日本で核災害が起こった場合は地方自治体に災害対策本部が設けられ、その一部に緊急医療本部が組織される。そこに放射線医学総合研究所などから専門家集団が派遣され、指導助言を行なうことになっている。核災害の場合は被災者の放射能汚染の検査、あった場合の除染処置、その際に必要になるディスポーザブルの手袋、マスク、キャップなどとその際に出る放射性廃棄物の処理、住民の汚染地域からの避難隔離が必要になる。また、汚染地域に入った物、人、処置に当たった者放射能汚染の検査をし、二次被爆や内部被爆を防止しなければない。高度の被爆を受けた可能性のある者は専門医療施設で入院、精査が必要になる。またヨード131を含む放射性物質によって汚染された疑いがある場合はヨードカリ剤を投与する。
災害発生現場でまず1次トリアージが行われ、続いて応急救護所などで第2次トリアージが行われる。そして病院に着いた際に再度評価されて治療優先順位が決定される。予後絶対不良の患者に多くの医療スタッフがかかりきりになって緊急治療群の傷病者が手薄にならないようにトリアージ責任者がリーダーシップをとらなければならない。
鈴木伸行ほか、日本集団災害医学会誌 4: 38-42, 1999
その後被災地域が拡大するに伴い,ブロック単位ごとの支部間の協力を進めるため,調整機能を本社から徐々に該当ブロック(第1ブロック-北海道,東北地域,第2ブロック-関東地域)に移行した。被害が拡大した翌日8月26日には,第1ブロック(北海道,東北地域)に於いて,青森県支部がブロック内支部の救護物資の需給調整機能を果たし,第2ブロック(関東地域)では,東京都支部が U豪雨災害第2ブロック救護連絡本部』を設置し,ブロック内支部の医療救護班出動,救護物資の円滑な需給を行うなど,迅速な救護活動やブロック内及び近隣支部間の協力連携が行われ,ブロック単位の相互支援体制がうまく機能したと考えられた。
高知豪雨災害においては,高知県支部は,9月24日に被害が拡大するにつれ,同支部単独では十分な救護活動ができないと判断し,第5ブロック(中国,四国地域)内各支部に支援協力を要請するとともに,本社に対して第4ブロック(近畿地域),第6ブロック(九州地域)の支援協力を要請した。第4,5,6ブロック各支部は,救護物資の補充と救護要員を派遣して救護活動を円滑に展開した。
自然災害は多種多様であり,同じ災害はニ度とないと言われるが,日本赤十字社が,阪神淡路大震災以後改善してきた系統的救護体制が平成10年夏の豪雨災害で比較的うまく機能し,災害時に大切な"情報の共有化と権限の分散化''が円滑に行われたといえる。その点において日本赤十字社のブロック制に基づいた救護体制はーつの改善であったと考える。
病院災害対策マニュアルは非常に簡単なもので、病院入口に搬送された被災者にどのような順序で対応するかを記載し、これを各部署の電話の下に配置しただけのものです。マニュアルの詳細については、
*ここで言う~科というのは医師だけでなく、看護婦・看護補助士・事務職員全員のことを指す。
病床の確保に付いては、入院患者の約5%は退院可能と考え、緊急手術に付いても、一般的に、「手術室数×7×1/4/12時間」と考えられています。
第42回日本災害医学会大災害医療模擬訓練では、実際に考えられる様々な状況を想定し、表5のように、参加機関、事故の概要、負傷者を設定しました。その時に、患者役の学生は、疾患をより現実に近く表現するためにメイクをしたり、わめき散らしたりしたそうで、後の反省会で救急隊員から、きれいな被災者の時の訓練よりも、リアルな訓練の方が、気分が乗るとの意見も出たそうです。
最後に、より有効な災害訓練を行うためには、地域住民の参加が必要と思われます。地域住民が災害医療の本質を知って初めて、最良の災害医療が行えるためです。
【参加機関】(50音順)
【事故の概要】
【負傷者の想定】
|
廣瀬雄二郎、日本救急医学会災害医療検討委員会・編 大規模災害と医療, 東京, 1996, pp 94-101
以上、災害時の情報の流れは、平常時だけでは準備しきれないものがある。全てをシステム化する必要はないが、大量な情報をある程度処理できるような仕組みが重要であると考える。
健康状態、死亡、罹患のアセスメント:プチ・バリエルポイントにある英国の援助組織MERLINの診療所やギセンニ病院で主に収集した。
死亡と罹患:4.530人が診療所に受診。この内63%が水様性下痢。五歳以下では2083人受診したうちの1689人(81%)が下痢であった。これは6歳以上の年齢層、2441人中1913人(78%)より統計学的に高頻度である。他の疾患としては受診患者の1%が血性下痢、2.9%がマラリヤ、2.3%が下気道感染、1.9%が外傷だった。
ギセンニ病院での外科的入院は129名(帰還者1000人対0.2)で、そのうち104(81%)が16歳以下。また、外科的入院患者中、93名(72%)は銃弾などによる軟部組織の創傷によるものだった。さらに21名(16%)は骨折によるものだった。
ルワンダに帰国した人々の死亡率は10000人あたり0.5人で、プチ・バリエル/ギセニン地域での死亡者は17人(10名は5歳以下)このうち13名は、医療ケアを受ける以前に路傍で死亡したものだった。また、同時期に13の保健センターで21名の死亡が記録されているが、全例、下痢性疾患によるものだった。
またキャンプ地周辺で3586名の遺体が確認されたが、死因のほとんどが外傷で、大移住以前の数週間の間に死亡したものとみられる。
保健サービス:当初はトリアージも治療も混乱したが、小児ユニット、成人ユニット、隔離ユニットがつくられ、医薬品が整備されるにつれ、急速に効率的になっていった。しかし、ベッドなど医療資機材は時に不足がちになった。保健センターには地域の職員が勤務していたが過大な業務量と職員不足のため医療スタンダードが守れないこともあった。
非外傷死が少ない背景として、人々の健康状態(大移動2~3日前まで全てのキャンプで医療と栄養サービスが行われていた)と免疫状態が高かったこと(94年にコレラが流行し免疫のあるひとが生き残ったため?)、比較的潤沢な食料を蓄えていたことなどを挙げられる。また、補水施設などのアクセスも容易であったことも死亡率低下の要因であると思われる。
保健施設に過大な負荷がかかったことの原因として、94年の粛清により50%の職員が殺されたこと、避難により職員が確実に業務につけなかったことなどがある。