が要望として出された。これに対して、輸血に踏み切ることで貧血を改善し、気管切開術を施行した。
その後も電話でREGAのスタッフと打ち合わせを行い、最終的に、4月6日(水)午後3時半にREGAの特別機と医療スタッフが北九州空港に到着し、4月7日(木)午前11時に北九州空港を出発するという計画が決定された。最終決定がなされたのは4月5日(火)である。搬送にあたってはREGAは自己完結的に作業を行なうのが原則で、こちらの医療スタッフの随伴は必要ないとのことであったが、井上が同行を希望し、「歓迎する」との返答を得た。
パラグライダー協会及び市消防局と最終的な打ち合せを行い、4月6日のREGAの到着を待った。尚、中京テレビ杉本ディレクターより取材申し込みがあり、院長の了承を得た上で取材を許可した。家族については、井上としては紹介のみにとどめた。4月6日の昼に中京テレビがドイツ語に堪能な記者を介して直接に家族の取材許可を得た。
飛行機の到着時間が予定より遅れたものの、REGAから、医師一名(LERCH NICOLAS、看護婦二名(LEUTENEGGER MONIKA, EYHOLZER BRIGITTE)、日本人通訳一名(STEINEMANN SUGAKO)が4月6日夕刻に来院した。
ICUにてREGAのスタッフと患者家族が話し合いを行い、井上からもREGAのスタッフに病状を説明し、予定通り搬送することが確認された。
4月7日、朝から出発準備に慌ただしい。午前9時30分にREGAのスタッフが病院に来て、一緒に出発準備を行なう。市消防局の古元警防部長や救急課のスタッフも駆け付ける。
小倉南消防署の高規格救急車で午前10時10分に病院を出発したが、その直前にハプニングがあった。それは嘔吐である。しかも、吐液は消化管出血を思わせる黒褐色のもので、呼吸状態も心なしか一段と悪くなった感がある。今まで嘔吐などしたことがないし、消化管出血も起こしたことがないのにと、いまさらなんということだと一瞬蒼白になる思いであった。しかし、ここまできて今さら引き返すことはできない。とりあえず鎮静薬を投与したが、こんな時は、中途半端な自発呼吸のあることが腹だたしく思える。
REGAのLERCH医師(以後ニコラと略称)に後から聞いたところによれば、患者を搬送する時にはこのようなことがよく起こるのだそうだ。例え意識がない患者であっても、搬送というのは大きなストレスになるという。結局飛行機の中では筋弛緩薬を投与して調節呼吸にしたのだが、それなら最初から投与しておけばよかったと悔やまれる。もちろんそのことを考えなかったわけではない。しかし、今までにCTとかの検査で患者を動かした時には特に何事も起こらなかったわけで、飛行機の中での管理がどのようなものか未体験だし、自発呼吸を残しておけば万一気管カニュ−レなどが事故的に抜けた時にはより安全であり、また、REGAの管理下になるのことがわかっていて直前に薬を使うのもどんなものかと躊躇してしまった。「恥ずかしい次第だ」とニコラに言ったら、「起こった後からならなんだって言える、気にする必要はない」と。とはいえ、ニコラは誤嚥のことは後々まで心配していた。もちろん私も同様で、チュ−リッヒ大学附属病院外傷センターのICUに無事送り届けるまで、眠る気にもなれず、胃が悪くなるような思いであった。幸い今回は大事に至らなかったからよかったようなものの、こういう業務に従事する医師のストレスというのは相当なものだろうとしみじみ思った。
飛行場にはかなりの人達が来ていたと思われるが、ゆっくりながめまわす余裕などない。救急車から患者を降ろして飛行機のストレッチャ−に収容し、人工呼吸器やモニタ−を接続し、それぞれがうまく機能していることを確認してひと安心。古元部長を機内に招き入れて簡単に案内し、皆さんに軽く挨拶していよいよ出発である。
飛行機は午前11時に北九州空港を離陸し、一旦福岡空港に着陸する。そこで出国手続きやら何やらをして、午後12時10分に福岡空港を離陸する。なんだかんだで一時間近くかかったわけだが、こんな状態なのだからもう少し早くできないかとイライラしたが、こういった特別機の日本での飛行や離発着に関しての手続きを代行しているIVASの犬塚さんの話によれば、特別機の場合はなかなか面倒なのだそうだ。「日本はこういう飛行機にも冷たいんですよねぇ」と。もちろん、空港の職員に悪意はないはずで、要するに融通をきかして便宜をはかるということが機構上なかなかできないのであろう。ただし、機長のBURUNO KUGLER氏が語ったところによれば、「自分は世界中飛んでいるが、日本の空港職員は非常にきちんとしていて、いつも感心している」とのことである。
福岡空港を離陸してからは高空飛行のため、どこをどう飛んでいるのかサッパリわからない。ロシアのイルクーツクに着くまで大体6時間だという。
患者の容態はまずまず落ち着いており、モニターと患者にチラチラ目を向けながら、機内を色々のぞいたり、REGAのスタッフと雑談したりする。
機内には座席として、操縦席の間のすぐ後ろに一つ、ストレッチャーの足元に2つ、その後ろに2人向い合わせで4席の計7席がある。座席は必要に応じてストレッチャーにおきかえることができる。トイレは最後尾だ。
右側の操縦席の後ろは2段ベットになっており、通路の反対側には飛行機に関する色々な備品や書類がおいてある。人工呼吸器と、パルスオキシメーター、ETCO2モニターはストレッチャーの頭側、つまり機首側にあり、心電図、動脈圧モニターは飛行機の右側の壁におかれている。ストレッチャーをはさんで通路の反対側、つまり機首に向かって右側にはもう一つストレッチャーがおいてあり、ストレッチャーの台の中には引出しや開き戸式で薬品や医療用具がおいてある。したがって、左側のストレッチャーは右側のものより高い位置にある。
後方の向い合わせの4席の座席の通路を挟んで反対側には、食料がおいてあり、適当に引き出しては食べる。食料はスイス航空があらかじめ積み込んでくれるのだそうだ。それをオーブンで温めて食べる。飲物は現地調達のようで、日本からは飲用水やコーヒーを積み込んだようだ。日本のコーヒーは大好評であった。特にニコラは、「日本のコーヒーはどうしてこんなにうまいのか」と感心しきりであった。確かに、私もヨーロッパ、アメリカ、アフリカなど、色々なところでコーヒーを飲んだが、日本のコーヒーが一番おいしいと思う。
REGAというのはそもそもどういう意味だとニコラに質問したら、「RETTUN-GSFLUGWACHT GARDE AERIENNE SUISSE」の略だと教えてくれた。私には何のことかわからないが、実際、REGAといっても国外ではなかなか通用しないので、スイス以外では「SWISS AIR AMBULANCE」と公称しているという。
ニコラはもともと麻酔科医としてトレーニングを受けたとのことだが、昨年にREGAに入り、チューリッヒ近くのヘリコプター基地に6ヶ月間勤務し、昨年10月からジェット機に勤務するようになったという。移送業務はヨーロッパが多いが、アフリカにも何度も行ったとのこと。人工呼吸器を必要とする患者はそのうち5-10%程度のようだ。脳死患者を搬送した経験もある。「なぜ脳死患者をわざわざ搬送するのか」と聞いたところ、患者家族の強い希望があったからだと答えていた。尚、搬送する患者の95%がスイス在住の人である。これは、スイス在住でないとREGAの会員になれない、つまり、原則としてREGAの恩恵にあずかれないからである。ただし、REGAの会員でなくても、加入している保険会社がREGAと契約している場合は救援対象となる。
ニコラにとって日本は今回が初めてだったわけだが、もともと日本には興味があり、実現はしなかったものの、かつて3ヶ月滞在する計画を建てたこともあるという。昨日は、ホテルに一旦帰ってから皆で街に繰り出し、午前0時過ぎまでヤキトリとか寿司を食べまくったらしい。通訳で同行したSUGAKOさんが、「行こう!! とか言ってみんな元気なんですよねぇ、でも私は小倉を知らないものだからお店がわからなくて。。。」と裏話をしてくれる。「そんなことだったらおつきあいしてあげたのに。こっちは、長旅で疲れているだろうと気をきかせたんだけど」と伝えてもらう。ニコラは、「今度またいくから」と屈託がない。確かに、このぐらいの元気と明るさがないとこういう仕事はやっておれないだろう。
今回日本に飛んできたのはCL601-3Aという機種でHB-IKTの機名がついた小型ジェット機で、一機20億円ぐらいするらしい。高度9000m以上を最高時速880kmで飛行し、最大航続距離が6000km以上というから、例えば東京からだと1時間半程度で鹿児島に飛び、患者を収容して、給油なしに東京に戻れる。
患者には北九州空港を離陸した後にモルヒネが投与され、機内でも持続的に鎮静薬(ドルミカム)が投与されて、完全に人工呼吸下におかれている。パルスオキシメ−タ−で動脈血酸素飽和度を持続的にモニタ−しているが、大体95-96%で推移している。
福岡空港を離陸してから3時間ぐらいたった時に患者の体位交換を行なうことになったが、その後しばらくして患者の酸素飽和度が93%程度まで低下し少しあわてる。ニコラと看護婦のMONIKAさんが険しい表情で何やら言いあっているが、もちろん私には内容がサッパリわからない。たぶん原因について議論していたのだろう。日本だと治療や対処について医師と看護婦が議論することは殆どないが、彼女は堂々としたもので、医師に対するものの言い方も全然遠慮したところがない。彼女はREGAの専属ナースだが、年に2週間程度病院での研修を義務づけられているという。今回一緒に日本に来たもう一人のナースのBRIGITTEさんは、チューリッヒ大学附属病院とREGAを半々で勤務しているそうだ。スイスでは50%働くということができるらしい。REGAにはナースが10人くらいいる。
患者の酸素飽和度は93%から時にそれよりも下がり、私も心配になってニコラと相談するが、人工呼吸器は問題なく作働しており、結局、まだ非常に危機的状況ではないだろうということで、気管内吸引などをしながらもう少し様子を見ることになった。
そのうち、フロ−メ−タ−の酸素流量が1L以下に下がっているのに私が気がついて、「これでいいのか?」とニコラに尋ねる。確かもう少し流量があったような気がする。飛行機に搭載されている人工呼吸器はBEAR33という機種で流量で吸入酸素濃度を調節するようになっているが、1Lだと40%にもならない。「調子が悪いのかも知れない」とニコラ。
この飛行機の酸素供給システムは三つあり、一つは医療用ボンベの酸素、一つは客室用のもの、もう一つは、大気中から酸素を取り出して供給するシステムである。第三番目のものはREGA独特のもので、器械好きのパイロットが考案したらしい。それまでは第三番目のシステムを作動させていたらしいが、どうも調子が悪いというのでパイロットも一緒になって皆であれやこれややりはじめた。結局自力供給システムはあきらめてボンベ供給に切り替えたようだ。酸素流量をあげて以後は酸素飽和度も改善し胸をなでおろす。
飛行機は順調に飛行を続け、天気も快晴となり、眼下に砂漠が見える。ゴビ砂漠だ。そのうちモンゴル上空に来たらしく、操縦席から出てきた機長が、あれがウランバ−トルだと教えてくれる。ただ、私には街そのものはよく分からず、雪をかぶった山脈が目に入るだけである。日本時間で午後5時11分だ。
イルク−ツクに近付いた頃に、客室の方にいたパイロットが私を操縦士席の間の後ろにある座席に座らせてくれる。眼下に表面は殆ど氷っているのではないかと思われるバイカル湖が見える。飛行機は次第に高度を下げ、着陸体制に入る。何がどうなっているのか全く分からなかったが、そのうち滑走路が目に入り、飛行機は真っすぐにそこに向かい、着陸する。ジェット機の操縦席のすぐ後から見るというのは初めての体験だが、なかなか迫力がある。
イルク−ツクの飛行場に着陸したら、黄色の回転ランプがついた車が先導してくれ、駐機場に入る。ロシア語の書かれた飛行機がたくさん並んでいるが、ニコラの話によると、殆ど動いていないだろうとのこと。ソ連は国家の威信をかけて飛行機をたくさん作ったが、今では燃料不足と部品不足で満足に動かせる状態にないと。
イルク−ツクでドアを開けると、女性の係官が2名と、自動小銃を肩にした兵士が2名ほど機内に入ってきた。患者を見て遠慮したのであろう、ドアのところからはあまり入ってはこなかった。日本に来る時に給油のためにイルク−ツクに寄った際には、値段などの交渉で4時間も待たされ、客室の中に係官が入ってきていちいち物を調べたという。機長がオフィスで交渉するわけだが、料金がきちんと決まっていない上に、なんだかんだと余計な請求をしてくるために手間どるらしい。「今度はどうなのか」と聞くと、「わからない」と。
パイロットの一人のFANKHAUSERさんが係官の許可を得て、ちょっと外に出てもいいということになった。私も喜んで出る。飛行場の端っこで一服。機内ではもちろん吸えず、ずっと我慢していたから、頭にクラ−ッとくるぐらいうまい。FANKHAUSERさんとMONIKAさんもタバコを取り出し、「なんだ、あなたも吸うのか」といった感じで、お互い妙な親近感を抱く。スモーカーの肩身が狭いのは万国共通のようだ。
イルク−ツクは快晴で、空は抜けるように青く、冷たい風が心地よい。しかし、飛行場は殺風景で、目に入る建物は廃屋のようにボロである。写真を撮りたかったが、軍用機らしき飛行機もあり、下手なことをするととんでもないことになりかねないので遠慮した。
そのうち機長がオフィスから出て来る。どうやら話しがまとまったようだ。えらく古びた大型のタンクロ−リ−がやってきて給油が開始される。今度は1時間半あまりで出発である。
離陸の時にまた操縦席の後に座ることができた。先発の飛行機が黒煙を吹きながら離陸していたが、それを見て機長と副操縦士が顔を見合わせて苦笑していた。ロシアは相当に馬鹿にされている。この時はヘッドホ−ンでパイロットと管制塔との交信も聞くことができた。管制官はロシア語なまりの英語でよくわからなかったが、高度をいくらにとる準備をせよとか、この周波数に切り替えて指示を受けろとか、色々やっている。機長がレ−ダ−を指さし、同じ方向に飛んでいる飛行機がいるんだと教えてくれる。
REGAは全部で3機の小型ジェット機を持っていて、そのためのパイロットが20人いるという。イルク−ツクまでは機長のKUGULERさんとFANKHAUSERさんが担当で、もう一人のパイロットのANDINAさんは私の前の座席に座って、気象情報の入った航空地図を参照しながら、パソコンで何やらしきりと計算をしていた。実のところ、彼はその頃までは私服を着ていたため、機関士かナビゲ−タ−のような役割をする人だと思っていた。イルク−ツクで制服に着替え、副操縦士席に座ったのを見て初めてパイロットであることを知った。
イルク−ツクで交替で客室の方に出てきたパイロットのFANKHAUSERさんは30代半ばのように見受けられたが、非常にきさくな人で、REGAについて色々な話をしてくれた。REGAのパイロットにはマニュアルがきちんとあり、「これが我々のバイブルだ」と見せてくれた。それによれば、飛行距離と時間に応じて必要とされるパイロットの数が決められており、日本への往復飛行だと最低3人が必要である。REGAのパイロットになるためには、民間航空機のライセンスは必須で、その上にいくつかの条件が定められている。確か2000時間のジェット機の乗務時間が必要だと書いてあったから、少なくとも民間航空機の副操縦士よりはるかに厳格である。「REGAのパイロットは優秀なんですね」と言ったら、「その通り、私は以前はパイロットの指導教官だった」と。REGAが来る時は北九州は雨で、着陸できないのではないかと心配したものだが、彼らにとってはたいしたことはなかったらしい。彼はパソコンで「飛行計画はこうやって作るんだ」と色々教えてくれたが、REGAのパイロットの中にはパソコン好きがいて、目的地などを入力すると、自動的に飛行計画書が打ち出されるソフトを作っている。試しに打ち出したものを記念に頂いた。
そのうち機長のKUGLERさんと交替となり、今度は機長からREGAの話を色々聞くことができた。現在ロシアではカナダ人による石油の発掘調査が行なわれていて、REGAはそのグル−プと契約を交わしていて、万一の事故の際には医療救援を行なうことになっているらしい。KUGLERさんは年令的には初老に手が届きそうな感じの、白髪の上品な紳士である。現在ではREGAの渉外担当を兼ねていて、色々な組織と交渉を持っているという。金曜日にはKUGLERさん自らチューリッヒ空港にあるREGAの基地を案内してくれることになった。
機長の話によれば、3年前に呼吸不全の日本人をケニアから大阪に搬送したことがあり、その時は、ナイロビからセーシェル、コロンボ、バンコク、大阪と飛んで、計22時間かかったという。
この頃乱気流に巻き込まれ、飛行機がかなり揺れる。私は何ともなかったが、ニコラは「気分が悪くなった」と左側のストレッチャーに横になっている。この時の外気温はマイナス75℃だったという。日本時間では4月8日の午前0時を回った頃だが、外は明るく、眼下に白い雪をかぶった大地が見える。モスクワの北東を飛んでいるはずだ。
この頃は患者の状態は非常に良好で、酸素流量1L、つまり吸入酸素濃度33%程度で、酸素飽和度は97ー98%と全く問題ない。ドルミカムの持続投与も中止している。看護婦のMONIKAさんとBRIGITTEさんが交替で記録をつけながら患者の観察にあたっているが、状態が安定しているので手持ちぶさたになっている。
外が次第に暗くなる。夕焼けがきれいだ。
日本時間で午前2時過ぎから、モスクワ空港に向けて着陸体制に入る。外は真っ暗で、家の光が見えたと思ったら、ゴーッという音とともに着陸する。午前2時20分だから、モスクワ時間では午後8時20分だ
。モスクワでもわずかな時間飛行機の外に出ることができた。外はえらく寒い。建物の陰で煙草を一本吸って機内に戻る。ここではあまり待たされることなく出発である。モスクワ空港はさすがに広く、飛行機の離発着も多い。日本時間の午前3時20分にモスクワを離陸する。次はいよいよチューリッヒである。
さすがにいささか疲れたが、チューリッヒまであとわずかだ。スタッフも皆いささか疲れた様子だ。飛行機は順調に飛行を続けるが、チューリッヒから情報を得たのであろう、FANKHAUSERさんが渋い顔をしてチューリッヒの天候が非常に悪いと教えてくれる。そのうち彼のひとことでスタッフが爆笑したので、いったい何を言ったのかとSUGAKOさんに尋ねると、「チューリッヒに着いたら皆でディスコに行こう!」と冗談をとばしたらしい。
この頃患者に排便があり、MONIKAさんが慣れた手付きで処置をするが、機内に悪臭が充満する。パイロットがたまりかねて客室とのドアを閉めてしまったのには皆で苦笑する。この後に機内が少し寒くなった。どのようにしてやるのかは知らないが、どうも機内の換気を行ったらしい。
チューリッヒに近づいてなんとなく少しリラックスした雰囲気が漂う。
日本時間で午前6時過ぎから飛行機は高度を次第に下げる。外に白いものがチラチラ見える。どうも雪のようだ。
スイス時間で午後11時15分にチューリッヒに着陸。外は小雨。夏時間のスイスとは7時間の時差があるから、日本時間では午前6時15分である。北九州空港を離陸してから19時間以上経過している。
チューリッヒ空港にはREGAの事務所と航空機の格納庫があり、そこでは救急車が待機していた。ここでは、SUGAKOさんの御主人であるREGAのチーフオペレーターのSTEINEMANNさんも待っていてくれた。
患者を機外に移し出し救急車に乗せようとするところで、ニコラは、ちょっと着替てくるから宜しく、と事務所に行く。何も言わなくても救急隊員がモニターを装着したりするものと思っていたら、殆ど何もしようとしない。私は人工呼吸のバックを押しているため手が離せない。ついにたまりかねて、パルスオキシメーターを装着しろと指示する。装着はしてくれたが、モニターには波形が出ない。なんのことはない、スイッチが入っていなかった。
あとでニコラに「あの救急隊員はなんだ」と聞いたら、「覚えておいて欲しい、彼らはあれでまだましなほうだ」と。
スイスでは救急隊は消防ではなく警察の管轄らしい。ドクターが出動することが多いため、いわゆるパラメディックはなかなか育たないようだ。そういえば機内での雑談の中でニコラが「アメリカではパラメディックが活躍しているが、あれは訴訟対策が一つの理由で、医師だと何かあればすぐ訴訟騒になるが、パラメディックだと訴えられることが少ないからだ」と話していた。「スイスは幸いアメリカほど医療訴訟はない」と。
救急車で20分ばかり走って、チューリッヒ大学医学部附属病院に到着する。スイス時間で午前0時少し前である。患者を一旦外傷患者の処置室に搬入し、ニコラが担当の医師に病状を伝える。私がREGAに送ったファックスが届いていなかったようで、「私は患者の情報を全く伝えてられていない」と、外傷部門のチーフと見受けられる医師はいささか御機嫌斜めである。ニコラも少しあわてたようで、どこかに消えたと思ったらファックスのコピーを手にして戻ってきた。ニコラが場を離れている間に、日本から持参したコピーフィルムなどを見せて、病状を説明する。
処置室には人工呼吸器やレントゲン撮影装置が備え付けられており、ここでひと通りの処置や検査をした後に患者をICUに移すらしい。
待っていてくれたのかいつもそうなのかはわからないが、搬送した患者の処置に関わっているスタッフだけでも10人ぐらいはいる。それ以外にも、まだまだ多くのスタッフがその近辺にいた。緊急手術だとか色々やっているのだろう。誰が医師で誰がナースで誰が検査技師なのかサッパリわからない。何室もある大きな手術室が隣接しており、外傷関係の手術は殆どそこでやるらしい。
さすがにぐったりなって手術室の控え室で煙草を一服する。スイスでは病院内で煙草を吸う人は殆どいないかと思ったらあにはからんや、控え室では看護婦さん達が盛んにプカプカやっている。皆さんなかなか友好的で、コーヒーを飲めとか、日本の病院はどうなっているかとか、色々話しかけてくる。東洋人が珍しいからかとその時は思ったのだが、チューリッヒ大学の脳神経外科の教授は日本人の米川氏だというし、日本人は結構訪れているらしいから、必ずしもそういうわけではないのだろう。
患者を無事送り届けたことでホッとし、不眠の上に疲労困憊だし、救急車が下で待っているため、とりあえずホテルに入りたかったのだが、医師が、今からICUに患者を連れて行くからそこを見て帰れと勧めてくれる。また日を改めてと言ったのだが、時間はかからないから是非見ていけと重ね勧めてくれる。ニコラに玄関で待たせている救急隊員が困るのではないかと聞いたところ、彼らは他に仕事はないのだから気にする必要はないとのこと。それではと、下にある外傷のICUにエレベーターで移動する。
患者を一つのベットに収容した後に、ざっと室内を案内してもらう。外傷のICUは全部で12床あり、様々な外傷の患者で殆ど満床であった。天井が高く、室内は広い。患者間隔も十分にある。呼吸器は全部サーボ900Cで、日本で用いていたのと同じである。また、全てカラーモニターが設置してあり、ICUとしては我々の施設よりはるかにいい。
0時45分(日本時間7時45分)までいて、スタッフに挨拶して病院を辞することにした。名前を聞きそびれたが、当初いささか不機嫌のように見受けられた医師は実際にはなかなか親切で、もう少し滞在するのなら患者と病院をまた見にくるように勧めてくれる。4月8日金曜日はREGAのチュ−リッヒ空港基地を訪問することになっているので、9日土曜日の午前10時に再訪する旨伝える。
病院からは、待ってくれていた救急車が車でわずか数分のところにあるホテル(HOTEL RIGIHOF)まで送ってくれる。ホテルの予約はREGAがしてくれていた。ニコラとはそこで別れたが、大学病院までの道筋を教えてくれ、万一何かあったら連絡するようにと自宅の電話番号を伝えてくれる。土曜日には彼が昨年勤務していたREGAのヘリコプタ−基地に連れていってくれるとのことで、午後1時にホテルでおちあう約束を交わした。
しかし、とにかく疲れた。それも無理もないところで、4月5日(火)は当直で、当直明けの6日(水)夕にスイスからの医療スタッフを迎え、なんやかやして一段落したところで、小倉の街で旧知の杉本ディレクターをはじめとする中京テレビのスタッフと歓談し、その後、わずか30分とはいえ、約束していた送別会に遅れ馳せながら顔を出した。帰宅後に旅支度をあわただしく行なってかなり遅くに就眠。7(木)日は朝から搬送の準備にバタバタしてそのまま飛行機に乗りこみ、機内では一睡もしないままに病院まで患者を搬送したわけである。
もちろん、基本的には搬送そのものはREGAの責任下に行なわれたわけだが、この患者は受傷直後からその時に至るまで他のスタッフと共に私が診ており、搬送についての最終決定を下したのが実質的に自分であったこともあって、無事送り届けた時はそれまで張りつめていた緊張が一気にほどけ、全身の力が抜けていくような思いであった。後で聞いたところによると、現地の医師の判断に依存するのはどちらかといえば例外的で、信頼関係ができているヨーロッパ諸国は別としても、医療水準の関係で超緊急的に行うのでなければ、REGAの医療スタッフがまず民間航空機で現地に赴き、患者の状態を直接に確認した上で特別機による搬送に踏み切るのだそうだ。それはそうだろうと思う、万一空振りに終わってしまったら大損害となってしまうし、民間航空機を利用して搬送できるものならその方がコストが安くてすむ。REGAが行うスイス人の医療帰省の約4分の1は民間航空機の利用である。
さっとシャワ−を浴び、無事着いた旨日本に電話連絡をして、睡眠薬を一錠飲んでベットに入る。時差ボケ防止には第一日目の夜に熟睡するのが一番だ。
4月8日、午前7時35分に起床。朝食を摂り、フロントであと二泊の予約をし、日本円をスイスフランに換金する。
部屋でKUGLER機長からの連絡を待つが、なかなか連絡がないのでREGAに電話してみる。Dr.Philip から折り返し電話があり、11時15分頃にホテルに迎えに来るとのこと。
しばらくしてDr.Philip が迎えにきてくれ、一緒にホテルを出る。まずREGAの本部に案内してくれるとのことで、アインシュタインが受験に失敗したというチュ−リッヒ工科大学の前を通って街をブラブラ歩く。歩きながら、この1月にはケニアに行ったという話をしたところ、彼はなんとヨ−ロッパの医療援助のNGOであるMMI(Medicus Mundi International)に関係して、タンザニアに7年住んだことがあり、スワヒリ語もしゃべれるという。「ハバリア−コ、ジャンボ、アサンテサ−ナ、ムズ−リ−」などと、記憶にある限りのスワヒリ語をデタラメに並べると彼もスワヒリ語を披露。ケニアの奥地でMMIのオランダ人医師に出会ったことなども彼に話す。電話では何度か話をしたものの、初めて会う彼にこんなちょっとしたことでなんだか親近感がわくから、何が役に立つかわからない。
チュ−リッヒ市の人口は60万人で、周辺をあわせた人口は約100万人だという。チューリッヒ州全体で150万人である。街は細長いチューリッヒ湖に面して広がっており、シックな教会などもあってなかなか素敵だ。下町にはポルノショップなどもあったが、「解剖学の勉強をするところです」とDr.Philipが冗談を言う。
REGAの本部の前ではSTEINEMANN氏が出迎えてくれていて、まずはとにかく近くのレストランで食事をしようということになった。食事をしながら雑談をするが、Dr.Philipはアジアにも関心があるようで、日本と韓国はどういう関係かとか、色々質問をする。日韓問題は得意なところで、蘊蓄を披露する。こんな時だから少々自慢話をしてもよかろうと、日韓問題について本を書いたことによって韓国に招待され、大統領から私に時計、家内には宝石箱をプレゼントされたことを話す。「奥さんは喜んだでしょう」というから、「非常に喜んでいた」と前おきした上で、「だけど何を入れたらいいのか?」と質問されてえらく弱ったと答えると、二人とも「ワハハ」と大笑い。下手くそな英語なのでしどろもどろではあるが、相手も、流暢とはいえ英語を母国語としないので比較的気楽に話せる。スイス人の英語はなぜかわかりやすい。
昼食をはさんでしばし歓談したあと、いよいよREGAの本部を訪問する。本部といってもさほど規模が大きなものではなく、小さいビルの一部を、オペレーションセンターといくつかの小さい事務室として借りて運用しているようだ。
オペレ−ションセンタ−は3階だったか4階だったかにあり、数人のスタッフがいた。
説明を受ける前に、STEINEMANN氏と帰りの航空券について相談する。前日に依頼していたこともあって、奥様のSUGAKOさんが調べてくれていた。かつては航空会社に務めておられただけにそつがない。自宅にいる彼女と電話で相談するが、チュ−リッヒからだと日本への連絡便は午後5時頃しかなく、ミュンヘン経由、パリ経由、フランクフルト経由の3つがあり、福岡まで帰るとしてどれも時間的には殆ど差がないという。チューリッヒからは一旦スイス航空を利用する。値段はチューリッヒから福岡まで全部込みで日本円にして9万円程度とかなり安いのだが、 「日航は高いから、もっと安いのでもいいです」というと、日航が一番サ−ビスがよくて値段も殆ど同じとのこと。結局、成田に着くのが最も早いということで、ミュンヘン経由の便にする。出発日を迷ったが、4月9日、つまり明日にすると、ニコラがわざわざREGAのヘリコプタ−基地を案内してくれるというのに、それを断念しなければならない。日本を出る時に、4月11日(月)に出勤するのは無理かも知れないからと、とりあえず私がいないことを 想定して指示を出しておいたので、見学できるものはできるだけ見ようと、4月10日の日曜日に帰国の途につくことに決めた。チケットを日航の代理店で購入しなければならないのだが、これはSTEINEMANN氏が代わりに行ってくれることになった。
オペレ−ションセンタ−ではDr.Philipとセンタ−のチ−フであるSTEINEMANN氏から交 互に色々な説明を受ける。
Dr.Philip によれば、短期契約は別として、REGAの常勤の専属医師は2名で、Dr.Philip はその一人で、専門は熱帯医学だという。これは、アフリカからヨ−ロッパ人を搬送することがしばしばあることが関係しているらしい。短期契約の場合の期間は1年か半年程度 が多いとのこと。チュ−リッヒの大学病院には屋上のヘリポ−トにREGAのヘリコプタ−が常駐しており、パイロットとフライトアシスタントも常時待機している。飛ぶ時は常に医師が同乗するが、その医師の殆どは麻酔科医で、個人ではなく、組織間で契約が交わされている。大学側が当番医を決めているようで、REGAとしては誰が乗ってくるかはわからないという。ヘリを出動させる条件としては、時間的に急ぐ時、交通渋滞の時、負傷者の数が多い時、医師を必要とする時、患者をあまり動かしたくない時、などに加えて、地理的条件をあげていた。
STEINEMANN氏からREGAについて説明を受ける。REGAのスタッフは総計200人いる。オペレ−ションセンタ−のスタッフは全部で20人で、午前6時30分から午後3時30分、午後2時から午後11 時、午後10時から午前7時の3交代制をとっている。重なる時間は引継ぎのためである。日中から夜にかけては大体3-4人のスタッフで、深夜は1人ないし2人でやるのが通常の体制 だとのこと。電話は年間6万件以上、多い時は一日に300件くらいかかってくるようだ。
スタッフは、ドイツ語、フランス語、英語の3ヵ国語が話せることが条件で 、イタリア語やスペイン語が必要とされる場合もあるようだ。語学は最低条件であって、スタッフになるには1年間のトレ−ニングを受けることになっている。スタッフの約3分の1が女性のようだ。昨年スタッフを2名募集したところ、200名の応募があったとのことで、人 気は高いらしい。
REGAには3機のジェット機と15機のヘリコプタ−があるが、それらの動きは全てこのセ ンタ−が把握しており、直接の交信も可能だという。通常、依頼はまずここに入り、ここから各支部に指令を出していくシステムになっている。医師、病院、警察、大使館との連絡、さらにはスタッフのためのホテルの予約まで、全てここでやるらしい。そういえば、日本に医療スタッフが来ると決まった際に、ホテルをどうしょうかと聞いたところ、「こちらでやるから心配ない」という返事があったが、その時には既に「ニュ−田川」に予約を入れていたと思われる。そのあたりの機動力はさすがとしか言いようがない。ただし、本部とチュ−リッヒ空港にある航空基地が離れているのは何かと不便なので、来年にはチュ−リッヒ空港に本部ビルを建設する予定と聞いた。
色々話を聞いているうちにKUGLER機長がやってきて、これからチュ−リッヒ空港のREGAの航空本部に案内してくれるという。STEINEMANN氏とは夕刻に再会することにして、Dr.Philipに別れを告げ、機長の運転する自家用車で空港に向けてREGAの本部をあとにする。
車の中で機長と色々な話をしたが、彼は日本には大変興味を持っているようで、アジアの中でなぜ日本だけがいち早く近代化に成功したのか、と私に質問する。欧米のインテリが殆ど例外なく抱いている疑問であるが、この手のものは日本語でもなかなかうまく答えられないし、私自身も本当のところを言えばよく分かっていない。日本は島国であったため、ちょっと特殊なところがあり、国家としては2000年くらい前から形を整えていたような面があるということ、江戸時代というのがあって、300年近く国内平和が保たれ、その 間に色々な文化が発達したこと、近代化には確かに一旦は成功したもののその後軍国主義にはしったりして「foolish enough」であったということ、などを言葉と内容ともにしどろもどろで説明する。ニコラとは機内でかなり親しくなったし彼の方が若いので少々もたもたしても気楽に喋れたが、年配の人と話すのはやはり緊張する。
走りながら、チュ−リッヒでは交通渋滞がひどいと機長が嘆く。上空をいつも飛んでいる人は特にそう思うのかも知れないが、これだけは自信を持って、日本の都市はどこも全く一緒で、これよりもまだひどいかも知れないと答える。
そうこうするうちに空港に到着する。REGAの大きな格納庫があり、出発の準備中だという小型ジェット機が外に一機、格納庫の中にジェット機が2機、プロペラ機が1機、ヘリコプタ−が数機あった。それらが一度に入るぐらい格納庫は大きい。
ヘリのうち一機は殆ど裸の状態で、「こんなにして大丈夫なのか」と不安になるぐらいバラバラに近い格好をしていた。ヘリはイタリア製で、特注した上で、ここでまた色々加工を行なうらしい。REGAはそのぐらいの整備能力を独自に持っている。また、どういうことかよく判らなかったが、適時売却したりして回転させているようだ。
機長によれば、ジェット機のドアが小さいため、ストレッチャ−に乗せた患者の出し入れが難点の一つで、これを解決するために特殊加工のクレ−ン設備を考案したという。わざわざ動かして説明してくれたが、確かになかなかよくできている。ただし、今回日本に飛んで来たのは最も大きい機種で、これにはクレ−ンは装備されていない。
酸素製造装置は後尾にある機械室に据えられていたが、これもREGAが独自に開発したもので、量が少ない場合は問題ないという。今回のトラブルは、そのシステムそのものの欠陥ではなく、製造量を多くするための改良機のモ−タ−か何かがうまく作動しなかったためらしい。飛行機は微妙であるため、窒素の排気口一つ作るのにもなかなか苦労があったようだ。
そのうち、事務所からサイロ医師が降りてきて、挨拶を交わす。彼とは一度電話でやりとりしている。/
サイロ医師は身長2mはあろうかという髭面の大男だが、誠実で優しそうな感じである。日本からは滝口医師がここに見学に来たことがあると語っていたが、滝口先生は弘前大学救急部の助教授で、救急医学会の中で日本人医療帰省に取り組んでおられるかただ。ただし、私は直接の面識はない。
KUGLER機長がSTEINEMANN氏と相談して、私を17時13分の空港発の列車に乗せて、チュ−リッヒ駅で落ち合うようにしたようで、あわただしく空港駅に行く。機長は、私が確実に列車に乗るまで見送ってくれた。列車は清潔で快適だ。15分かそこらでチュ−リッヒ駅に到着し、ホ−ムで待ってくれていたSTEINEMANN氏とおちあう。そこからトラムウェイという電車に乗って、バスを乗り継ぎ、STEINEMANN氏の自宅に向かう。電車もバスも全く検札がなく、これでは乗り放題ではないかと思ったが、時々検札があり、万一不正が見つかるとえらく高い罰金を取られる仕組みになっているようだ。
STEINEMANN氏のアパ−トは、電車とバスを乗り継いで30分ぐらいの郊外の閑静 なところにある。夕食にすきやきをご馳走になる。外国人は生タマゴは全くダメだと聞いていたが、御主人も二人のお子さんも平気のようで、日本と全く同じスタイルで食べる。お子さんは上が7才 ぐらいの女の子で下が男の子である。二人とも本当に可愛い。「下の子は闘争心がすごく強いんですよ」とSUGAKOさんが苦笑覚えると。私が日本語で話しかけてみると、「ハイ」と可愛く答えていた。
食後にお茶を飲みながら、STEINEMANN氏にREGAについて色々お聞きしてみる。>
まず、REGAの資金についてお聞きした。彼によれば、REGAには三種類の収入があるという。一つは会員の年会費で、個人会員は30スイスフラン、家族会員は70スイスフランというから、1フラン73円とすれば、日本円に換算すれば個人会員で2100円少々だ。会員数は130万人で、こういった 会費収入だけで約5000万スイスフランとなるようだ。日本円では36億円程度か。もう一つは、保険会社からの収入である。搬送に要した費用は、患者が特定の保険に加入しておれば保険会社が一部を負担するそうだ。この二つをあわせて8500万スイスフランとなる。あと一つは寄付である。遺産の寄付などがかなりあるようだ。これが年間大体1500万スイスフランで、三つを全部あわせて1億スイスフランとなる。日本円では73 億円である。この金額は、ベット数が500程度で職員が300人以上いる日本の一つの総合病院の予算規模である。日本にはその程度の病院は軽く100以上あるから、や る気になれば、日本がこの程度の組織を作るのはさほど問題はないはずだ。
REGAは政府からの援助は全く受けていないという。その一つの理由は政府からの独立性を保つことにあるようだ。政府がからむと体制がどうしても硬直化するため、それを嫌うらしい。このあたりの意識が日本と全く違う。
考え方として、REGAの救援を受けるのは必ずしも会員の権利というわけではない。REGA自体は非営利団体であり、報酬としての収入は保険会社などから支払われるものに限定されており、「航空機」と「医療」という非常にコストのかかる領域だけに、その運営は必ず赤字である。まずそれが前提にあって、そういう組織を支えるためにスイス国民が自発的意志として会費という形で寄付を行っているわけだ。英語では minimum contribution と表現されている。この考え方だと、費用を計算して個々の業務で採算がとれるとかとれないとかは基本的に問題とはならない。今回はたった一人のスイス人患者のために日本に特別機を飛ばし、その総費用は2200万円ぐらいかかったわけだが、患者がそのコストをカバーする保険に加入していなかったため、費用は全部REGAの負担である。コストだけを考えていたら常識的にはそんなことは絶対にできない。患者はREGAの会員、つまりパトロンの一人であったため、それに対してREGAが持てる能力を行使したということだ。REGAにその能力を与えているのは、権利と引き換えにした金銭の支払いではなく、あくまで会員の自発的意志である。そのバランスの中でREGAが機能している。
日本では自発的意志としてREGAのような組織を支えようとする人がどれだけいるのか大いに疑問である。予算規模は別として、REGAとの距離ははてしなく遠いと感じる。
ころあいを見計らってSTEINEMANN氏のアパ−トを辞すことにした。SUGAKOさんは泊まっていくように勧めてくれていたのだが、明日はチュ−リッヒ大学病院を訪れることになっており、そのために休日の朝にSTEINEMANN氏を拘束してしまうことになるし、私自身も気を使わずにゆっくりしたいこともあって、ホテルに泊まることにした。STEINEMANN 氏が車でホテルまで送ってくれる。
翌日の4月9日(土)は8時半に起床する。朝食をゆっくりとって、チュ−リッヒ大学病院に行く。この 病院のベット数は1200で職員は5500人いるという。廊下にはメッセンジャーのための自転車がおいてある。なにせ大きく広いのでどこにいったらいいかサッパリわからない。チュ−リッヒ大学を卒業したニコラですら、一昨日は救急車が待っている場所に帰るまで右往左往していたぐらいだから、私などに地理がわかるわけがない。受け付けで患者の名前を言って尋ねたら、コンピュ−タ−で検索して確認してくれ、行く道順を教えてくれた。
1Fだとか4Fだとかではなく、ABCDEEFGなどとアルファベットで階が表示してあるエレベ−タ−を利用して、外傷患者用のICUの入り口になんとか辿りつき、そこにいたスタッフをつかまえて要件を伝える。しばらくして、一昨日に挨拶だけ交わしていたDr. JAVIER FONDINA が出てきて応対してくれた。彼はもともと脳外科志望とのことだが、現在は外傷のICUに研修に来ている。非常に早口の英語を喋るので、ついていくのにフ−フ−する。彼自身はスイス人だが、育ったのはコロンビアだというから面白い。
ICUは6つあり、Cardiological(心臓)、Burn(熱傷)、Abdominal surgery(腹部外科)、Traumatology(外傷)、Neurological(脳神経)、Medical(内科)で、それぞれが12床持っているからものすごい規模だ。何せ駆け足での見学なのでよく分からなかったが 、設備はほぼ完璧である。こんなのを見ると我が病院が恥ずかしくなるが、スイス一の病院と北九州にある一民間病院では比べるべくもない。ただ、機能と医療レベルはそれほど変わらないはずだ。ただし、外傷ICUでは年間に100例の脳圧センサ−の挿入が行なわれ、脳圧、内頚静脈の酸素飽和度、内頚動脈と静脈の乳酸値、をモニタ−しながら頭部外傷の患者を管理しているというから、この点に関しては少なくとも我々の施設よりははるかに進んでいる。彼の説明によれば、これをやりだしてからまだ2年だが、患者の機能予後の改善 が得られるようになったという。管理コストはかかるが、それに見合うだけの効果をあげていると、誇らしく語っていた。もっとも、チュ−リッヒ大学の脳神経外科の米川教授がこういう管理に関するパイオニアだから、なんだか複雑な気分ではある。
今回搬送した患者はTraumatologyのICUに収容されているが、容態はまずまず落ち着い ている。ベットサイドには、北九州総合病院のICUのスタッフから家族にプレゼントした 小倉祇園太鼓の人形がぶらさげられていた。残念ながらその時は家族はきていなかったようで会うことができなかった。
別れ際にDr. Javier に患者の予後についてどう思うか、と尋ねてみた。彼は「わからない、しかし昨日行ったSEPの結果から考えれば、意識回復については少し悲観的だ」と言いにくそうに答えていた。私も「やはりそうか」とがっかりする思いであった。彼は転帰について報告すると約束してくれ、私も彼の親切な案内に感謝の言葉をのべて別れた。
正午過ぎに病院を辞してホテルに帰る。約束通り午後1時にスウェ−デン製の小型自家用車でニコラが迎えにきてくれ、彼がかつて勤務していたREGAのヘリコプタ−基地に向う。高速道路を走って約1時間かかる。
チュ−リッヒ郊外では雪をかぶったきれいな山が高速道路の左右にあり、峡谷には湖が見える。もうここはプレアルプスだという。
車の中でニコラと色々話をするが、彼によれば、今年はまた2週間ほど軍隊に行かなければならないという。「厳しい訓練を受けるのか」と聞くと、「全然」と。「ならいいではないか」と言ったところ、「全く退屈だ。あんなものは意味がない」と思いがけない返事が帰ってきた。どうもその辺りはよく分からない。スイスでは19才になると全員が軍隊に行かねばならないようだ。その後も30才になるまで毎年何週間か訓練を受ける。その後は人によってまちまちらしい。ニコラは33才だが、その年令でもこういった拘束を受けていることは確かだ。
ニコラは、「日本で自分が働ける可能性はあるのか?」と聞いてくる。それに対しては、いわゆる臨床医としては非常に難しい旨説明する。スイスの大学の医学部を卒業していれば日本の医師国家試験の受験資格があるはずだが、試験は日本語なので、普通の外国人がいきなり合格することはありえない。研修ということであれば、しかるべき監督者のもとで臨床の一部に従事することは可能かもしれないが、それでは労働とはみなされず、それに対する報酬は出ない。日本人医師が外国で臨床に従事することは可能なので、この点、日本はフェアではないが、外国で臨床に従事する日本人医師は、英語もしくはその国の言語能力は一定水準持っているわけだから、日本がそれほど不当なことをしているわけでもない。確か東北地方で、ポ−ランド人の女医さんが小児科医として働いているはずだ。彼女は日本語を勉強して日本の国家試験に合格している。こういったことをのべた。
日本の制度についてはニコラに次のように説明する。
日本の大学医学部の臨床講座はそれぞれ医局というのを持ち、関連病院をいくつか持っている。医局の最高責任者は言うまでもなく主任教授である。医局員は医局の指示により関連病院や大学で勤務する。したがって、勤務先を自分で見つけていく必要はない。勤務したい病院があれば希望が認めてもらえる場合もあるが、医局は全体を見ながら医局員を動かしていくので、一人ひとりの希望に完全に添った形でやるのはなかなか難しい。日本の大きな総合病院は殆どどこかの医局の関連施設となっているため、その医局員以外がその総合病院にポストを得るのは困難である。つまり、多くの総合病院の医師の人事権は、関連の大学医局が握っている。どの大学と関連を持っているかは各診療科によって異なる。ただし、自分でクリニックを開いたり、医局を飛び出して自分で勤務先を見つける場合もある。
こういったことはなかなか説明が難しく、充分に伝わったかどうかはわからないが、彼はちょっと不思議な顔をしながらも興味深そうに聞いていた。
ニコラに、REGAに入ったのが自分の意志なのかどうか、今後どうするのかなどについて聞いてみた。彼によれば、REGAには自分の意志で入り、今年5月で契約が終わり、 その後は内科医として総合病院に勤務することになっていると。そういうのは全て自分でやるらしい。内科医として勤務するようになっても、月に1回か2回程度は週末にREGAの基地で働くと話していた。
車で1時間ぐらい走ってヘリコプタ−基地に到着する。基地の名前をメモしそびれたの でわからなくなってしまったが、REGAが出している本の写真からは、Samedanという基地 に建物が似ている。REGAはこの手の基地を全部で13持っており、ヘリコプタ−のパイロットは40人いるらしい。ただし、REGAの本部でもらった資料には、基地は11で、ヘリのパイロットは22人とあるから、私の聞き間違いか、あるいはかなり急速に規模が大きくなっているのかも知れない。いずれにしても、スイスのどの場所でも15分程度で到着できるように基地が配置されている。
ここで、こういった基地を持つにいたったREGAの歴史について少し触れておこう。
山岳地帯における航空救助の発想が初めて出されたのは第二次世界大戦後である。短距離で離発着が可能な航空機が登場し、スイスの地理的特殊性もあって、こういった航空機を利用して山岳救助ができないかというアイデアが出されたようだが、その時点ではアイデア以上のものではなかった。このアイデアを実行に移す直接的なきっかけが、アメリカ空軍機DC-3の遭難事故である。この時は、電波信号から生存者がいることが確認され、高度3000mのところにあるにあるガウリ氷河にいる遭難者に対して、航空機を用いた救助作業が果敢に行われ、何回かの作業で11人全員を無事救助した。これは世界で初めての航空機を用いた山岳救助であると言われている。
1952年にスイス救助協会はスイス航空救助隊を組織し、飛行機とパラシュ−トを用いた救助方法が次第に発展していった。この時点ではヘリコプタ−は性能的に高地での活動ができない状況であった。
1960年代に入ってヘリコプタ−による救助が次第に重要や役割を担うようになってきた。スイス航空救助隊はスイス救助協会から分離し、独立したものとして創設され、当初用いられていた旧式のヘリコプタ−は高い高度で活動できる新しい型のヘリコプタ−におきかえられていった。しかしながら、スイス航空救助隊はボランティアによって運用されていたため、ヘリコプタ−を飛ばすための費用が次第に能力を越えるようになり、資金の捻出が大きな問題となった。スイス政府は資金供与を国民に依頼したが拒否される。組織の存続のために、一人の医師が、緊急時には無料の緊急的航空救助を受けることができる代わりに年間20スイスフランの寄付を行なうということで、スイス国民に財政的支援を求めた。この呼びかけが思いがけないほどの好意的な反応をもって迎えられ、かくして、現在に至るまで続いているスイス航空救助隊の財政支援システムが生まれたのである。
山岳地帯における救助活動でのヘリコプターの意義は確固たるものになっていったが、特に、高地での飛行が可能なAlouette 3型機の導入は画期的なものであった。第1機目は寄贈によってなされているが、これは1971年のことである。
活動が広がり重要度が増すにつれ、それまでの組織では不備な点が出てきたため、1979年にスイス航空救助隊、つまり現在のREGAが創設された。1982年よりはスイス赤十字との協力関係を持つようになっている。当初、スイス赤十字を母体にして生まれたものと考えていたが、これは誤りであった。
REGAは、広義には創設してより40年以上が経過しており、狭義には今年で15年目である。REGAは、赤十字の理念にそって、金銭、社会的地位、国籍、宗教、政治的信条に関係なく活動をなすこと基本にしている。ただし現実には、既述のようにREGAの会員になれるのはスイス国内に居住している人に限っている。これは、REGAは規模的に限界があり、あまり範囲が広がると充分な活動が不可能となるためである。REGAはスイスのほぼ全域をカバーしているが、登山者や観光客が多いところは別組織である山岳救助隊がやっており、一部の州では独自に救助システムを持っていて、そういったところにはREGAは関与しない。
REGAの活動は、第一義的なものとして山岳地帯における救助活動があげられる。これには、山岳遭難者の救助、スキー事故、捜索活動、予防活動、除去作業が含まれる。さらに平地においても、交通事故、労働災害、スポーツ事故、疾病に対して救助活動を行っている。第二義的なものとして、半身麻痺や四肢麻痺の患者とかハイリスクベビーの専門施設への移送、医療帰省(外国からの患者搬送)、移植用臓器の搬送、山岳農家に対する緊急支援、家畜の移送、集団災害への対応などがあげられる。
ヘリコプターは新型機(Agusta A-109 K2)を4機既に導入し、来年までに15機全部を新型機に替える予定である。新型はエンジンが二つあるため安全性がより高く、最高時速263kmとスピードも早い。
さて、基地には、医師一名、パイロット一名、整備士一名、フライトアシスタント一名、秘書一名がいた。みんなニコラの旧知のようで、「おお、久しぶり、よくきた、よくきた」といった雰囲気である。
コ−ヒ−をご馳走になりながら、パイロットからも色々な話を聞く。彼によれば、この基地だけで年間800回の出動があり、のべ500人の患者の救出・搬送業務にあたっているという。雪崩の時は犬を使って生存者を探したりすることもやるらしい。スイスはパラグライダー競技が盛んで、今回のような事故も時にあるようだ。「こういった活動をしていると、救出された人達から感謝の手紙がたくさん寄せられるのではないですか?」と尋ねたところ、ちょっとけげんそうな顔をして、「殆どない」と答えた。おそらくREGAの活動はすっかり定着しているのであろう。
先に触れたように、REGAのヘリは必ずしも人命救助だけではなく、火災の際に依頼があれば、水を入れたタンクを吊り下げて消化活動も行なうし、人工雪崩を起こすことにも協力している。動物の救出にもあたる。クレバスに落ち込んだり、高地に行き過ぎて降りれなくなったり、転落して怪我をした牛や羊などを搬送するらしい。生きている場合はネットで吊り下げて運ぶ。他の手段で近づけないような場所に動物が死んでいるのが見つかった場合は、環境保護のために死骸のピックアップ作業も行なうという。ただしニコラは、「そこまでしなくてもいいと思うんだけどね」と言っていた。
この基地はヘリコプターが何機も入るような大きな格納庫となっており、2階が事務所になっている。他の民間ヘリコプターの基地も兼用しているようだ。
事務所の壁には原始人のような男性のマンガが張ってあったが、その男性の股間には乳牛の乳首が描かれている。ドイツ語が書いてあったがもちろん私には読めない。「あれはどういう意味だ?」と聞いたところ、「ミルクを飲みすぎたらあんなになるんだ」と。もちろん冗談だが、スタンバイの無聊をこういうので紛らわしたりしているようだ。
ニコラが格納庫で設備や備品について色々説明してくれる。当然ながら、ヘリコプターは患者の収容に便利なようになっており、酸素投与や吸引などの処置が容易に行えるようになっている。患者の観察が最もやりやすい位置に医師の座席がおかれている。とにかく空いているスペースは全て利用しているといった感じだ。もっとも、ニコラ自身は旧型の方が好きだということである。
薬品は喉頭鏡などの医療器具と同じ金属のボックスに入っており、簡単に取り出せる。その他、着地できない場所では医師がウインチに吊り下げられて降りるため、色々なロープ類がおかれている。そういった際の患者の収容は患者の身体を水平に保つように工夫されたネットで行なうようだ。吊り上げた患者を飛行中に収容することはできないので、医師と患者をぶらさげたまま、着地できる地点まで飛ぶということもあるということだ。
医師は常に基地から5分以内のところにいなければならないことになっており、昼間なら5分以内で出動が可能で、夜間だと20分程度だという。時には大きいサーチライトを装備して飛ぶこともあるらしい。パイロットはナイトスコープでの夜間飛行訓練を受けている。ただし、いかにREGAといえども天候があまり悪いと出動できない。
一角にエアーコンプレッサーとドリルがおいてあったが、狭いクレバスに落ちた場合は、それで救出作業を行なう場合もあるという
。「ヘリコプターで吊り下げられた時は恐いだろう」と聞くと、「パイロットが優秀ならそれほど恐いものではない」と。ただ、ロープ一本で吊り下げられているため、クルクル回り出した時は弱るという。パイロットとフライトアシスタントが吊り下げられた人の状況をよく見ながら色々対応するそうだが、きちんとやってくれないとひどい目にあうらしい。なんとなくわかる。
倉庫には、酸素ボンベなども含め、色々な物品がおいてあるが、棚の上に横半分にザックリ割れたヘルメットがおいてあった。まさかとは思いつつ、「こんなものを使うのか?」と冗談半分に聞いたら、「ヘリコプターのローターへの注意を喚起しておくためにおいてある」のだそうだ。「このヘルメットをかぶっていた人は死んだのか」と聞いたところ、「何ともなかった」とあっさりした答がかえってきたのには思わずふきだしてしまった。
午後5時頃にスタッフに別れを告げ、チュ−リッヒに向けて車を走らせる。ニコラには夕方何か用があるようだ 。基地のパイロットは別れ際に、REGAのパネル写真や記章、活動を報告した論文のコピ−などをプレゼントしてくれた。
車の中でニコラとまた色々な話をする。ニコラによれば、スイスの状況は今後ますます悪くなるという。今でも失業率が高く、麻薬が蔓延し、AIDSも多いらしい。政府は麻薬の規制緩和の方向に動いていて、それは、値段を下げることにより入手を容易にし、麻薬入手のための犯罪を抑制するという発想によっているという。ニコラは、「そんなことをやってうまくいくはずがない」と確信を持っているようだ。ただし、AIDSについては他国と比べてスイスが特別に多いというわけではないが、スイスの場合は正確に報告しているので統計上多くなってしまうと言っていた。
私は、「日本からはスイスという国は理想的な国に見えており、多くの日本人があこがれている」と前置きし、「確かに日本は経済力は強かったが、凋落のきざしがあり、現に今は非常な不景気になっている。どちみち日本は資源もないし、大人口をかかえて今後ますます悪くなりそうだ。少なくともスイスよりいい国になるとは思えない」とのべた。ニコラはすかさず、「それなら、どっちの言うことが正しいか賭けをしよう。負けた方がスシをおごる、それでいこう」と。
丁度午後6時にホテルに帰りつき、そこでニコラと別れる。
北九州では、REGAのスタッ フが到着したという一報が入ってからまもなくして青い眼の彼が病院に現われた時は、なんだかス−パ−マンか異星人ででもあるかのごとくに感じたが、こうやって親しくつきあってみると、当たり前の話ではあるが、全く同じ人間であるというのを実感する。同じ人間がやれることがなぜ我々にできないのか、我々はもっと真剣に考えてみる必要があるだろう。
REGAのスタッフとの接触はこれが最後になるわけだが、ニコラに限らず、REGAのスタッフには本当に親切にしてもらった。もちろん彼らの人柄がいいということもあるだろうが、やはり一つには、同胞である一人のスイス人患者に対して真剣に治療に取り組み、時間的・経済的なリスクをおかして自発的意志として搬送業務に携わったということもあると思う。少なくとも、患者の状態をよく知っており、麻酔科医としては彼より経験の多い私が同行することでニコラのストレスはかなり減少したはずである。看護婦のMONIKAさんも、「これだけよく手伝ってくれる外国人医師は今までにいなかった」とSUGAKOさんに語っていたらしい。もっとも、私にしてみれば、日本人であるSUGAKOさんがいてくれたため安心感があり、必要に応じて意志疎通を助けてくれたため非常にやりやすかった。
さて、ホテルに帰ったものの、外はまだ昼間のように明るい。せっかくだからと、チュ−リッヒの街に散歩に出かけてみることにした。ホテルのすぐ近くに大きな博物館があったが、残念ながら既に閉まっていた。チュ−リッヒ駅はホテルから坂を下ったところにあるが、歩いて15分程度である。周辺の商店街はレストランとかパブをのぞいては全て閉まっている。スイスでは、土曜日の午後4時から店は閉まるらしい。日曜日も閉店である。 働いている人は買物などをどうするのかいささか不思議ではあるが、日常となってしまえばどうということはないのかも知れない。しかしいずれにせよ、そんなことは日本では考えられないことだ。
電車に乗ってみようかと思ったが、切符の買い方がよく分からない上に、自動販売機で使えるコインをたまたま持っていなかったこともあって、見かけたベンツのタクシ−に乗ってホテルまで帰る。噂では聞いていたが、ベンツのタクシ−を実際に見るのは初めてだ。日本でベンツに乗っているのは金持ちと相場が決まっており、一般のタクシ−に使うなど想像もできない。
ホテルのレストランで夕食をとる。ドイツ語のメニュ−を見ても何が何だかサッパリわからないのでウェ−トレスに尋ねるが、上品で感じがいい人で、流暢な英語で親切に教えてくれた。一人で食事するのも淋しいものがあったが、料理は大変おいしく、満足のいくものであった。スパゲッテイに似たパスタと、ス−プ、サラダ、食後のコ−ヒ−で、38スイスフランである。1月に訪れたナイロビと比べると途方もなく高いが、値段的には日本 とほぼ同じか少し安いぐらいだろう。
部屋に帰ってメモなどを整理し、REGAでもらった写真集などを色々ながめて見る。ドイツ語で書かれているので全く読めないのが残念である。英語版は現在準備中で、まだ出版されていないようだ。色々ながめながら床につく。
4月10日(日)朝7時に起床する。いよいよ帰国の日である。日本時間では同日の午後2時だ。
飛行機は17時15分だから時間はタップリある。シャワ−を浴びて荷物を整理し、チェックアウトするが、日本円をその場でスイスフランに変えてもらって精算し、前日に調べておいた午前9時半発のチュ−リッヒ2時間コースの観光のバスに間に合うようにチュ−リッヒ駅に行く。
バスに乗ってチュ−リッヒ市内を観光する。ガイドは英語である。かなり早口だが、北九州空港を出て以来、SUGAKOさんと話す時以外は全て英語だったので耳が慣れてきたのだろう、特に聞き取りに困るようなことはなかった。一緒になった観光客は、フィリピン人の新婚とおぼしき二人、カナダ人、ドイツ人とパキスタン人のグル−プなどで、総計15人程度である。ロ−プ−ウェイで雪の残っている山に行ったり、動物公園に寄ったり、チュ−リッヒ湖のほとりを走ったりして、11時半にチュ−リッヒ駅に戻る。
駅の構内のレストランで昼食をとり、駅のすぐそばにある博物館にでかけてみる。その後、チュ−リッヒ湖の観光船に乗ったりして、午後3時前に列車でチュ−リッ ヒ空港に行く。
17時15分発のミュンヘン行きスイス航空はほぼ定刻に出発し、約45分でミュンヘンに到着する。空港でしばらく待って、日航のジャンボに乗り換え、いよいよ成田に向けて出発する。乗客の半数以上は日本人である。空席がかなりあって、体を横にすることができ、なかなか快適だ。途中、機長がオ−ロラが見えていることを教えてくれるが、ボ−ッと色のついた霞が見えるといった感じて、どこがどうなのかよく分からなかった。
日本時間で午後1時30分ほぼ定刻に成田に到着する。夕方まで成田で待って福岡便に乗り、新幹線で小倉に帰る。自宅に帰ったのは午後9時である。結構疲れたが、翌日は朝から外来で、午後は手術管理、そのまま泊り勤務で、翌々日からは学会で不在となる他のスタッフの穴埋めをしながら働かなければならない。実際、その週は非常に多忙で、急患のために帰宅も遅くなり、休養をとる間もなかった。後で聞いたところによると、やはり顔色がよくなかったようだ。無理もない。
今回はスケジュ−ル的にもハ−ドなものがあり、費用もかかったが、私にとっては貴重な体験であり、REGAとのコネクションもできた。今後、この体験を日本の救急医療システムの構築にどのように還元できるかわからないが、少なくとも、こういった活動を目のあたりにし、現実のものとしてとらえることができたことの収穫は非常に大きいものがあったと考えている。
今回のスイス行きは急に決まったことで、事前にきちんとした説明と了解を得るいとまがなく、簡略に院長から口頭で許可を得、とりあえず研修として届けていただけであったが、帰国してより、万一のことがあってはと、院長と事務長の好意で、手続き上公務出張扱いにしてくれていたことを知った。パラグライダー協会からは改めてお礼の挨拶を頂いた。尚、今回の移送の模様は全国ネットでテレビ放映された。
帰国して数日してより、SUGAKOさんから挨拶の絵はがきを頂き、また、患者の家族からはスイス領事館を通じてパラグライダ−協会に感謝の手紙が届き、北九州総合病院のスタッフと私に対しても感謝の意が添えられていた。
患者さんのその後であるが、残念ながら、意識回復が見込めないということで搬送10日後にチューリッヒ大学から他の病院に移され、その後さらに郷里に近い病院に移り、最終的に4月24日に永眠されたとの報告を受けた。
患者さんの冥福を心から祈りたい。
以上