1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災を契機として、我が国では大災害における災害医療のあり方についての再検討が活発に行われるようになってきた。
よりよい災害医療システムの構築のために、早急に検討、整備、実行されるべき項目について、代表的なものをいくつか挙げてみる。
災害で受けた傷病者の外傷や疾病の緊急度と重症度とを把握し、現場での応急処置、搬送、病院選定などで、治療の優先度を決定すること。
なぜトリアージなのか
・最大多数の被災者を救命できるように最善をつくす。
・限りある医療スタッフ・医療資源を能率的に活用する。
トリアージの原則
・災害現場でのトリアージは重症度よりも緊急度を優先。
・生命 > 四肢 > 機能 > 美容
・CWAP(Children, Women, Aged people, Patients)を優先的に治療。
・完全治癒よりも悪化防止を目指す。
・時相ごとのトリアージ
トリアージカテゴリーとトリアージタッグ(負傷者識別札)
T1:緊急治療群 赤
T2:準緊急治療群 黄
T3:軽症群 青
T4:死亡および待機超重症群 黒
重症患者の、搬送までの応急処置。
Ⅱ:発災から3日目以降必要とされる医薬品
主に急性疾患措置用として使用。
Ⅲ:避難所生活が長期化した場合
空路搬送の利点 | 空路搬送の問題点 |
・道路事情に左右されない ・特殊環境での救助活動が可能 ・ 広域をカバーできる |
・救急医療専用ヘリコプターが少ない ・離着陸場所の確保が困難 ・気象条件の制限を受ける ・要請手続きが煩雑で時間を要する ・搭乗する医師や看護婦の確保が困難 ・市街地における騒音 ・維持費、搬送費用 |
海路搬送の利点 | |
・道路事情に左右されない ・大量搬送が可能 |
問題点とされている点のいくつかは、搬送システムの整備(法律も含めた)によって解決がみこめると思われる。
(統制のないヘリコプター運用の問題点)
(自衛隊、厚生省、自治消防庁などから広範囲患者搬送システム案が提出されている)
(諸外国での運用例)
テロや戦争による負傷者に対する医療は、一度に大量の患者が発生することと共に、その使用される兵器や爆発物、ガス、毒薬などにより治療に特殊性がある。しかし、その負傷者に対する治療の原則は変わらない。
もう1つの医療は、戦争に巻き込まれた民間人に対する医療である。戦争では、普段の救急医療を含む医療システムが崩壊し、多数の民間人が適切な医療を施されずに死んでいる。病院の崩壊、医療従事者の減少、医薬品の不足、食料の不足、電気・ガス・水などの供給のストップ、さらに病院運営の経済的圧迫、患者搬送システムの崩壊などが起こり、戦争時には通常の医療の数十%にしか機能しないのが現状である。しかし、システムの崩壊にも関わらず、患者数は増加し、特に外傷患者は倍増する。
戦争時には戦闘による負傷者だけでなく、戦争が原因で起こる様々な傷病者が発生する。戦争難民が発生し、地雷による死傷者、下痢、感染症、など、災害難民サイクルに合わせた傷病者に対する医療も大きな問題となってくる。
赤十字国際委員会は、緊急医療物資の配給、外科病院の開設、民間病院への援助、義肢製作センターの開設、流民や帰還する難民への援助などを行った。戦争による負傷者に対するシステムは、アフガニスタン内部において負傷した傷病者はパキスタンとの国境沿いに設置した10カ所のファーストエイドポストに運ばれ、そこの医師、看護婦によって応急処置、トリアージが行われ、救急車でパキスタン内部にある2カ所の国際赤十字委員会外科病院に運ばれ、手術などの治療を受けることになる。
2)ICRCペシャワール外科病院
1981年に開設された外科病院は200床の病院で、負傷者が増加した場合は30%まで増床することができる。外科チームは外科医1名、麻酔医1名、手術室看護婦1名の3名を1チームとして通常は2チームで運営される。医療スタッフとして婦長、病棟看護婦、検査技師、レントゲン技師を置き、さらに現地の医師十数名、看護婦十数名を雇用している。
1988年の入院患者数は2320人、手術件数は4691件、外来患者数は9453人、平均ベッド占拠率は120%であった。
1990年7月29日~10月24日の約3カ月間で、570人の救急患者が搬入された。救急外傷患者の受傷原因は爆弾、ロケット弾によるものが297人で52%、地雷によるものが152人で27%、銃弾によるものが108人で19%であった。そのうち15歳以下の小児は81人で14、2%を占め、女性は7、7%であった。手術数は1631件で、そのうち緊急手術が新患の85%の484件、予定手術が1147件であった。手術内容は80%が整形外科手術、10%が開腹手術、残りの10%が開頭手術その他であった。1つの外科チームは1日平均15件の手術を行った。
治療方法はその受傷原因である銃弾、ロケット弾、爆弾、地雷、手榴弾、ナイフ、化学兵器によって違ってくる。これらの武器は人を殺傷するために開発されたもので、その外傷形態は残酷無比である。さらに最近の武器は性能が上がり、その破壊力は強大である。戦争外傷には銃創、地雷創、爆弾・ロケット弾創、刺創、熱傷、化学外傷、凍傷などがあり、それぞれ特徴的な外傷形態と治療方法がある。例えば爆弾創では人体の損傷は広範囲におよぶ。全身の観察と共に2方向のレントゲン撮影にて破片の位置を確認し、体表面だけでなく体腔内の損傷を診断する。必要があれば開腹術も積極的に行う。
1994年6月27目深夜、松本市の住宅街でガス中毒が発生し、7名が死亡し多数の患者が 病院へ収容された。患者は縮瞳が認められ、血漿コリンエステラーゼ値も低下してい たことから有機リン系薬剤による中毒が疑われたが、従来経験されてきた農薬中毒で は説明出来ない面も認められ、現場では困難な対応がせまられた。同年7月3目に毒物 はサリンと発表された。その時点ではサリンについての報告例は少なく、患者の実態 を把握するために、各病院へ「臨床調査票」を発送しサリンガスによる影響を調査す ることとなった。
対象は市内6病院受診者264名で、平均年齢は33.4±17.8歳(3~8 6歳)で、20歳代が多く、男性147名・女性117名で、入院56名・外来患者数は208名で あった。これら264名の患者について初診時の臨床データおよび4か月後の症状につい て検討した。瞳孔径の測定は219名について被災当日から第5病目までに行われた。瞳 孔径1m未満が21例、1m以上2m未満が93例、2m以上4m未満38例、4m以上が67例であつた 。
急性期のコリンエステラーゼの測定は222名について被災当日から第5病目までに行 われ、そのうち123名(55.4%)は24時間以内に行われた。測定した222例の分布はC hE%値50%未満に低下している群が20例、50%以上100%未満が33例、正常域にとど まった例が169例であった。従来経験した有機リン系農薬の服毒中毒症例と同蔽縮瞳 とChE値との間には有意な相関が認められたが、縮瞳を示しながらChE値の低下 しない症例も多く認められた。これは眼瞼結膜にサリン局所作用した結果と考えられた。
自覚症状は、主なものでは縮瞳とともに視力低下を訴える症例が124例、視野異常が3 9例であった。その他、頭痛・疲労感・体熱感・体のしびれ・疾痛・鼻汁・せき・の どの痛み・眼痛・充血などの訴えもあった。白覚症状と血漿ChE値との相関を検討し てみると白覚症状を訴えた群で有意にChE%が低下していた。39症例に心電図検査を 行ったところ、10症例に多彩な調律異常を示した。これら10症例は異常の認められな かった29例に比してChE%値は有意に低下していた。
血液化学検査では、白血球数・ 血中CKはChE%と逆相関が認められた。また、電解質ではChE%と血清K,C1との 間に相関が認められた。有機リン系薬剤曝露の指標として赤血球真性コリンエステラ ーゼ(偽-ChE)を使用してきていたが、偽-ChEとChE値には良好な相関が認めら れChE値はサリン曝露の指標として信頼できるものであると考えられる。
4か月後の調 査では依然「目の疲れ」「眩しさ」などの眼症状や全身倦怠感、微熱などを訴えてお り、今後も経過観察が必要であることを確認した。また、前代未聞のサリン中毒であ り、この極限状況を体験した人の心理状況は生活全般に支障をきたす。そして、心的 外傷後ストレス障害をきたしていると思われる患者は認められているが、ChEが顕著 に低下した患者においてさまざまな症状が顕在化しており、それを心的外傷後 ストレス障害で一義的に説明することには注意が必要である。
災害時における被災地の看護大学が直面する課題は、大学としての機能をどのように取り戻すかということと、看護の専門家を抱えた大学としてどのような役割を果たせばよいか、ということの2点である。ここでは主に後者の課題について、大学全体としての視点から振り返ってみる。
今回の震災は全く想像だにしていなかったので、最初から体系化された行動が取れたわけではなく、その場その場で臨機応変に対応してきた。暗中模索、試行錯誤の連続だったわけである。その中で、教員同士で情報交換を行い、大学全体として互いに何をしているか知り合う機会を設け、意見交換を活発にしてきた。また、学内の教員の活動を集約するために教授会の下にボランティア長期プロジェクトを設けた。
兵庫県立看護大学は被害が少なかったので、1月18日に実習病院や県の保健環境部に被災状況や支援の必要性を問い合わせたところ、その時は大丈夫という返事であった。しかし後で聞くところによると、その直後に頼みたいことができたにもかかわらず、もはや電話がつながらなかったという。支援の必要性は1度の電話ではわからないのである。被害の大きかった地区に住む2名の教官はすでに近所の病院で終日看護に当たっているという。テレビ報道を見ると看護婦不足が予想されたが、具体的にどこに行けばよいのかわからず焦るばかりであった。19日になって大学近くの病院(神戸西医療センター)で、移送されてきた患者があふれているという情報が入り、さっそく11人の教員が必要と思われるものを持って駆けつけた。20日からは神戸大学医学部付属病院にも救援に入った。さらに要請を受けて灘区の民間病院にも、夜勤の交代要員として教員が入った。当時は大学で3食炊き出しをしており、帰りが夜遅くなる彼女たちも一旦大学に戻っていた。そこでその日体験したことを聞くことで、待機組は状況を想像し次の活動を予測した。事務局の白板には活動プログラムと活動者のリストが張り出されており、誰がどこに行っているのかわかるようになっていた。そのような中で、21日になるまで避難所へのアクセスはつかめなかった。
1月23日に日本看護協会の会長から「全国の看護協会から義援金が集まり始めているし、ボランティアを希望する看護職の人がいる…」という連絡が入った。さっそく現地のニーズを調べ、ボランティアを受け入れる態勢を作り始めた。最終的には全国から集まった565人の看護職の人が被災地の57の施設で活動した。ボランティアに登録した人は約1000人であり、延べ実働ボランティアは3086人であった。ボランティアが所属した機関は233に上る。このほか、日本看護協会を通さずに兵庫県看護ボランティア調整本部に登録した人もいた。派遣先も当初は大半が病院や高齢者の施設であったが、次第に避難所や保健所などの割合が高くなっていった。また、当大学の教員のほとんどは県外から就職して1~2年しか経っておらず、この地方の病院についてあまり知らなかったことも逆に幸いし、需要のあるところはどこへでも行くという姿勢を貫くことができた。
被災地の看護婦もまた被災者であるのに、自分のことは後回しにして病院や避難所で活躍した。被災が少なかった我々でも心理的に苦しい時があった。震災後の心の回復を必要としているのは看護職をも含めた被災地に住むすべての人々である。看護職は他の人々を助ける職業であるがゆえに自分への援助が必要であるという自覚はあまりなかったが、自分が自分でないような心もとない体験をした人は少なくない。そこで私はグループ・サイコ・エジュケーションが活用されないかどうか、看護職の集団に働きかける活動を始めたのである。