1995年1月17日未明に発生した阪神・淡路大震災は未曾有の惨禍をもたらした。同時にそれは、地域社会の崩壊に際して医療社会がどのように地域社会に対してその専門性を持って義務を果たすのか、という根源的な問題を提起することとなった。
震災直後、地域医療体制は地域社会の崩壊とともにマヒ状態に陥り、平素のシステムはほとんど作動しておらず、各病院・個人の独自の活動によって支えられていた。これに対して神戸市東灘区では、地域医療司令部の確立の重要性をいち早く察知した。そこで平時において地域医療システムにほとんど関与しない保健所を広範な救護所における救護医療の司令部とし、3日に1度救護所連絡会を開催し、1)地域医療機関の情報、2)保健所からの要望伝達、3)各救護班の意見集約、4)ボランティア組織の確立とそれとの連携、などを行った。その結果、震災直後司令部の最重要課題であった救護班の適正配置は、震災直後の個人を中心としたボランティアから長期対応可能な大組織派遣医療班への変更、調整が開始され震災後10日で目度が立つほどであった。
さらには、震災後10日目に避難所とその周囲での高齢者を中心とする社会的弱者の把握が保健婦・ボランティア組織によって行われ、時には福祉と連携し多くの要介護者が救出されたが、同時に彼らの地域社会への多大なる愛着と各種施設への搬送との兼ね合いという点では今後の福祉医療のあり方を再考せざるを得ない。
救護所での医療実態については、震災直後は外傷(骨折、打撲など)が主であったが長期化するにつれ呼吸器感染症への対応、高血圧・心臓疾患・肝疾患などの慢性疾患への与薬が主となった。これらに対処すべく薬物搬送などをおこなったのはボランティア組織であった。
2月以降は、救護所撤退と地域医療体制への移行が最重要課題であったため、救護所を地域医療の核と位置付けて、地元医療機関の再建と連携を図りつつ中央市民病院付属東灘診療所を経由して地域中核病院よりの中央市民病院への患者転送、さらには救護所よりの入院紹介を行った。その結果、3月末日をもって東灘区の救護班はすべて閉鎖された。現在では保健婦を中心とした避難所、仮設住宅での訪問活動が継続されている。
このように、保健所が地域保健医療の司令部として機能し得た最大のポイントは、東灘区保健所が医師コーディネーター参加の必要性を察知し、地域医療システムを熟知し、地元医療機関との仲立ちができる医師を任命したことにある。従来の固定観念にとらわれずに行動しうるコーディネーター機能の存在と医療分野に限らず速やかな司令部機能の確立は社会システムの崩壊を伴う大災害時にはきわめて重要であるといえる。これらが行政組織と両輪のごとく機能して初めて速やかかつ効率的な危機管理が行われるのであろう。
慈恵医大(稲垣芳則先生)では、合計396人が来院した。慈恵医大では高度救急をやっていなかったので外科医、内科医が集まって一般外来を中止し治療にあたった。稲垣先生と病院長が指揮を取った。
治療が進むうち、有機リン中毒の疑いがもたれていたが、その症状のひとつである徐脈がみられなかった。よってパムを投与することしかできなかった。実際サリン中毒と判明したのは午前11頃でその時から本当にspecificな治療が始まった。死亡した12名の方は来院時すでに心肺停止状態の方だけであり、来院時よりも悪化したということはなかった。治療初期段階では呼吸循環管理などの対象療法だけであったが、それでも大いに役立ち,十分であった。
今回は対象療法でで十分対応できたものの、原因物質の究明が遅かった。
日本では、医師の間でも、一般でもこういうmass-casualtyに対する認識が十分ではない。阪神大震災の頃から言われているように、このような教育や卒後のトレーニングの必要性が重要視されている。
また、triage(患者の治療優先順位を分類すること)の問題もある。普通の治療ではこういうことが無く、自分の専門領域から治療しがちである。こういった場合は患者のpriorityを重要視すべきで、それをtriageしなければならない。この役には経験豊富な医師が必ずつかなければならない。
医療と消防署、警察がうまく働かなかったことも問題であった。これらをコントロールすべき機関が必要である。
自分としては、どの科の医者になろうとも最低限の救急医療を行えるようにならなくてはならない。これからそのような経験をつんでいくことが大切である。
このことからすると大事故災害の第一線の現場で活躍する救急隊員の半分は、救急業務に精通していることが望ましい。
最初に大事故の現場に到着した隊員は、まず応援の救急車と医療器材を追加要請するかどうかを速やかに判断しなければならないし、多数の負傷者を搬入できるよう病院に最大限の時間的猶予を提供するようにしなければならない。大事故であるとの報告が遅れることが、すなわち犠牲者を増やすことになるのである。
救急車の乗務員は現場救急指揮官の役割をとりあえず引き受けることになる。すなわち、上司の指揮官がそれを引き継ぐまではその役割を果たすことである。運転者は車内に留まり、救急車と本部との交信維持に専念する。この際、この隊員は1人の負傷者を救助するよりは、他の関係機関に連絡を取り、現場への協力を要請し、事故が拡大しつつあるという情報を提供するほうがより重要である。運転手は本場に現場到着をまず連絡する。そして事故発生場所とみえる範囲での事故の概要を述べるにとどめ、詳しいことは現場に入った救急隊員が偵察を終わってから報告するようにする。報告する内容は下記のとおりである。
<大事故災害の際、最初に報告するべき事項>
E Exact locarion:正確な現場の位置 地図の座標(例:E3,F7)
T Type of incident:災害の種類 鉄道事故、科学災害、交通事故
H Hazards:危険性 現状と拡大の可能性
A Access:到達経路 どの方向から進入するべきか
N Number of casualties:被災者数 重傷度とケガの様子
E Emergency services:救助の方法 現状と今後必要な装備
最も重要なことは「大事故災害だ!」ということを可能な限り早く本部に無線で報告することである。しかし、初動時の数分で、事故の現状と拡大の可能性を掌握することは、特に負傷者の総数を簡単に把握できないときには判断が難しい。
<初期活動の要領>
運転者
・安全が確保できる範囲で現場の近くに停車する
・車屋の標識灯は回し続ける(救急活動の拠点を表示することになる)
・現場到着を司令部に確認する
・救急隊員との連絡を続ける
・上司の指令があるまで車内に留まる
・エンジンを切らない
救急隊員
・現場の偵察を行う
・本部に状況を報告する
・大事故災害宣言をする
・救急車の駐車する場所を選ぶ
・医療チームの要請、追加装備の必要性を判断する
・以下の拠点を決める、すなわち「活動拠点」「駐車場」「避難場所」
救急隊の活動目的は、現場で負傷者への最大限の手当と適切な病院に患者を輸送するよう迅速に対応することである。
<現場での救急隊員の役割
・前線での統制業務 ・生存者の救助 ・負傷者数拡大の防止 ・苦痛の除去
・他の救急隊との連携 ・受け入れ病院の決定 ・必要な医療班の誘導
・現場での資材の準備に関し保健所との連絡 ・避難場所の設定
・救急車駐車場所、患者収容場所の設定 ・適切な治療と後送の決定(すなわちトリアージ)
・負傷者の搬送方法の手配 ・負傷者の移動状況の記載
派遣元 | 要員数 | 備考 |
知事部局 | 9人 | 室長1,補佐1,事務2,技師5(土木・建築・無線・水道・看護婦) |
警察本部 | 3人 | 警察官3 |
教育委員会 | 1人 | 教諭1 |
市町村 | 4人 | 事務4(静岡・浜松・清水・富士) |
消防本部 | 3人 | 消防官3(静岡・浜松・沼津) |
ライフライン | 6人 | 事務6(東京電力・中部電力・静岡ガス・中部ガス・NTT・JR東海) |
26人 |
訓練項目 | 訓練の概要等 |
室員参集・支部派遣訓練 | 突発型地震を想定し、ポケットベル受信後参集し、車両や防災ヘリコプター等で各支部に室員を派遣する訓練 |
室員支部支援業務図上訓練 | 支部の支援業務の検証等を目的にしたSPECT室員の図上訓練 |
防災機器取扱訓練 | 発電発動機や可搬型衛星地球局、防災無線機器等の取扱等を習熟 |
情報伝達訓練 | 防災行政無線等による本部一支部、支部一市町村間の情報伝達、またその支援 |
支部要員研修訓練 | 支部での防災業務に係る研修および訓練の支援 |
支部イメージトレーニング | 各支部の総括弧におけるイメージトレーニングの実施と支援 |
支部図上訓練 | 各支部の総括弧における図上訓練の実施と支援 |
市町村イメージトレーニング | 市町村の災害対策本部におけるイメージトレーニングの実施と支援 |
市町村図上訓練 | 市町村の災害対策本部における図上訓練の実施と支援 |
津波避難訓練 | 津波対策推進旬間における各沿岸市町村の訓練を支援 |
総合防災訓練 | 9月1日、中央防災会議が中心となる訓練で、支部開設訓練等を支援 |
地域防災訓練 | 12月第一日曜日の「地域防災の日」の自主防災組織中心の訓練の支援、視察 |
防災船訓練 | 支部・市町村・自主防災組織・防災関係機関が参加する防災船「希望」による緊急物資輸送、漂流者救出等の訓練を実施、支援 |
ライフライン防災訓練 | ライフライン関係機関相互および行政機関の災害復旧合同訓練の実施、支援 |
市町村防災ヘリポート設営訓練 | 負傷者搬送訓練や上空偵察等に使用する防災ヘリポート設営を支援 |
米国では、国内のいかなる災害にも素早く対応するため、連邦政府による災害政策の制定が、長年にわたって試みられている。
歴史的に見ると、緊急災害への連邦政府の対応は、1950年に制定された米国最初の災害救急法・市民防衛法(The Civil Defence Act)をきっかけとして大きく変わった。
緊急災害時における米国での連邦政府の対応、FEMAの役割を上述したが、多数のけが人は戦争に限らず、自然災害、火災、爆発事故、列車・飛行機事故などでも起こる可能性はある。
CMCHSは、軍関係者でけが人が多数発生した際、退役軍人病院以外の任意の民間病院が、国防総省に協力するためにベッドを確保しておくシステムである。
以上見てきたように、米国の災害医療は、平時のみの災害を対象としている日本と異なり、戦争時を含んだ形での総合的な緊急救急医療としての位置付けが行われている点に、特色があるといえる。